『J REPORT 2020年1月第3週号』
「リタイアメント・ノート 11年7か月目」
「VOL.1142号 SINCE AUG.12th, 1983」
「同期の新年会」
今、日経新聞に掲載されている「私の履歴書」の日本証券業協会会長のS氏と同期卒業の学友たちだ。中学からの友人もいれば、高校からのフットボールの仲間や、大学からの仲間もいるが、基本は昭和22年か23年生まれ、あるいは24年早生まれの昭和46年卒業の仲間たちだ。年に1度しか来ない仲間もいるが、いつも10人前後集まっている。(写真:同期)
所謂団塊の世代で厳しい競争社会を生き抜いてきたなどと言うと、如何にも大袈裟だ。我々はそんなことなど関係なく、どうも実にいい時代を生きてきたような気がする。確かに学歴を求めての入試等は大変だったかもしれないが、卒業後日本経済は常に上向きで収入は上がる一方だった気がする。極々恵まれた集団の数少ない仲間たちなのかも知れない。また来年も元気で集まろう。
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「朝顔」
「朝顔」
江戸時代は260年余も続いたが、平和が定着して武士階級もやることがなくなると盆栽等にのめり込む人たちが増え、また商人も余裕が出て、新しい花を作ったり愛でたりするのが流行ったようだ。朝顔などは特にその傾向が強く、新しく掛け合わされた新品種が沢山出来たという。街の片隅にひっそり咲いていた朝顔でした。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?73」
「江戸前寿司」
江戸前の寿司のネタは、玉子焼き、車海老、白魚、まぐろの刺身、こはだ、穴子、海苔巻きが定番。その他ネタの入荷次第で、鯛、すずき、鯵、かつお。玉子焼きが一つ16文、あとは8文。寿司は元々は料理屋で出していたが、屋台が出来て爆発的に人気が出た。今で言うファーストフードになったのだ。日本人は兎に角あっという間に海外のものでも自分なりに工夫して吸収してしまうが、この寿司の考え方は酢飯を使うという発想が生ものに生かされたという点で素晴らしい発明でした。
「バチカン」
「バチカン」
午後からの観光は時間的な制限もあり、「コロッセオ」と「バチカン市国」を巡った。私は共に1990年と1998年に訪れている。最も行きたかったのは「フォロ・ロマーノ」なのだが、今回はコロッセオは外からのみ、バチカンは「バチカン博物館」、「システィーナ礼拝堂」、「サンピエトロ大聖堂」を早足で内部見学した。システィーナ礼拝堂では写真撮影禁止なのに撮影する馬鹿がやはりいて警備員に写真を削除されていた。カソリックの総本山であるバチカンは非常に裕福であり、ローマ市内にも沢山の建物を所有しているという。バチカンには多い日には20数万人が訪れるというが、本日は比較的少なかったので助かった。「フォロ・ロマーノ」はローマ帝国時代のローマの中心地であり、色々な神殿だけでなく、国政の中心である「元老院」があった所だ。そこでBC44年3月15日、「ユリウス・カエサル」英語名「ジュリアス・シーザー」が暗殺されたのだ。有名な台詞「ブルータス、お前もか!」が叫ばれた場所でもある。ブルータスはスーザーの義理の息子でもあったのだが、元老院の圧力に負けてしまったのだった。ここには1998年にも行っているが、もう一度行きたかった。そして最後は「スペイン階段」と「スペイン広場」、「トレビの泉」を観てきたが、人ばかり多くて、また泉は工事中であり、疲れただけだった。「ローマは一日にして成らず」だから観光も一日、いや半日では全く不可能だ。「ただローマに行って来た」というだけだ。相変わらずローマ市内の交通渋滞は酷いし、現地の人たちの運転マナーは最悪だし、どこへ行ってもイタリア人のいい加減さに呆れる旅だ。単車が多いのには驚かされた。食事はツアー飯にしてはまあマシだろう。それと物価が北欧ほど高くなく助かった。円安が進んでいるが、それほど旅には影響していない。ビール大瓶で@3.5ユーロ、約500円、ワインはフルボトルで@14ユーロ、約2000円、リーズナブルだろう。写真はサンピエトロ大聖堂の主祭壇。
「ジャンプ台」
「ホルメンホーレンのジャンプ台」
ストックホルムの中心部から車で約20分ほどの丘の上にジャンプ台はあった。札幌の大倉山シャンテのようにストックホルム市内に向って飛ぶような雰囲気だ。実際にジャンプ台を観たのはカナダのカルガリーのジャンプ台に続いて2回目だった。毎年「世界選手権」が20数回行われるが、ここでも毎年行われるという。高梨沙羅選手は飛び過ぎるとのこと。確かにジャンプの着地部分を見てみると、所謂「K点」というのがありここが一番底の部分でそれから先は徐々に高くなっているのがよく分かった。だから飛び過ぎると壁に向ってぶつかって行くような形になって着地しなければならず、着地が難しくなり、これにより高梨選手は2点づつ4人の審判から飛形点を減点されてしまうという。だからハンディキャップが大きくなり、優勝を逃すケースになるという。本当に壁にぶつかるような着地を選手はこなしているのだから、驚くしかない。
「ストックホルム」
「ストックホルム」
土曜日の午後からはスウェーデンのストックホルムに飛行機で移動。空港から旧市街に入って夕食後、ホテルに到着した。ストックホルムはオスロと比べると暖かい。多分20度はあるだろう。だから歩いている人を見ても、オスロはダウンや革ジャンを着ていたのが、殆どが半袖だ。建物も高いし大きい。約90万人の人口だから、オスロとは比べ物にならないのだろう。物価もどうやらオスロより安いようだ。レストランで飲んだビールだけで比較すると、オスロの半額に近い。6掛けかな?ノールウェイはEUに加盟いていないが、殆どのことはEUと同じで人々の移動も全く制限がなかった。豊かな国ノールウェイにも乞食がいた。但し彼らは東欧のジプシー系の人たちだという。移動に制限がないからやってきて乞食をしているのだという。オスロの飛行場には「回転寿司屋」があった。生ものは殆どサーモンだった。機内に入ったら白人のおばちゃんが寿司を食べていた。「あっ、寿司を食べている」といったら「日本人か?」と話しかけて来た。聞いてみると旦那さんは日本男性で子供の名は、「金太郎」と「桜」だという。まあ面白い話しもあったものだ。金太郎22歳は兵隊で沖縄にいるというし、驚きでした。彼女も日本に住んでいたこともあり、温泉や浴衣の話しで大いに盛り上がった。さてスウェーデンは「59か国目」の訪問国だ。この国も高福祉国家だという。ノールウェイ同様「王国」、所謂「立憲君主国」だ。フィンランドは「共和制」だが、デンマークも王国だ。ヨーロッパは王国が多い。イギリス同様「君臨すれども統治せず」だ。政治的には全く力のない王様なのだ。日本の天皇制と同じなのだろう。王様も象徴なのだ。
8月17日(日曜日)
ストックホルムの市内観光。その前に雑学だが、このスウェーデンは200年間戦争していないという。第一次も第二次世界大戦も不参戦だったというから凄い。地方税は例えばストックホルムでは29.95%、国税、消費税を合わせると大体収入の半分が消えるという。さて、ノーベル賞の授賞式を行うのが「コンサートセンター」でこれは市内中心部にあったが、大した建物ではなかった。薄水色の意外に小さな建物で逆に驚かされた。また、授賞式後のレセプション会場は「市庁舎」でこれは旧市街にある落ち着いた建物で400年ほど前からあるというレンガ造りの趣ある建物だった。もう一つ驚いたのが「寿司屋」が多いこと。日本人はこの街に1500人程度住んでいるらしいが、寿司屋の多さには日本人気というか、日本食人気というか、寿司人気というか、凄いと思わざるを得なかった。航空会社はスカンジナビア航空を使っての移動だが、これがまたLCC並の素早さだ。我々が乗る飛行機が到着すると乗客が降りて来て、直ぐそのまま我々が乗る。だから到着後、出発までほぼ20分。だから当然掃除などしていない。荷物の出し入れだけのようだ。これでないとそれこそLCCに太刀打ちなど出来ないだろう。またアルコールもエコノミーは有料だというからLCC並である。「シリア・ライン」という客船での船旅でフィンランドの首都ヘルシンキに向かう。バルト海を西から東へと横断する船旅だ。「シリア・セレナーデ号」という客船だった。5万8千トンのクルーズ船だ。船旅はイタリアのシシリア島パレルモからミラノへの旅をしたことがある。今回はもっと本格的な船旅でカジノも付いているという。まあギャンブルは下手なので手出ししないほうがよいだろう。
ということで、乗船した。3000人定員の船で今回は2000人以上が乗っているという。カジノやらバーやらがあり、買い物もできる便利な船旅だ。夜のバルト海を走る。空は雲に覆われていて星も見えない。揺れも殆どなく朝を迎えた。
写真はストックホルム市庁舎でここでノーベル賞が授与されるという。
「豊洲市場」
「豊洲市場」
色々あったようだが、地盤改良が終了し、入札も無事終わって、工事もこの春から着工されていて、いまや重機が林立している工事現場が見える。先日永年の夢であった「虎ノ門」と「新橋」の間の道路が完成した。一部がビルの中を走るというものだが、これが汐留経由で隅田川河口の橋を二つ超えると「豊洲」に着く。そこが「新市場」なのだ。「東京オリンピック」の会場や選手村に隣接したこの道路は「豊洲市場」のメイン道路となるのだから、早く完成させてもらいたいものだ。写真の手前は高速道路豊洲出口なのだが、これまでは豊洲で降りるだけだったが、更に延伸して銀座方面にすぐに行けるように「勝鬨」までの延長工事も始められた。刻一刻と変化する豊洲でした。
「猪牙船」
「猪牙船」
水の町でもあった江戸は水路が網の目のように走っていた。それは今でも沢山の川や橋があることからも推察される。そこで活躍したのが「猪牙船」(ちょきふね)と言われるものだった。舳先が猪の牙のように尖っていたことから、猪牙船と呼ばれたが、少人数を乗せるのに便利で小回りも聞き、いわば「江戸時代の水上タクシー」のようなものだった。庶民は基本は歩くことが移動手段だったが、この船便は非常に便利だったといえよう。猪牙船は「船宿」や渡し場にあり、歩くよりも楽にそして早く目的地に着くことが出来たという。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?47」
江戸の町の警察官といえば「同心」たちだ。ごく身分の低い武士階級の最下層の人たちが同心だったが、不思議なことに彼らの刀は「刃引き」と呼ばれたもので人を切れなくした刀を通常は持っていたという。これは逮捕することが目的で殺すということが目的ではなかったことに由来するらしい。江戸時代になると武士階級でもめったに刃傷沙汰は起こさなかったというし、寧ろ刃傷沙汰は問題視されたというから、平和な時代になって行ったのだろう。だから警察官役の同心もむやみに人殺しはしなかった。一方、鬼平犯科帳で有名な「火盗改」などは凶悪犯に立ち向かうとして逮捕ではなく殺してしまうことも許されていたらしい。
「キトラ古墳壁画展」
「キトラ古墳壁画展」
テレビで知ったので上野の「国立東京博物館」に「キトラ古墳壁画展」を観に行った。ちょっと小さな展示会で展示物も少なかったが、明日香村で見つかった古墳の壁画が公開されるというまれな展示会なので興味深く観て来た。1400年前の古代のロマンを伝える見事なものだが、これも東西南北に「朱雀、白虎、玄武」や、十二支の「子」「丑」、天井には星座が描かれていたが、石室の壁に漆喰を塗り、その上に絵の具の極彩色は、当時の最高の文化芸術だったろうと想像出来る。それはそれは素晴らしいものだったが、時間の経過による劣化が著しく保存状態は必ずしもよくはない。大変残念なことではあった。
「天空のプール」
「夜の天空のプール」
二日目の朝、朝食の後、屋上のプールサイドに行った。3つのホテルタワーの屋上部分(57階)を一つのプールで繋いだものだったが、確かに「天空のプール」だった。プールの水の先がそのまま下に落ち込んでいるような造りには、知ってはいたが驚きだった。ジャグジーもあり、家族連れが早朝から楽しんでいた。朝7時、太陽が東の空から昇ってきた。今日もまたシンガポールは動き始めた。週末の土曜日ということもあり、どこも人出が多い。やはり中国からの客が多いようだ。さてお定まりの観光コースを廻る。「シンガポール川河畔、マーライオン、新しい植物園、スカイウエイ、チャイナタウン、インディアンタウン、アラビアタウン」等だ。シンガポールには「徴兵制」がり、男子は高校卒業後「2年間の兵役義務」があるとのこと。少子化は日本より酷く、このままでは女子も徴兵しないと兵隊が足りなくなるらしい。子を産まない若い人たち。どこの先進国も悩みは同じだ。また平均寿命は高いのに長寿ではなく、100歳以上の老人は10人程度だという。現在の人口が540万人、これを政府は2030年までに690万人にするという目標を掲げているらしい。そのためには150万人の移民を受け入れるという。これは将来の日本にも共通する課題だ。昼食後、一度ホテルに戻る。今回は地下鉄のカードを買った。12S$(デポジット5S$)だ。何度乗れるかなあ。地下鉄網は発達しているので、乗り換え、乗り換えでどこにでも行ける。この地下鉄、日本より車両の幅が大きい。新幹線よりも大きいのではないだろうか?広軌だから同じか。カードは日本の交通系カードと同じSONYのフェリカのようだった。さて聞くと、シンガポールの小学生、中学生の生徒さんたちは激しい競争に幼い頃から晒されているらしい。直ぐに能力別のクラス分けで振り分けられてしまい、それが将来の進学に反映されてしまうという。毎年クラス替えがあり、ある意味実力を色濃く反映させたシステムのようだ。良いにつけ、悪いにつけ、競争社会であることは事実のようだった。確かシンガポールの学童学力テストは世界的にも上海に継いで2位だったはずだ。夜は、再度天空のプールに行ってみたが、朝ほど感動しなかった。まあこんなものかというより、夜景が何か疎らに光り、昨晩の夜景の感動はなんだったのか?と思ってしまった。土曜日なのでオフィスが休みで電気が付いていないのが原因なのだろうか?多分そうなのだろう。マリーナ・ベイ・サンズの対岸は金融機関を中心としてオフィスビルが大半だから。
「2014年の映画のお話し」 2013年は221本の映画を観ました。
映画「フルートベール駅で」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年45作目)
2009年の元旦、新年を迎えたばかりの電車の中で起こった揉めあいの末、無実の黒人青年22歳が警官によって撃ち殺された事件を克明に再現したもの。
映画「ローン・サバイバー」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年46作目)
アフガンでの任務で潜入した4人の米海軍「シールズ」の兵士達を待ち受けていたのは200人のタリバン兵だった。そしてたった一人だけ脱出できた事実の物語。
映画「ワンチャンス」(TOHOシネマズ有楽座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年47作目)
イギリスはウェールズの男性は子供の頃からオペラ歌手になるのが夢だった。イタリア留学までしたが、夢は挫折した。だが、テレビの素人タレント発掘番組に挑戦し、勝利を得るのだった。
映画「神様のカルテ2」(TOHOシネマズスカラ座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年48作目)
松本の「24時間365日」活動している病院の若い医師を描く第二作目。医師が直面する悩みや病院はビジネスなのかを問う。
映画「ウォルト・ディズニーの約束」(TOHOシネマズシャンテにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年49作目)
「メリー・ポピンズ」の映画化に際して、原作者の女性とディズニーとの契約裏話。秘話でした。
日経新聞3月28日付け夕刊「シネマ万華鏡」の評価によれば、「ウォルト・ディズニーの約束」が3つ星、「インミチ」が4つ星、「フルートベール駅で」が3つ星、「LIFE」が3つ星、「LEGOムービー」が3つ星、「ローン・サバイバー」が3つ星、「オーバー・ザ・ブルースカイ」が4つ星でした。
「私の去年2014年の映画の評価は?」
今年の★★★★★は、
今年の★★★★は、「小さいおうち」「アメリカン・ハッスル」「ウルフ オブ ウォールストリート」「光にふれて」「ダラス・カーボウイズ・クラブ」「それでも夜は明ける」
「2014 旅の記憶シリーズ」 2013年の旅では、「ペルー」が51カ国目、「南アフリカ」が52カ国目、「ジンバブエ」が53カ国目、「ボツワナ」が54カ国目、「ザンビア」が55カ国目でした。
2014年の国内旅行は、第一回目は九州福岡と水俣(1月)、第二回目は能登(1月2月)。第三回目は長崎(三月)です。
2014年の海外旅行は、トルコ(1月、3度目)、台湾(2月、3度目)、シンガポール(3月、X度目?)です。
「2014 歌舞伎観劇シリーズ」歌舞伎座にて★★★「今年2回目」
「鳳凰祭三月大歌舞伎」夜の部「盲長屋梅加賀鳶」
「2014 本の記憶シリーズ」 2013年は本を350冊読みました。
「家光の陰謀」(藤井 邦夫 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年64冊目)「乾 蔵人 隠密秘録」シリーズ第6弾
「幻剣双猿」(鳥羽 亮 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年65冊目)「隠目付江戸日記」シリーズ第8弾
「紅川疾走」(稲葉 稔 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年66冊目)「剣客船頭」シリーズ第9弾
「ふらっと銀次事件帳」(牧 秀彦 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年67冊目)「天ぷら長屋の快男児」シリーズ第1弾
「シャドー・ストーカー」(ジェフリー・ディーヴァー 著)文芸春秋刊 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年68冊目)「人間嘘発見器キャサリン・ダンス」シリーズ第3弾
「開港」(佐伯 泰英 著)講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年69冊目)「交代寄合伊那衆異聞」シリーズ第20弾
「相抜け左近」(坂岡 真 著)双葉文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年70冊目)「帳尻屋始末」シリーズ第3弾
「火の見櫓」
「元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か?」(竹村公太郎氏著、「日本史の謎は地形で解ける」より)
理由の一つは、蒙古の得意とする戦法が日本では使えなかったこと。次が「藪蚊」のために夜は船に戻って寝るしかなかったこと。そして台風が襲ってきたこと。得意な先方とは騎馬戦で平原で大軍同士で戦うことだった。驚きの戦法は牛を横に10頭ほど並べ、そこの後に騎馬兵を置き、敵に突入させるような戦法もあったという。これは狭い日本の国土では仕えない。騎馬戦自体が単騎同士の戦いになって集団での戦いにならなかった訳だ。また博多周辺は湿地帯で「藪蚊」が大量にいて、蒙古兵たちは日中は戦いで上陸していたが、夜は藪蚊から逃れて船に戻って寝ていたらしい。上陸していたならば、嵐で船が沈没しても命は助かったのだが。また、日中の戦いも日本側は今で言うゲリラ戦法で林や山に潜んでいて、突然現れたり、弓矢を放ったりして、激突はしなかったことも蒙古に不利になったという。歴史とは何と面白いことか。
「日本はなぜ欧米列強の植民地にならなかったか?その2」(竹村公太郎氏著、「日本史の謎は地形で解ける」より)
前回、自然災害が欧米人に恐怖を与えたと書いた。もう一つの理由が「日本は負けなかった」ということらしい。連戦連勝で植民地を造ってきた欧米列強だが、日本で戦った二つの戦争では結果として負けてしまったというのだ。まず「薩英戦争」では、英国海軍は旗艦艦長、副艦長はじめ11名の死者を出した。一方の薩摩軍は500戸も民家を焼かれたが、死者は民間人5名だけで、英海軍は3日後には燃料不足等で横浜に撤退してしまった。また「下関戦争」では、上陸した英仏米蘭4カ国連合軍は長州軍のゲリラ攻撃と田んぼのぬかるみに足を取られ、下関を制圧出来ずにこれも撤退した。なぜ、圧倒的な火力があったにも拘らず、日本軍に勝てなかったのか?竹村氏はそれが日本の地形に由来する特徴だといっている。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?42」
「火の見櫓」
江戸の町の名物にも数えられたのが「火事」だった。「明暦の大火」(振袖火事とも言われた)では、「江戸城本丸」も失った。江戸の町の大半が燃え尽きた後、「火除け地」が設けられ、町と町とを区切る空地も出来た。また同様、「火消し」の制度も設けられ、「町火消し」「大名火消し」が組織化された。一方で火事を発見する「火の見櫓」も建てられ、火事の早期発見と庶民への通報が重要なものとなっていった。「カン、カン、カン、カン」と半鐘が鳴ると、近ければ連打され、遠ければ間隔を空けて打たれた。それにより火事場の遠近が分かったと言う。