「ポンペイ」

「ポンペイ」
第三日目(9月18日)「ポンペイーローマ」
今回の旅で来たかった所の一つが「ポンペイ」だ。AD1世紀半ばに一度地震で崩壊した都市だったが再建が行われた十数年後、その日は朝から動物たちが騒いでいたという。ポンペイは当時周囲約5kmの街で人口は約2万4千人だったというが、だれもが異変が起きるとは思わず普通の暮らしを続けていたという。そして午後1時、ヴェスビオス火山が突然爆発を起こし、噴煙を吹き出し、火山弾、火砕流が街を襲い、あっという間に人々を呑み込んでしまったという。5mから10mもの火山灰に覆いつくされた。逃げ出そうとした人たちも家財道具や金銀を持ち出そうとして結果として逃げ遅れたという。約2万2千人が犠牲になったという。街は80%が発掘されたらしいが、掘り出されたものは殆どがナポリの博物館に収蔵されているらしい。従って発見された人間の形が残っていた空洞に石灰を流し込んで型取りしたものは2点しか展示されていなかった。当時の人たちの体格は背も低く小さな身体だった。ポンペイの特徴的だったのは、大きなメインストリートには「馬車用の轍」が掘られていて、通り易くなっていたことと、「売春宿」が2軒もあったことだ。轍は今の欧米の使用している「広軌軌道」の原型となったもので、ローマ時代の戦車の轍とも共通でこれが現代の列車の車輪幅の基準となったものだ。「売春宿」は古代ローマ遺跡に行くとどこでも必ずあるから「世界最古の商売」と呼ばれもするものだが、本当にどこにでもあるからこれまた驚かされる。セックスには鷹揚なローマ人だったらしい。道路は石畳で歩道の部分は30cmほど高く設けられており、道路の中に大きな石が数個あり、これが横断歩道の役割を果たしていた。そして道路は雨水や排水の水路も兼ねていたのだそうだ。だから道路は馬車や荷車の通路と排水路の役目の両方を兼ね備えていたことになる。この地方の特徴の一つに「松」の木の剪定方法がある。松の木の天辺にのみ葉を生やさせて下の部分の枝は全て刈り落としてしまうのだ。だから傘を差したような松の木になっているのだ。面白い。さて、ナポリからローマまでは「ユーロスター」に乗車した。ここでも不思議なことに気が付いた。自動車はイタリアは右側通行だが、列車は左側通行なのだ。なぜ?分からない。ユーロスターは多分時速250kmほどは出して走っていたと思う。動力車両が前と後ろに付いていて引っ張り、押して走る形式だ。日本の場合は車両自体にそれぞれ動力があるが、ヨーロッパは前後の動力車両以外はただの客車が連結されているだけだ。途中すれ違う列車もなく「ローマ・テルミニ」駅に到着した。1990年にこの駅を訪れた時には暗い駅だとの印象だったが、それは改善されたが、夜の治安の悪さは変わらないらしい。当時、知らないから夜、男3人でテルミニ周辺を歩いてレストランを探しピザを食べた記憶がある。偶然その店で日本人女性がウェイトレスで働いていた。ローマの治安の悪さは今も昔も変わらないのだろう。写真はヴェスビオス火山を背景にした遺跡内の広場。

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