「火の見櫓」

「元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か?」(竹村公太郎氏著、「日本史の謎は地形で解ける」より)
理由の一つは、蒙古の得意とする戦法が日本では使えなかったこと。次が「藪蚊」のために夜は船に戻って寝るしかなかったこと。そして台風が襲ってきたこと。得意な先方とは騎馬戦で平原で大軍同士で戦うことだった。驚きの戦法は牛を横に10頭ほど並べ、そこの後に騎馬兵を置き、敵に突入させるような戦法もあったという。これは狭い日本の国土では仕えない。騎馬戦自体が単騎同士の戦いになって集団での戦いにならなかった訳だ。また博多周辺は湿地帯で「藪蚊」が大量にいて、蒙古兵たちは日中は戦いで上陸していたが、夜は藪蚊から逃れて船に戻って寝ていたらしい。上陸していたならば、嵐で船が沈没しても命は助かったのだが。また、日中の戦いも日本側は今で言うゲリラ戦法で林や山に潜んでいて、突然現れたり、弓矢を放ったりして、激突はしなかったことも蒙古に不利になったという。歴史とは何と面白いことか。

「日本はなぜ欧米列強の植民地にならなかったか?その2」(竹村公太郎氏著、「日本史の謎は地形で解ける」より)
前回、自然災害が欧米人に恐怖を与えたと書いた。もう一つの理由が「日本は負けなかった」ということらしい。連戦連勝で植民地を造ってきた欧米列強だが、日本で戦った二つの戦争では結果として負けてしまったというのだ。まず「薩英戦争」では、英国海軍は旗艦艦長、副艦長はじめ11名の死者を出した。一方の薩摩軍は500戸も民家を焼かれたが、死者は民間人5名だけで、英海軍は3日後には燃料不足等で横浜に撤退してしまった。また「下関戦争」では、上陸した英仏米蘭4カ国連合軍は長州軍のゲリラ攻撃と田んぼのぬかるみに足を取られ、下関を制圧出来ずにこれも撤退した。なぜ、圧倒的な火力があったにも拘らず、日本軍に勝てなかったのか?竹村氏はそれが日本の地形に由来する特徴だといっている。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?42」
「火の見櫓」
江戸の町の名物にも数えられたのが「火事」だった。「明暦の大火」(振袖火事とも言われた)では、「江戸城本丸」も失った。江戸の町の大半が燃え尽きた後、「火除け地」が設けられ、町と町とを区切る空地も出来た。また同様、「火消し」の制度も設けられ、「町火消し」「大名火消し」が組織化された。一方で火事を発見する「火の見櫓」も建てられ、火事の早期発見と庶民への通報が重要なものとなっていった。「カン、カン、カン、カン」と半鐘が鳴ると、近ければ連打され、遠ければ間隔を空けて打たれた。それにより火事場の遠近が分かったと言う。

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