「国宝を巡る旅。金印」

「J  REPORT 2016 12月第5週」
「リタイアメント・ノート 8年6ヶ月目」
「VOL。982号 SINCE AUG.12th、1983」
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「国宝を巡る旅。金印」
8月の大分復興割後の久し振りの3S会の旅だ。今回も復興割を利用した。早朝の羽田から福岡に飛ぶ。生憎の雨が降っていて更に寒い。タクシーで「福岡市博物館」へと。目的は「金印」だ。博多は弥生時代から海外への窓口だったところだ。「倭寇」の拠点でもあった。倭寇とは貿易を行う集団で、一部では海賊だとされていた。さて問題の金印は入口近くに置いてあり撮影可だった。中国の後漢書に記載されているのだが、後漢の光武帝が「印」を与えたというもので、「漢委奴国王」と刻まれた重さ108gの金の印鑑だ。(写真:金印1)

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(写真:金印2)
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これが発見されたのは1784年、博多沖の志賀島で農民が発見したという。「漢の皇帝から奴(な)国の国王に与えた」の意味だという。(写真:金印3)
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(写真:金印4)
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小さいが実に立派な国宝だった。この金印の利用方法なのだが、重要な書類を入れた箱などを紐で結んだ結び目に粘土を貼り付け、それに印を押し、未開封の状態としたのだという。ここが大陸や朝鮮半島への窓口だったことの証拠でもあろう。よく見つかったものだ。
次が「遣唐使」だろう。(写真:遣唐使船5)
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200年間の間に十数度派遣されたが、その帰国率は50%程度だったという危険を伴う航海だった。しかし、中国の力も落ちたころから、もう吸収するものはないとして中止を進言したのは「菅原道真公」だったそうだ。
博多は商人の街だ。一時日が消えかけた街を再生したのが、秀吉で太閤町割りを実施、その町割りから出来たのが「祇園山笠」だ。(写真:山笠6)
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昔は高い山笠だったが、ある時代から競争するようになり、小さな山笠と高い山笠の二つが出来たという。走るのは小さな山笠、飾っておくのが高い山笠なのだ。さて、江戸時代には「黒田長政」が藩主となり、城を築き、武士の町「福岡」を造った。商人の町「博多」と武士の町「福岡」が出来た。黒田節で有名な槍もあった。(写真:槍7)
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現在の福岡は九州一の都市であり、また東アジアへの窓口としても栄えている。
昼食は天神の「割烹 よし田」に行った。3S会の二人には是非ともこの店の「鯛茶」を食べてもらいたかったからだ。鯛茶は、鯛の刺身に胡麻、醤油、山葵が掛けられているが、まずはこれを充分にかき混ぜる。(写真:鯛茶8)
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そして最初は刺身で食べ、次に刺身をご飯に載せて、最後は刺身と醤油を全部ご飯に掛けて、そこにお茶を掛けて茶漬けで食べる。(写真:鯛茶漬け9)
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実は3人なので「呼子の烏賊」を頼んだのだが、時化で入荷していないということで「天麩羅」に変えた。(写真:天麩羅10)
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いつもながら混雑している。本当は夜に来て食べるつもりだったが、予約で満席ということで、已む無く昼にしたが、それでも次から次へと客が訪れる。美味いものは皆知っているということだ。満腹になりました。美味しかったです。