「行く年、2016」
「穴八幡」
早稲田にある「穴八幡」、古い神社だが、江戸時代から「商売繁盛」の神様で人気を集めているが、お馴染みの「一陽来複御守り」などを買い求める人の列があった。(写真:1)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:2)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
このお守り札は冬至から節分まで売られているのだが、縁起物だから冬至の日に買った。平日だったので、35分並んで買えた。それにしても凄い人出だ。(写真:3)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
境内の端に神武天皇がここに来られたと記された碑があった。(写真:4)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
神武天皇は本当にいたの?伝説ではないのか?と疑わずに信じよう。
「富士山二景」
冬の澄み切った空に浮かぶ富士山の美しさは日本の象徴のようなものだ。まずは夕焼けをバックにした富士山。(写真:富士山と夕焼け)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そして朝の陽を浴びる富士山。(写真:富士山の朝)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
今年もどうやら無事に暮れそうだ。私のとっての今年は、まずは孫息子の誕生だ。勢古口家を継ぐ孫の誕生ほど嬉しいものはなかった。来年もまた新しい孫の誕生を望がう爺様でした。
「TOKYO BOWL 屈辱の惨敗」
12月25日クリスマスの日の横浜スタジアム。関東2位(母校)と関西2位(立命館)同士の戦いが「東京ボウル」だった。結果から申し上げると母校は惨敗だった。先輩曰く、「モティベーションは何か?」という通り、母校にはやる気が見られなかった。屈辱の「6:44」。話しにも何もならなかった試合だった。試合開始直前のハドル。(写真:1)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
ハーフタイムショー(写真:2)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
ハーフタイムショー(写真:3)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
タックルミスを連発し、パスインターセプトを5回もされ、何もかも全て悪かった。モチィベーションがなかったといえばそれまでかも知れないが、こんなみっともない試合をしてもらいたくなかった。4年生は最後の試合だし、3年生は新チームを目指しての試合ではなかったのか。有終の美を飾るどころか、屈辱の日になってしまった。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
今年の我が母校のフットボール部は関東リーグ上位校のTOP8で残念ながら優勝を逃し、2位だった。しかし、優勝した早稲田にはリーグ戦では勝利し、その早稲田は大学日本一を決める甲子園ボウルで関学に大敗を喫した。大学フットボール界は西高東低が著しい。当分この傾向は続くのだろう。また、高校も関東大会で佼成学園に負けてしまったが、その佼成が全国選手権では関西代表の関学高校を破り日本一になった。決勝で佼成に10:14で惜敗しただけに本当に残念なシーズンだった。大学、高校共に来年に再起を図ろう。
「正月飾り」
写真は銀座三越にあった「正月飾り」だ。(写真:正月飾り)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
江戸時代から正月飾りは師走の「二十八日」に飾るというのが伝統なのだというので、我が家でも二十八日に松飾りを飾った。
「銀座の夜」
今年は、2月に「キューバ」(65カ国目)に行ったほか、4回の海外旅行をした。キューバ以外は何度も訪れたことがある国だ。2008年は6回、09年は11回、10年は6回、11年は4回、12年は4回、13年は4回、14年は9回、15年は7回、16年は5回だった。海外を旅すると恐らく大半の日本人が感じるのは日本の安心安全と食の美味しさだろう。そんな素晴らしい国、日本の銀座には今年も沢山の外国人観光客が訪れた。銀座も年の瀬を迎えている。(写真:銀座の夜)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
銀座5丁目の角のサッポロビールのビルも建て直された。(写真:銀座5丁目)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
1階と2階には「日産ギャラリー」が入っている。数寄屋橋にあるSONYビルも3月には壊される。今年も銀座は次々と変化して行く。
「手前勝手世界食物語、第434号」
「築地場外市場」
東京の食といえば、「築地」だろう。昔、日本橋川の北側、即ち室町側に川に沿ってあったのが、関東大震災後に築地に移転したのが、その始まりだという。場内市場はプロ相手の仲卸だが、場外市場は一般の人たちも、勿論プロの人も訪れることが出来る都内有数の観光名所だ。晦日の日に訪れてみた。いやあ、もう凄い人出でとても入っていく気にならなかった。(写真:築地1)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
人気の商品は、「マグロ」と「蟹」だ。タラバの足が並んでいる。(写真:築地2)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
今年は円安や資源減少の影響で値段が上がっているという。(写真:築地3)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
路地、路地は大混乱、大混雑だ。どうしてこんなに人が集まってくるのだろうか?安い買い物をしたいという欲求だけなのだろうか?不思議でならない。まるでお祭りのようだ。(写真:築地4)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:築地5)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
外国人も沢山来ている。勿論買い物ではなく、観光なのだろうが、こんな風景が珍しいのだろうか?兎に角混雑ばかりが目に入って、とても買い物をする気がなくなった。(写真:築地6)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
築地交差点角には多くの食事処が立ち並ぶ。どの店もお客で満杯でした。(写真:築地7)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
来年の年末も築地の場外市場はまだまだありますよ。ご安心ください。
以上、年末の東京から勢古口がお送りしました。
「国宝を巡る旅。金印」
8月の大分復興割後の久し振りの3S会の旅だ。今回も復興割を利用した。早朝の羽田から福岡に飛ぶ。生憎の雨が降っていて更に寒い。タクシーで「福岡市博物館」へと。目的は「金印」だ。博多は弥生時代から海外への窓口だったところだ。「倭寇」の拠点でもあった。倭寇とは貿易を行う集団で、一部では海賊だとされていた。さて問題の金印は入口近くに置いてあり撮影可だった。中国の後漢書に記載されているのだが、後漢の光武帝が「印」を与えたというもので、「漢委奴国王」と刻まれた重さ108gの金の印鑑だ。(写真:金印1)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:金印2)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
これが発見されたのは1784年、博多沖の志賀島で農民が発見したという。「漢の皇帝から奴(な)国の国王に与えた」の意味だという。(写真:金印3)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:金印4)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
小さいが実に立派な国宝だった。この金印の利用方法なのだが、重要な書類を入れた箱などを紐で結んだ結び目に粘土を貼り付け、それに印を押し、未開封の状態としたのだという。ここが大陸や朝鮮半島への窓口だったことの証拠でもあろう。よく見つかったものだ。
次が「遣唐使」だろう。(写真:遣唐使船5)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
200年間の間に十数度派遣されたが、その帰国率は50%程度だったという危険を伴う航海だった。しかし、中国の力も落ちたころから、もう吸収するものはないとして中止を進言したのは「菅原道真公」だったそうだ。
博多は商人の街だ。一時日が消えかけた街を再生したのが、秀吉で太閤町割りを実施、その町割りから出来たのが「祇園山笠」だ。(写真:山笠6)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
昔は高い山笠だったが、ある時代から競争するようになり、小さな山笠と高い山笠の二つが出来たという。走るのは小さな山笠、飾っておくのが高い山笠なのだ。さて、江戸時代には「黒田長政」が藩主となり、城を築き、武士の町「福岡」を造った。商人の町「博多」と武士の町「福岡」が出来た。黒田節で有名な槍もあった。(写真:槍7)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
現在の福岡は九州一の都市であり、また東アジアへの窓口としても栄えている。
昼食は天神の「割烹 よし田」に行った。3S会の二人には是非ともこの店の「鯛茶」を食べてもらいたかったからだ。鯛茶は、鯛の刺身に胡麻、醤油、山葵が掛けられているが、まずはこれを充分にかき混ぜる。(写真:鯛茶8)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そして最初は刺身で食べ、次に刺身をご飯に載せて、最後は刺身と醤油を全部ご飯に掛けて、そこにお茶を掛けて茶漬けで食べる。(写真:鯛茶漬け9)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
実は3人なので「呼子の烏賊」を頼んだのだが、時化で入荷していないということで「天麩羅」に変えた。(写真:天麩羅10)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
いつもながら混雑している。本当は夜に来て食べるつもりだったが、予約で満席ということで、已む無く昼にしたが、それでも次から次へと客が訪れる。美味いものは皆知っているということだ。満腹になりました。美味しかったです。
「九州国立博物館と太宰府天満宮」
雨が止まないようなので予定していた「宗像大社」を最終日に変更して、大宰府に行った。天満宮の参道は殆どが外国人、それも韓国と中国の人ばかりだった。日本人は極わずかだ。まずは「九州国立博物館」に。本当に大きなドーム型でガラス張りのユニークな建物だ。私は3度目だ。(写真:建物11)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
中には「博多祇園山笠」の高いほうのが展示されていた。(写真:山笠12)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
16mの高さがあるものだ。館内は撮影禁止なのでご勘弁願うが、ボランティア・ガイドの人を頼んで案内してもらった。朝鮮での戦いに敗れた後に、敵の侵略を恐れ、大宰府を守るために内陸部へ移り、山と山の間に「水城」(みずき)を設けて塁とした。その建設方法の模型があった。(写真:水城13)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
大宰府の役所の模型もあった。(写真:大宰府14)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
海外から訪れている人と日本の役人か?(写真:大宰府の人達15)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
2時間たっぷりと案内してもらった。そして菅原道真公が神様として祭られている「太宰府天満宮」へと戻る。博物館と天満宮の間には屋根付きのエスカレーターや動く歩道があり、一体いくら費用を掛けたのだろうか?と驚かされる贅沢振りだった。天満宮も雨に濡れていた。(写真:天満宮16)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
中では祝詞があげられていた。(写真:神殿17)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
名物の梅は勿論咲いてはいない。(写真:梅の木18)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
参道の途中にある「スタバ」の表は木を組み合わせた不思議な造りだった。(写真:スタバ19)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
博多駅に戻り、例の陥没現場を訪れた。未だ工事は中断したままだという。(写真:陥没現場20)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
それにしても寒い日だった。
「唐津城」
二日目も今期最低気温だという。レンタカーでまずは博多湾の「防塁」を訪れる予定だったが、兎に角凄い雨と風なので、中止にして一路唐津へと向った。しかし、城は補強工事中ということで場内には入れなかった。(写真:唐津城21)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
スーさん、サワサン(写真:22)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
城は40m近い山の上にあるので、眺めはよい。「虹の松原」は雨に煙っていた。(写真:虹の松原23)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
この唐津は最初は秀吉子飼いの寺沢氏が入って来たが、徳川幕府の時代は譜代大名が入り、九州の外様大名への押さえとしての役割を果たしていた。
「唐津くんち曳山」
一昨年、偶然に博多にいた時に当日「唐津くんち」があることを知り訪れたが、今回は「曳山展示場」で動かない現物を観た。この祭りもユネスコの「無形文化遺産」に登録されたものだ。元々「唐津神社」の例大祭だったという。1番から14番まである曳山だが、1番曳山のみご覧に頂く。(写真:1番曳山24)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
刀町の「赤獅子」と呼ばれるものだ。中々勇壮な祭りで曳山をかなりのスピードで引き回す。上下にも動くので祭りでは町中の人たちが出てきて盛り上げていた。昔の絵にも盛んな祭りが描かれていた。(写真:くんち絵25)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
「くんち」「おくんち」の意味は神様にお供えをするということらしい。
「肥前名護屋城址」
420年前、秀吉の号令の下、全国から集まった大名は120を超えていたという。いかにも秀吉の権力を象徴している出来事だった。そこが「文禄、慶長の役」で朝鮮派遣軍の拠点となった「名護屋城」だ。この城は黒田勘兵衛が設計(城割り)し、たった5ヶ月で完成させたという。その規模は大坂城に次ぐものだったというから大きさが分かろうというもの。数百人の漁村が何と30万人の大都市となったというから驚きだ。多分、当時では日本一の規模の町だったと想像される。名護屋城を中心にして3kmの円の中に陣屋が出来た。城は区割りされて、それぞれの区割りを大名に割り当てて建設が行われた。石垣の石は現地調達された。この写真は通路の右と左とで石垣の模様が違うのが分かる。(写真:石垣26)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
担当した大名により積み方というか石の加工の方法が違っていた。そして5ヶ月で完成した城の周りに大名の陣屋が築かれた。徳川家康も1万5千人の兵を連れて参じている。その陣屋跡が目の前の小高い山だったという。(写真:家康陣屋跡27)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
家康の陣屋は二つに分かれていて、家康は名護屋城側の陣屋に、部下は入り江の向こう側の陣屋にいたという。これも秀吉の家康警戒感から来たものなのだろうか?この名護屋城、問題は水の確保にあったらしい。近くには遊郭も出来たらしい。さて朝鮮での戦いは最初はあっという間に日本軍が勝ち進むが、進みすぎて兵站が伸び過ぎ、中国朝鮮連合軍と講和して撤退した。その後再度の戦いを起こしたが、秀吉の死で撤退するまで7年間この地に城はあった。家康の時代になり、この城は破壊された。石垣は角の部分が徹底的に破壊された。(写真:石垣の破壊28)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そして「島原の乱」で反乱軍の残党が籠もると困るということで、再度破壊された。城址の一番高いところに「天守閣」の跡があった。(写真:天守閣跡29)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
寒い。強風が吹き荒れている。本当に寒い。秀吉は側室二人を連れてきていて、能舞台も造り、また人口の池を造り、船遊びをしたという。延べ1年数か月、秀吉はこの城で暮らした。この場所は玄界灘に面しているものの、沖近くに島があり、非常によい船溜まりが沢山あるので船の集結によい場所だったらしい。(写真:玄界灘30)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
秀吉が造った城で現存する唯一の石垣が名護屋城址だというから貴重なものだ。今回も一人100円で現地のボランティア・ガイドさんをお願いしたが、寒風吹き荒ぶなか、大変興味深いお話しで勉強させられた。ここから見えるのは玄界灘に面した「玄海原発」。今は休止しているが来年8月には再稼動するという。町の人10名ほどが「原発のゴミ処理場」を誘致する運動を起こしているというから世の中分からない。(写真:玄海原発31)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そろそろお腹も空いたので呼子の町へ向う。ガイドさんお薦めの「河太郎」という店に行くが、やはり烏賊は揚がっていないという。店主に教えてもらった名護屋にある「大和」という店(河太郎の暖簾分け)に行くと何とか烏賊が確保されていた。烏賊刺しが出てきた。「あおり烏賊」だという。透明な身が美しい。まだ生きている。(写真:あおり烏賊32)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:あおり烏賊33)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
烏賊シュウマイが出てきた。(写真:シュウマイ34)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
烏賊のゲソを生で食べると吸盤が口の中で吸い付いてくる。そのゲソは天麩羅で食べた。(写真:ゲソ天麩羅35)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
暖かい天麩羅はやはり美味しい。烏賊1杯を3人で食べたが、充分満足だった。海が荒れていて漁に出られないために烏賊は獲れていないというので今回は烏賊は一回しか食べられなかった。
「吉野ヶ里遺跡」
玄界灘に面した唐津から有明海に面した佐賀平野にある「吉野ヶ里遺跡」を訪れた。2002年に出来たという入口の巨大な建物を私は初めて見た。ここに来たのは1999年から2000年だったから、まだ殆ど発掘途中で何もなかった気がするが、大きく遺跡は変貌を遂げていた。寒い中、それぞれの施設には当時の服装を模した案内人がいて、求めれば説明してくれる。まず入口の門がある。上に鳥の模型が置かれていた。当時の人たちは鳥を神様の使いのように考えていたようで、門の上には必ず鳥の模型があったという。(写真:鳥36)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
これが今の神社の「鳥居」になったという。発掘して柱跡が分かるとその位置に竪穴住居を復活させていた。勿論想像の域を出ないが、多分こんな形で暮らしていたらしい。(写真:王の家の内部37)OLYMPUS DIGITAL CAMERA OLYMPUS DIGITAL CAMERA OLYMPUS DIGITAL CAMERA
この一体は紀元前5世紀から紀元前2世紀の弥生時代前期から3世紀に掛けての弥生時代後期の住居跡だ。二重の堀と更にその間に高い柵を巡らし、敵から防御したという。徐々に身分の差が出来て、王や神官、巫女といった人たち、所謂支配階級も出てきた。それは農耕文化の発展なのだろう。巫女が神からの宣託を受け取る。(写真:巫女たち40)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
それを王に告げ、王は神のお告げとして下々に伝えたという。(写真:王とその配下41)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
また見つかった墳墓からは十四個の素焼きの大きな壺が出土し、身分の高い人たちの墓だったと思われる。(写真:墓42)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
埋蔵物も沢山発見されていた。貴重な資料といえよう。ここでは北に王族と思われる人たちの墓があり、南に下るに連れて身分が低くなって行くように建物が建てられていたという。竪穴住居は、地面を50cmほど掘り、その土を周りに積み上げ、水の浸入を防いでいたらしい。夏は涼しく、冬は中で火を起こせば暖かいという。この日は一日中寒い日だった。この吉野ヶ里を中心として周囲に沢山の集落郡が出来、事実上国家の原形のようなものが出来ていたという。
「もつ鍋 七山」
夜はいつも行く赤坂の「もつ鍋 七山」にお連れした。(写真:もつ鍋43)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
和牛の牛タンも頼んだ。(写真:牛タン44)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
柔らかく実に美味しかった。店は忘年会シーズンなので満席だった。経営者のマスターと奥さんらも皆元気そうだった。また来年も来よう。もつ鍋は勿論最高でした。身体も暖まった博多の夜でした。
「天領日田」
江戸時代、幕府の直轄地であった「日田」。代官が送られてきて、天領として発展したところだ。一昨年来ているので、今回は私は「町歩きツアー」には参加せず、資料館とコーヒー屋さんで過ごした。ここも韓国人と中国人の観光客が溢れていた。3S会の二人はボランティア・ガイドさんの案内で一人2千円の町歩きに出掛けた。豆田の町並みは古い形で残されている。(写真:豆田45)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
(写真:豆田46)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
この町の見所は旧家である「広瀬家」、古い薬屋の「日本丸」、教育の場だった「咸宣園」(かんぎえん)、造り酒屋の「薫長酒造」等々がある。一番有名な「草野家」は平成の大改修として工事中だった。2時間後の待ち合わせ場所は鰻屋さんだ。
「日田まぶしの千屋」
「日田まぶし」というのは「ひつまぶし」の日田版だという。これも鯛茶と同じように3度の味わいがある。最初はそのまま鰻を食べ、次にご飯と一緒に薬味を加えて食べる。薬味には「海苔」「山葵」「柚子胡椒」「大根卸し」がある。そして最後はこれらにお茶を掛けて茶漬けとして食べるというものだ。結構ご飯のボリュームもあり、中々に美味しいものだった。焼き上がった鰻。(写真:鰻47)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
壁には鰻の絵が掛かっていた。(写真:絵48)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
いよいよ日田まぶしが出てきた。(写真)まぶし49)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
茶漬けで仕上げだ。(写真:茶漬け50)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
中々立派な店構えでした。(写真:店構え51)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
「日田祇園山鉾」
タクシーで「祇園山鉾館」に行く。ここの祭りも自然文化遺産に登録されていた。ここの山鉾は高さ10mだという。(写真:山鉾52)OLYMPUS DIGITAL CAMERA
小さな町なので曳き手がいなくて苦労していると会館の方は話していた。
帰りの特急列車の中で、女性車掌さんがやってきて「記念写真撮りませんか?」と言われたので早速撮影。(写真:3S会)
こんなサービスもJR九州はやっている。最近上場したが、収益の半分は輸送以外というからアイデアが満載の会社のようだ。車両も個性的な車両ばかりだった。