「吉野ヶ里遺跡」

「吉野ヶ里遺跡」
玄界灘に面した唐津から有明海に面した佐賀平野にある「吉野ヶ里遺跡」を訪れた。2002年に出来たという入口の巨大な建物を私は初めて見た。ここに来たのは1999年から2000年だったから、まだ殆ど発掘途中で何もなかった気がするが、大きく遺跡は変貌を遂げていた。寒い中、それぞれの施設には当時の服装を模した案内人がいて、求めれば説明してくれる。まず入口の門がある。上に鳥の模型が置かれていた。当時の人たちは鳥を神様の使いのように考えていたようで、門の上には必ず鳥の模型があったという。(写真:鳥36)

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これが今の神社の「鳥居」になったという。発掘して柱跡が分かるとその位置に竪穴住居を復活させていた。勿論想像の域を出ないが、多分こんな形で暮らしていたらしい。(写真:王の家の内部37)
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この一体は紀元前5世紀から紀元前2世紀の弥生時代前期から3世紀に掛けての弥生時代後期の住居跡だ。二重の堀と更にその間に高い柵を巡らし、敵から防御したという。徐々に身分の差が出来て、王や神官、巫女といった人たち、所謂支配階級も出てきた。それは農耕文化の発展なのだろう。巫女が神からの宣託を受け取る。(写真:巫女たち40)
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それを王に告げ、王は神のお告げとして下々に伝えたという。(写真:王とその配下41)
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また見つかった墳墓からは十四個の素焼きの大きな壺が出土し、身分の高い人たちの墓だったと思われる。(写真:墓42)
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埋蔵物も沢山発見されていた。貴重な資料といえよう。ここでは北に王族と思われる人たちの墓があり、南に下るに連れて身分が低くなって行くように建物が建てられていたという。竪穴住居は、地面を50cmほど掘り、その土を周りに積み上げ、水の浸入を防いでいたらしい。夏は涼しく、冬は中で火を起こせば暖かいという。この日は一日中寒い日だった。この吉野ヶ里を中心として周囲に沢山の集落郡が出来、事実上国家の原形のようなものが出来ていたという。

「もつ鍋 七山」
夜はいつも行く赤坂の「もつ鍋 七山」にお連れした。(写真:もつ鍋43)

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和牛の牛タンも頼んだ。(写真:牛タン44)
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柔らかく実に美味しかった。店は忘年会シーズンなので満席だった。経営者のマスターと奥さんらも皆元気そうだった。また来年も来よう。もつ鍋は勿論最高でした。身体も暖まった博多の夜でした。