「ミラノ」

「ミラノ」
ミラノは大都会だし、人も多い。しかしイタリアの人気観光地としては、一位がローマ、続いてフィレンツェ、そしてヴェネツィア、四番目がヴェローナだそうだ。ミラノは観光よりも経済、商業の街なのだ。いよいよ明日は帰国だ。今回は自分用にフィレンツェで皮製品を二つ買った。一つは文庫本用のブックカバー、もう一つは「ホタテガイの模様の小銭入れ」だ。共にチベット産の子羊の皮で作られているという。次はヴェネツィアのガラス工房で買ったワイングラスのセットだ。だが共にミラノに来てみるとこちらのほうが安かった。騙された。いよいよ明日は帰国だ。「ドゥオモ」「スカラ座」など市内中心部の観光後、スーパーに行った。求めたのは「生ハム」即ち「プロシュート」だ。本来は日本には持ち込み禁止だが、没収されたら、されたで仕方ないので持ち込みすることにした。

第八日目(9月23日)
「最後の晩餐」
観たかった絵を観るのが、ミラノ最後の観光だ。「サンタマリア・デッレ・グラッツェ教会」にある「レオナルド・ダ・ヴィンチ」作、「最後の晩餐」の絵だ。過去2度訪れているが修復中だったりして観ることが出来なかった。ついに念願が成就する日だ。年間6000万人の観光客が訪れるイタリア。もう二度と来ることはないだろう。孫たちでも大きくなったらスポンサーで来てもいいかも知れない。明日、帰国したら直ぐに孫娘に会いに行く予定だ。何はともあれ二人目の孫娘の顔を早く観たい。さて、今回のツアーガイドさんは超スタイルのいい美人でした。まだ若いし、恐らく人気のガイドになるのだろう。普通ツアーコンダクターというと大半が太っているのだが、彼女は「チーズ・アレルギー」ということでイタリアなどではまともに食べるものがないようだ。だから太らないとはいうものの、これまた酷な話しだ。「Iさん」また世界のどこかで会えるといいですね。さて、「最後の晩餐」は完全予約制、人数制限の上に15分のみ入室出来る。横約9m強、縦約4m強という大きなものだが、やはり年月を隔て汚れと言うかボケている感じだ。しかしこの超有名な絵はやはり素晴らしい。中央のイエス、その左隣にまるで女性かと思わせる「ヨハネ」更に隣の「パウロ」、そして裏切り者「ユダ」は暗い顔に描かれ、右手に金貨の入った袋を持っている。一人ひとりの性格や役割をダ・ヴィンチは見事に描いていると説明書にあったが、確かにそのようだ。反対側の壁にはゴルゴダの丘でのキリストの磔刑の絵もある。ここには一目で「マリア様」と分かる女性が悲しんでいる姿が印象的だった。あっという間の15分でした。そうそうミラノのタクシーの大半はトヨタのプリウスでした。飛行場に向う途中、北の山には雪が積もっていた。昨日は暑かったのに、今日の朝はいやに寒いと思っていたら、やはりスイス国境のアルプスは一夜にして雪になったのだろう。空港で再度プレミアムエコノミーはラウンジを使えないか?と訊ねたら大丈夫だという答え。上手くラウンジに帰りは入れました。ワインを飲み酔っぱらって飛行機に乗ったのだが、12時間の飛行中、10時間ほど寝てました。成田でも生ハムは無事通過。帰宅してシャワーを浴びてから直ぐに病院へ向かい、孫娘と面会しました。19日に生まれた孫娘は驚くほど髪の毛が黒く多かったのにはびっくり。さてさて可愛くなるのかな?成長が楽しみです。
以上、イタリアから戻った勢古口が東京からお送りしました。

「ヴェローナ」

第七日目(9月22日)「ヴェネツィアーベローナーミラノ」
「ヴェローナ」
「ロミオとジュリエット」で有名な「ヴェローナ」が今日の目玉だ。イタリアと言えば「フットボール」所謂「サッカー」だが、1990年に地元の人に聞いたら、勿論一番はサッカーだが、ラグビーもスキーも人気だという。当時ヴェローナでは大歓迎を受けた。「海鮮物の前菜」から始まって「肉」「魚」が出て、とめどなく料理が続く。午後8時から12時までたっぷり4時間食べて飲んで、久し振りに満腹、堪能した。その時覚えたのが食後酒の「グラッパ」だった。さてイタリアも「離婚」が認められるようになったらしい。カソリックの国だが徐々に変化しているのだろう。その為、煩わしい離婚協議を避けるために事実婚で同棲が増えているようだ。「ジュリエットの家」というところの庭には沢山の観光客が訪れていた。人気スポットだ。ジュリエットの像があり、そこで人々が記念写真を撮っている。ジュリエットの像の右の乳房に皆が触るから、そこの部分だけ金色に光っていた。庭に面した店で土産物を買って外に出たら白人の男性が写真を撮ってくれという。勿論快諾したが、その男性、写真の列に並びながら、順番が来ると後ろの人に順番を譲っているのだ。これはおかしいと思った私はまず身の回りをチェックし、早く撮影ポイントに立つように促した。多分私が土産を買い終えて財布をしまったのを見て、「鴨だ」と思ったのだろう。だからもう一人の人が私に寄ってきて財布を奪う算段だったのだろう。甘く観るなよ。こちとら経験豊富だからそんな程度のことでは騙されない。ぼんやりしていたら財布を擦られていたかもしれないが、そんな技は通用しない。だから狙いは私の気をそらすように時間稼ぎし、捕り手がポジションに着くのを待っていたのだろう。そんな手が通用すると思っているのか!だって皆が並んでいるのに後ろの人に譲るということ自体可笑しいだろう。空気が読めていない泥棒たちでした。その庭に面したバルコニーからジュリエットが愛を告白したというのだが、白々しい庭でした。実は一昨年6月に初めて「3S会」でスイス旅行をした時にジュネーブで同様な事件に遭遇したのだった。この経験が役に立った。それはジュネーブで市内観光のバスを待っている時のことだった。私が一人待合所に残り椅子に座っていた。他の二人は周囲を見物に出掛けた。その際、二人はリュックを私の左側の椅子に置いて出ていった。私は窓際の席で右側がガラスで、椅子の間に自分のリュックを置いていた。するとガラスの向こう側からサングラスをかけたスーツ姿のちょっと太った男性がガラスをノックし、私の視線を遠くに向けようとして指を指しているのだ。何だろう?と思っていると仲間の荷物をひったくって行くのが目の端に見えた。慌てて大声で怒鳴り追いかけた。すると泥棒は荷物を捨てて逃げ去った。二人の連係プレーなのだ。私の気をそらす奴、盗む奴。まあ事故なく過ごせてよかったが、こういった旅先での経験が私の感性を磨いていたのだろう。
帰国して写真を整理していたら、ジュリエットの像の写真の中から例の男が映っていた写真が見つかった。ということはあそこでいつも鴨を探していると言うことの証拠だろう。

「ヴェネツィア」

第六日目(9月21日)「フィレンツェーヴェネツィア」
「ヴェネツィア」
今日は日曜日だ。ヴェネツィアは1998年以来の2度目だ。前回は8月だったが、丁度その時「皆既日食」が起きた。事前に知らなかったので驚いたことを思い出した。太陽が見る見るうちに光を失い、完全に月に隠れてしまった。それを指を丸めて作った小さな穴から光を路上に落としてみていた。サンマルコ広場にいる時が最高でほぼ真暗くなっていた。そうそう、フィレンツェのホテルで飲みかけの酒を処分されてしまった。日本から持参していた焼酎をまだ半分残っているので部屋のデスクの上に置いておいたら、観光から帰ってきたらなくなっていた。これも酷いね。枕銭を置かなかったからなのだろうか?犯罪だね。フィレンツェ駅前のホテルだが、イタリアを象徴しているようなホテルだった。これまでは私は結構イタリア贔屓だったが、これで完全に失せた。と思ったら、すみません、訂正します。私のバッグに入ってました。ごめんなさい。さてボローニャを過ぎて盆地に差し掛かった。低地を霧が覆っている。そのため高速道路の右端の更に右側に1mほどの半円が20m毎に描かれている。これは霧対策で、霧が濃くなると前が見えなくなる。そこでドライバーはこの半円を目印にして車を走らせるのだ。イタリア独特のシステムだ。話しは変わるが、イタリアは日本より15年ほど早く「少子高齢化社会」を迎えているという。聞くと普通の人の年収は1万5千ユーロから1万8千ユーロ、為替変動を除外した実質換算で150万円から180万円だと言えよう。国民総平均では2万4千ユーロだというが、高所得者は物凄いお金持ちで貧富の差が激しいということだろう。フィレンツェには今年初めて「マクドナルド」が進出したらしいが、たった30席の店に応募した人の数、なんと1万1千人だというから凄い。それだけ職がないのだ。更に驚いたのがカロリー摂取だ。日本人の成人の平均が一日当り2500kcだが、イタリア人はなんと3700kcだそうだ。だから太る訳だ。食料自給率も85%と高い。輸入ではやはり生鮮食料品が多いのだろう。トマトなどは大半がトルコからだと思う。平均寿命は80歳前後と意外に高い。イタリアは日本とよく似ていて、南北に細長く、中央部を山脈が走っている。ヴェネツィアは百数十の島とそれに倍する橋で結ばれている人口6万人ほどの都市だ。ご存知の通り海に浮かぶ「水の都」だ。そこに年間3000万人もの人が訪れる。今日も10万トン超クラスの大型豪華客船が3隻入港していて夕方出港していった。デッキには人、人、人の列でした。

「ピサの斜塔」

「ピサの斜塔」
念願の場所にやってきた。「ピサの斜塔」は、かの「ガリレオ・ガリレー」が物理の原理を発見した場所として有名だ。それは「重さに関わらず、全ての物質の落下の速度は同じである」ということをこの場所で塔の上から物を落として証明したというらしい。それに「振り子の原理」の発見もここだそうだ。それにより「振り子時計」が出来たという。ここも凄い数の観光客だ。斜塔は4.1m沈下して傾いているらしい。今はもう傾きが更に悪化することはないとのことだが、イタリア人のやることだから分からないと私は思っている。今日は暑かった。これらの一連の建物は近くの街「カラーラ」の大理石で造られているという。1990年に私はカラーラを訪れている。カラーラは古代より大理石の産地なのだ。現在気温は28度だというが、前日の雨の影響か蒸し暑い。参りました。さて、これまでのイタリアでの食事を振り返ってみよう。ホテルでの朝食は「ビュッフェ方式」で私は果物をヨーグルトだけを食べている。前菜は「パスタ」で、次に「主菜」があり、最後が「デザート」だ。「主菜」だけを並べると、カプリ島の昼食は「メカジキのグリル」、ナポリの夕食は「鶏肉のソテー」、ポンペイの昼食は「子牛のサルテインボッカ」、ローマの夕食は「ピッッア・マルゲリータ」、アッシジの昼食は「ソーセージ」、フィレンツェの夕食は「白身魚(スズキ)のグリル」、フィレンツェの昼食は「Tボーン・ステーキ」、同じくフィレンツェの夕食は「中華料理」でした。スズキとTボーンは結構美味しかったが、中華は酷かった。以上これまでの食事でした。

「イタリアの旅、フィレンツェ」

「J  REPORT 2014 9月第4、5週」
「リタイアメント・ノート 6年3ヶ月目」、
「VOL。866 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦54、イタリアの旅」後半
「フィレンツェ」
第五日目(9月20日)「フィレンツェーピサ」
フィレンツェも3度目だ。1990年には出張でミラノを出発してマイクロバスをチャーターして北部イタリアを巡った。イタリア人のドライバーさんが「ミケランジェロ広場」近くのレストランを教えてくれて美味しいステーキを食べた記憶がある。「ウフィッツィ美術館」では「ルネッサンス」の巨匠たちの絵に感動もした。昨日、フィレンツェは大災害に襲われたという。約10分間に亘り突然「突風」「竜巻」「雹」が吹き荒れ、樹木が倒され自動車を破壊し、瓦を飛ばし、市内中心部が水浸しになったというのだ。ニュースでも報道されていたらしい。このようにヨーロッパも今年は異常気象なのだという。さてまず観光の第一歩は「ドゥオモ」「市庁舎」「ウフィツィ美術館」巡りだ。美しいルネッサンスの様式美のこれらの建物はまずは当時の支配者であった「メジチ家」の財力に寄るものなのだ。「ウフィツィ美術館」ではルネッサンス期の天才3巨匠「ミケランジェロ」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ラファエル」と「ボッティチェリ」の絵画が纏めて観られる。世界中にここしかないだろう。写真は「ボッティチェリ」の超有名な作品「ヴィーナスの誕生」だが、巨匠たちの絵の前には防弾ガラスが置かれ、それが逆にガラス表面の汚れを通してしか観られないので折角の絵画が色あせてしまうのだ。ちょっとイタリア語のお話しをしてみよう。我々が知っているのは、「ボンジョルノ」(おはようございます、こんにちは)、「ボナセーラ」(こんにちは、こんばんは)、「グラーツィエ」(ありがとう)などだが、一番私が面白いと思うのが「PREGO、プレーゴ」なのだ。これは「ありがとう」の後に「プレーゴ」(どういたしまして)と使われるが、「どうぞ、どうぞ」の意味でも使われる。英語でいえば「プリーズ」の意味でもあるのだ。だから日常会話の中にしょっちゅう出てくる。何かといえば「グラーツィエ」「プレーゴ」なのだ。だからこの言葉は覚えておきたい。「イクスセクーゼ」といえば「失礼」の意味だ。

「聖フランチェスコ修道院」

第四日目(9月19日)「アッシジーシエナーフィレンツェ」
「聖フランチェスコ修道院」
今日は娘の出産予定日だ。二人目の孫の出産だ。心配だが、遠く異国にいるのでどうにもしょうがない。それとスコットランドの独立投票も気になる。独立が否決されたようだとニュースが言っている。娘婿からメールがあり、女の子が産まれたと知らせがあった。二人目の孫娘だ。嬉しいね.母子ともに健康だという。良かった。3142gだという。思わず笑みがこぼれる。これで私のDNAも21世紀に繋げられるだろう。さて、話しは変わってトイレだが、ホテルのトイレはビデも付いているが、公衆トイレには便座も付いていない。トイレ後進国イタリアだ。またイタリアには「ミニカー」というのがある。エンジンが50ccクラスで所謂バイクと同じ扱いを受ける超小型車で、それでも4人乗りだという。14歳から免許が取れるそうだ。それが違法改造され高速度で街中を走っていた。イタリアはご存知の通り、経済が上手くいっていない。失業率12%のため、レストランのウエイターも大半が男性であるのも失業対策だとか。観光地のガイドもそのために地元の人にのみ門戸が解放されているらしい。さて「ワイン」の生産量はフランスと毎年1位と2位の座を競っているそうだ。ローマから「アッシジ」、「ピエンジェ」経由で「シエナ」までが世界遺産の街を巡るのが今日の行程だ。写真はアッシジの「聖フランチェスコ修道院」の全景だ。イタリア中部のトスカーナ州では広大な田園風景を観た。延々と続く丘には「葡萄」と「オリーブ」の木々が、野菜畑は「ヒマワリ」「トウモロコシ」、そして「麦」「牧草」「休耕地」とあるのだが、ヒマワリ、トウモロコシ、麦、牧草等は「輪作」のためなのだろう。ヒマワリは油を採るらしい。それにしても畑ばかりだった。「シエナ」は人口1万1千人程度の小さな街だった。中世が色濃く残っている街で年に二度行われる地区対応の競馬が市内中心部の広場で行われることで有名なところらしい。地元ガイドの日本人女性に聞いたら「日本人が何人住んでいるか、誰も知らない」と言っていた。このアッシジ、ピエンジェ、シエナのコースを廻るツアーは少ないと思うから貴重な体験だった。

「バチカン」

「バチカン」
午後からの観光は時間的な制限もあり、「コロッセオ」と「バチカン市国」を巡った。私は共に1990年と1998年に訪れている。最も行きたかったのは「フォロ・ロマーノ」なのだが、今回はコロッセオは外からのみ、バチカンは「バチカン博物館」、「システィーナ礼拝堂」、「サンピエトロ大聖堂」を早足で内部見学した。システィーナ礼拝堂では写真撮影禁止なのに撮影する馬鹿がやはりいて警備員に写真を削除されていた。カソリックの総本山であるバチカンは非常に裕福であり、ローマ市内にも沢山の建物を所有しているという。バチカンには多い日には20数万人が訪れるというが、本日は比較的少なかったので助かった。「フォロ・ロマーノ」はローマ帝国時代のローマの中心地であり、色々な神殿だけでなく、国政の中心である「元老院」があった所だ。そこでBC44年3月15日、「ユリウス・カエサル」英語名「ジュリアス・シーザー」が暗殺されたのだ。有名な台詞「ブルータス、お前もか!」が叫ばれた場所でもある。ブルータスはスーザーの義理の息子でもあったのだが、元老院の圧力に負けてしまったのだった。ここには1998年にも行っているが、もう一度行きたかった。そして最後は「スペイン階段」と「スペイン広場」、「トレビの泉」を観てきたが、人ばかり多くて、また泉は工事中であり、疲れただけだった。「ローマは一日にして成らず」だから観光も一日、いや半日では全く不可能だ。「ただローマに行って来た」というだけだ。相変わらずローマ市内の交通渋滞は酷いし、現地の人たちの運転マナーは最悪だし、どこへ行ってもイタリア人のいい加減さに呆れる旅だ。単車が多いのには驚かされた。食事はツアー飯にしてはまあマシだろう。それと物価が北欧ほど高くなく助かった。円安が進んでいるが、それほど旅には影響していない。ビール大瓶で@3.5ユーロ、約500円、ワインはフルボトルで@14ユーロ、約2000円、リーズナブルだろう。写真はサンピエトロ大聖堂の主祭壇。

「ポンペイ」

「ポンペイ」
第三日目(9月18日)「ポンペイーローマ」
今回の旅で来たかった所の一つが「ポンペイ」だ。AD1世紀半ばに一度地震で崩壊した都市だったが再建が行われた十数年後、その日は朝から動物たちが騒いでいたという。ポンペイは当時周囲約5kmの街で人口は約2万4千人だったというが、だれもが異変が起きるとは思わず普通の暮らしを続けていたという。そして午後1時、ヴェスビオス火山が突然爆発を起こし、噴煙を吹き出し、火山弾、火砕流が街を襲い、あっという間に人々を呑み込んでしまったという。5mから10mもの火山灰に覆いつくされた。逃げ出そうとした人たちも家財道具や金銀を持ち出そうとして結果として逃げ遅れたという。約2万2千人が犠牲になったという。街は80%が発掘されたらしいが、掘り出されたものは殆どがナポリの博物館に収蔵されているらしい。従って発見された人間の形が残っていた空洞に石灰を流し込んで型取りしたものは2点しか展示されていなかった。当時の人たちの体格は背も低く小さな身体だった。ポンペイの特徴的だったのは、大きなメインストリートには「馬車用の轍」が掘られていて、通り易くなっていたことと、「売春宿」が2軒もあったことだ。轍は今の欧米の使用している「広軌軌道」の原型となったもので、ローマ時代の戦車の轍とも共通でこれが現代の列車の車輪幅の基準となったものだ。「売春宿」は古代ローマ遺跡に行くとどこでも必ずあるから「世界最古の商売」と呼ばれもするものだが、本当にどこにでもあるからこれまた驚かされる。セックスには鷹揚なローマ人だったらしい。道路は石畳で歩道の部分は30cmほど高く設けられており、道路の中に大きな石が数個あり、これが横断歩道の役割を果たしていた。そして道路は雨水や排水の水路も兼ねていたのだそうだ。だから道路は馬車や荷車の通路と排水路の役目の両方を兼ね備えていたことになる。この地方の特徴の一つに「松」の木の剪定方法がある。松の木の天辺にのみ葉を生やさせて下の部分の枝は全て刈り落としてしまうのだ。だから傘を差したような松の木になっているのだ。面白い。さて、ナポリからローマまでは「ユーロスター」に乗車した。ここでも不思議なことに気が付いた。自動車はイタリアは右側通行だが、列車は左側通行なのだ。なぜ?分からない。ユーロスターは多分時速250kmほどは出して走っていたと思う。動力車両が前と後ろに付いていて引っ張り、押して走る形式だ。日本の場合は車両自体にそれぞれ動力があるが、ヨーロッパは前後の動力車両以外はただの客車が連結されているだけだ。途中すれ違う列車もなく「ローマ・テルミニ」駅に到着した。1990年にこの駅を訪れた時には暗い駅だとの印象だったが、それは改善されたが、夜の治安の悪さは変わらないらしい。当時、知らないから夜、男3人でテルミニ周辺を歩いてレストランを探しピザを食べた記憶がある。偶然その店で日本人女性がウェイトレスで働いていた。ローマの治安の悪さは今も昔も変わらないのだろう。写真はヴェスビオス火山を背景にした遺跡内の広場。

「アマルフィー海岸」

「アマルフィー海岸」
船で「ソレント」に行き、そこから小型バスで「アマルフィー」に向かう。断崖絶壁の約40kmが「アマルフィー海岸」だ。その絶壁に張り付くように家が建ち、畑があり、うねうねと曲がりくねった道路が細く続く。そんなところの中心にあるのが元「アマルフィー教国」の首都「アマルフィー」なのだ。といっても小さな街だ。枢機卿がいた教会があり、中世の都市国家時代の首都だったということ位しか私たちは知らない。それでも沢山の観光客が来ていた。私はこの街がどうしてそんなに人気があるのか未だに理解できないのだ。二度目のアマルフィーだが、海水浴客がいたことのほうが驚きだった。位置関係から行くと、ナポリの南の海にカプリ島があり、その更に南にアマルフィーがある。ナポリとアマルフィーの間にヴォスビオス火山とポンペイがあるのだ。アマルフィーは日本では織田裕二の映画で有名になったのだろう。写真はアマルフィー市街の全景だ。写っているのは勿論私だ。

イタリアの旅、青の洞窟

「J  REPORT 2014 9月第4、5週」
「リタイアメント・ノート 6年3ヶ月目」、
「VOL。865 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦54、イタリアの旅」
5回目のイタリアの旅だった。
第一日目(9月16日)「ローマーミラノ」
成田から1万キロ離れたローマに着いたが、途端に問題が発生した。まずパスポートコントロールが長蛇の列、私は要領よく20分で通過したが、ツアーの人たち11名が通過し終えたのは1時間後だった。まあ空港のサービスは最悪だ。アリタリア・イタリア航空の機内もサービスが酷かった。プレミアムエコノミーの席だったが、ラウンジは使えず、アルコールもワインとビールしかなかった。ビジネスの席はガラガラ、プレミアムはほぼ満席、エコノミーはこれもほぼ満席だった。これでは経営危機に陥る訳だ。やはりビジネスクラスを埋めないと航空会社は儲からない。フライトアテンダントの態度も悪い。これだから悪循環となりジリ貧になっているのだろう。約2時間後、今度は財布を落とした人が出て警察へ。なんだかんだとミラノのホテルに着いたのが、現地時間午前0時、日本時間翌日朝の7時という訳だ。治安が悪いイタリア、時間に無頓着なイタリアの旅がいよいよ始まります。高速道路の元祖はイタリアだ。それもローマ帝国時代の「ローマ街道」が基本だ。ローマ軍が如何に早く移動して敵を倒せるかを目的に造られたローマ街道がそのまま現代の高速道路になった。勿論基本はローマから出発している。本日は「A1」道路を移動した。昔の「アッピア街道」だろう。イタリアの「ETC」システムを日本は導入した。日本はイタリアに比べ高速道路は30年遅れていると1990年初めてのイタリア訪問時に言われたのを思い出した。ホテルでカードキーを貰ったが全く反応せず。それもほぼ我々グループの全室がそうだった。いい加減な国だ。働かない国だ。
「青の洞窟」
第二日目(9月17日)「カプリ島―アマルフィー」
観光の目玉は「カプリ島」の「青の洞窟」だ。ナポリから船で約1時間、南のカプリ島へ着く。ここから20人程度乗れる小型船に乗り換えて、青の洞窟へと行くのだが、洞窟の前でさらに小さなボート、池にある手漕ぎボートと思えばいいだろう。ボートの数は10隻ほどで、一隻当りに船頭一人に客が4人、それらが横幅1.5m、高さ5?60cmほどの入り口から入るのだ。だから乗客は全員仰向けになって寝ているような恰好だ。船頭は洞窟入口にあるロープを引き寄せ、タイミングを計ってぐいとロープを手繰りあっと言う間に中にボートを入れる。波があれば勿論入れない。洞窟の中は真っ暗で入り口から差し込む光だけだ。振り返ると洞窟内の入り口付近の海水が青く見えた。確かに美しい光景だ。神秘的と言えるだろうが、ゆっくりとみている余裕はない。写真を撮るだけでお終いだ。次から次へと船がやってきて、我々グループも30分待ちでの洞窟入りだったが、後から来た船は2時間待ちになるという。洞窟内の広さは恐らく500坪ほどだろう。かなりの広さがある。そして出るのも逆に寝転んでの瞬間作業で出るということになる。まあ奇跡的な観光でした。年々海水の水位が上昇しているので、そう遠くない時期に入れなくなるだろうとのことだった。降り際にチップを要求され船頭に1ユーロやった。