「壱岐の歴史発見」

朝は息子が作った朝食です。(写真:B1)B1
(写真:B2)B2
宿です。(写真:B3)B3
いよいよ歴史の島「壱岐」の探訪だ。まずは「原の辻ガイダンス」でガイドさんと待ち合わせ。昨日、レンタカーを借りた直後に電話があり、先にガイド料の支払いを求められたが、観光案内所の場所も分からず大慌てした騒動があった。本日は無事にガイドのT氏と会えた。本来は午前2時間、午後2時間のガイドだったが、天候が不順なため、一気に4時間のガイドツアーにした。
ここ壱岐の島は、魏志倭人伝にも出てくる「一支国」のあった島だ。カキ小屋のあった内海湾に朝鮮から着いた船から降りた人たちは、小舟に乗り換えて「幡鉾川」を遡上し、首都である「原の辻」に来たという。(写真:B4)B4
岸倭人伝の文章には「一大国」と記されている。(写真:B5)B5
でも本当は一支国だ。(写真:B6)B6
そして船着き場に到着。模型があった。(写真:B7)B7
土と小枝を何層にも積み重ね、最後は周囲を石で覆ったものだ。
一部発見された「盾」と「胴巻」の復元模型。(写真:B8)B8
船着き場周辺には渡来人の住居があり、日本人は少し離れた田んぼ近くに住んでいたという。いよいよ原の辻の復元場所に向かう。発掘された柱跡の穴に、そこから先は長崎大学の学者が考えた想像に基づいて造られた建物があった。(写真:B9)B9
(写真:B10)B10
(写真:B11)B11
(写真:B12)B12
(写真:B13)B13
(写真:B14)B14
ここからは人面石も出たという。現物は後程見る。(写真:B15)B15
面白いのは「イヌマキ」という木を柱にしているのだが、そこの枝分かれした部分を利用して梁を掛けていることだ。ネズミ返しもあるから食料倉庫だろう。(写真:B16)B16
この様な柱の使い方は初めて見た。考えたものだ。縄で縛る必要がないからだ。物見櫓がある。船が遡上してくるのを見たのだろう。(写真:B17)B17
弥生時代だから、渡来人のもたらした壁付の屋根の建物もある。(写真:B18)B18
基本は竪穴住居だ。東北地方などは竪穴住居は平安時代でも使われていたという。
物見櫓。(写真:B19)B19
丁度屋根の吹き替え作業中だった。萱拭きだ。(写真:B20)B20
ここは環濠集落といわれていて3重の堀があった。今はそこにガマが生えていた。(写真:B21)B21
入口だ。(写真:B22)B22
環濠。(写真:B23)B23
基本的にこの場所は「祭祀」や外国人を歓迎する場所と王の住まいで、普通の人は住んでいなかったという。「権」という秤用の重りも見つかっている。青銅だ。(写真:B24)B24
「権」は物々交換の基礎となる秤で後の「権力」や「権限」を示すようになったと考えられている。銭も見つかっている。(写真:B25)B25
弥生時代は米が生産されていたが、それでも栄養の30%しかなく、やはり森からの食糧調達が主流だったそうだ。
「元寇」の戦いに進もう。2度の侵攻に壱岐の島は大損害を受けて殆どの住民が殺害されている。2度目の戦いに大宰府から派遣された守備隊長が若干19歳の「小弐資時」だった。たった100名の兵士と14万人の元との壮絶は戦いがここで行われた。写真の赤い家のところに守備隊がいて、元の大艦隊に埋め尽くされた海に向かい戦った。
(写真:B26)B26
小弐資時の像。これ自体は12歳と時のものだという。(写真:B27)B27
戦死者を埋めた千人塚。住民は殆ど虐殺された。(写真:B28)B28
古戦場跡。(写真:B29)B29
小弐資時の墓。(写真:B30)B30
碇石。海から引き揚げられたもので日本軍が補給のために派遣した船のものだそうだ。(写真:B31)B31
狼煙台が二つあった。(写真:B32)B32
(写真:B33)B33
海をジェットフォイールが進む、早い。時速75kmだとか。(写真:B34)B34
実は本当は博多と壱岐を1時間で結べるのだが、それだと補助金が出ないのでわざと70分にしているという。
壱岐には何と神社が1500もあるという。その内の最も新しい神社だ。(写真:B35)B35
(写真:B36)B36

古墳巡りに向かう。まずは「鬼の窟」(おにのいわや)(写真:B37)B37
奥行が13.5mだとか。(写真:B38)B38
「兵瀬古墳」(写真:B39)B39
「百田頭古墳」(写真:B40)B40
「笹塚古墳」(写真:B41)B41
中に「神代文字」と呼ばれている判読不明の文字がある。(写真:B74)B74
前方後円墳の「双六古墳」(写真:B42)B42
(写真:B73)B73
長崎県内最大の古墳だという。(写真:B43)B43
(写真:B75)B75
壱岐の島は行政上は江戸時代は平戸藩松浦家に、そして今は長崎県に属している。
これで本日のガイドツアーは終了。T氏と分かれて昼食へ。私はかつ丼の具だけ食べた。(写真:B44)B44
仲間は「うに丼」や「壱岐牛照り焼き定食」を食べていた。
最初にフェリーで到着した「郷ノ浦」は時計で言えば、7時方向。宿は12時で島の北端にある。内海湾は4時方向、そして向かった「猿石」は9時方向だ。いや驚き、猿そっくりだ。(写真:B45)B45
(写真:B46)B46
(写真:B76)B76
これが横から見ると猿なのだが、正面に回るとがっかり。普通の岩でした。次に向かったのが「一支国博物館」、黒川紀章氏設計だとか。途中の田んぼに鴨がいた。(写真:B47)B47
博物館資料室。全ての長崎県の遺跡の資料はここに集められているという。(写真:B48)B48
ジオラマがあった。中々の優れものだ。船着き場だ。(写真:B49)B49
(写真:B50)B50
人々の暮らしがここに再現されていた。白い服は日本人。青い服は渡来人だ。(写真:B51)B51
(写真:B52)B52
(写真:B53)B53
(写真:B54)B54
(写真:B55)B55
(写真:B56)B56
墓地と埋葬風景。(写真:B57)B57
巫女さんがいる。(写真:B58)B58
家の中。(写真:B59)B59
稲刈り風景。(写真:B60)B60
田で働く。(写真:B61)B61
「権」実物だ。(写真:B62)B62
「鉄の刀」(写真:B63)B63
「権と人が秤で」(写真:B64)B64
「人面石」実物。(写真:B65)B65
「鏡」(写真:B66)B66
「卜骨」鹿やイノシシの骨に熱した木をあてて占う。(写真:B67)B67
博物館の屋根部分。自然に調和させるために芝を植えた設計。(写真:B68)B68
(写真:B69)B69
夜は宿に魚屋さんから刺身の盛り合わせを運んでもらった。(写真:B70)B70
買ってきたサラダ。(写真:B71)B71
べったら漬け。(写真:B72)B72
壱岐の島には「鯨組」という組織があった。1000人から1500人の組が5組あったという。鯨採りの組で「鯨一頭、猫太る」とまれ言われた程、鯨が採れると皆が裕福になったという。それほどだったが、明治以降すたれた。江戸時代には島民の大半が鯨に関係していた。今の漁業は玄界灘の魚や烏賊のほかには、マグロ漁が盛んだという。300kgを超える大物も揚がるという。

「今週の映画と本」

「今週の映画と本」
「私の2019年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
「ニューヨーク最高の訳あり物件」(シネスイッチ銀座にて)私的批評眼★★★(今年105作品目)映画ニューヨーク最高の訳あり物件
元妻と現妻が同居?金持ちの男性に捨てられた彼女たちが同じマンションの一室で生活することになる。夫は既に新しい若い女性と生活を始めている。捨てられた彼女たちは一体何をするのだろうか?いかにもアメリカ的な生き方のお話しでした。

「ゴールデン・リバー」(TCシャンテにて)私的批評眼★★★(今年106作品目)映画ゴールデンリバー
原題は「シスターズ兄弟」。ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコの郊外で金を探す男たちが、金の欲を巡って殺し合うというお話し。最後が意外に心休まる。

7月12日の日経新聞「シネマ万華鏡」の評価は、「トイストーリー4」が3つ星、「ゴールデン・リバー」が3つ星、「三人の夫」が4つ星、「ハッパGOGO~大統領極秘指令」が3つ星、「アイアン・スカイ 第三帝国の逆襲」が2つ星、「ダイナー」が3つ星、「えんとこの歌」が4つ星でした。

「2019年の映画、私的評価表」
★★★★★=「ボヘミアン・ラプソディ」「グリーンブック」「運び屋」「こどもしょくどう」「さよなら くちびる」
★★★★=「蜘蛛の巣を払う女」「バハールの涙」「メリーポピンズ リターンズ」「女王陛下のお気に入り」「ちいさな独裁者」「ヴィクトリア女王」「半世界」「ねことじいちゃん」「翔んで、埼玉」「あの日のオルガン」「天国でまた会おう」「マイ・ブック・ショプ」「Bの戦場」「ブラック・クランズマン」「ROMA」「ザ・プレイス」「バイス」「ハンターキラー」「パリの家族たち」「誰もがそれを知っている」「小さな恋のメロディ」「アラジン」「アマンダと僕」「COLD WAR あの歌、2つの心」「今日も嫌がらせ弁当」

「2018年の映画はこんなでした」
★★★★★=「はじめてのおもてなし」「スリー・ビルボード」「リメンバー・ミー」「レディー プレイヤーワン」「万引き家族」「空飛ぶタイヤ」「輝ける人生」「判決 ふたつの希望」「日日是好日」

「2019 観劇シリーズ」 2018年の歌舞伎観劇は3度でした。
一月大歌舞伎=歌舞伎座にて 
二月競春名作喜劇公演観劇=新橋演舞場にて
團菊祭五月大歌舞伎=歌舞伎座にて
七月大歌舞伎観劇=歌舞伎座にて=高時。西郷と豚姫。素襖落。外郎売
歌舞伎座緞帳、鳥、清水建設(写真:K1)K1
同上(写真:K2)K2
緞帳、富士山、永谷園(写真:K4)K4
「七月大歌舞伎」(写真:K3)K3
幕(写真:K5)K5
昼の部、第一幕「高時」-鎌倉幕府執権の北条高時の宴の場で、安達三郎が高時の愛犬を打ち殺したための命乞いの物語。明治17年に初演された「歌舞伎十八番」の一つ。歌舞伎十八番とは市川家のお家芸のこと。明治天皇が初めて歌舞伎をご覧になったのが、この演目で、「高時が天狗と踊る場面が面白い」と申されたとか。
第二幕「西郷と豚姫」-幕末の京都のお茶屋のお玉(身体が大きいので渾名は豚姫)は西郷に恋をする。西郷は今にも切腹の沙汰が下ろうとしており、二人は心中を考えるという恋愛物語。お玉役を中村獅堂が演じたのに驚く。
第三幕「素襖落」―太郎冠者が伊勢参りに向かうに当たり挨拶に伺うがそこで酔いつぶれる。大酒飲みの太郎冠者が面白い。
第4幕「外郎売(ういろううり)」-これも歌舞伎十八番の一つ。今回の演目の目玉で海老蔵扮する外郎売と息子の観玄君が出演し、観玄君が何と3分にも渡り早口言葉を述べるというもの。大人気で満員でした。因みに外郎とは中国から伝えられた万能薬で、昔も今も小田原でのみ製造販売されている丸薬。
歌舞伎座=八月大歌舞伎観劇予定

「2019 旅暦」
国内旅行は、1月は北海道2回と佐賀武雄温泉。6月末からは神奈川会の仲間と三陸で震災復興ツアーをしました。7月に4S会で壱岐の島から長崎へのと、7月後半は妻と娘、孫娘たちと一緒に再び壱岐に、そして9月はG46の仲間と北海道へ競争馬を観に行く予定。
海外旅行は、2月と5月のハワイ。8月もハワイの予定。
これまで行った国々の合計数は、71か国(直近18年5月のモンゴル)

「2018 読書記録」 2018年の読書数は、252冊でした。
「そりゃないよ」(野口 卓 著)集英社文庫 私的批評眼★★★★(今年138冊目)「よろず相談屋繁盛記」シリーズ第3弾本そりゃないよ

「献上の祝酒」(千野 隆司 著)講談社文庫 私的批評眼★★★★(今年139冊目)「下り酒一番」シリーズ第3弾本献上の祝酒

「舌戦」(上田 秀人 著)講談社文庫 私的批評眼★★★★(今年140冊目)「百万石の留守居役」シリーズ第13弾本舌戦

「標的」(金子 成人 著)幻冬舎文庫 私的批評眼★★★★(今年141冊目)「追われもの」シリーズ第3弾本標的

「帰郷」(浅田 次郎 著)集英社文庫 私的批評眼★★★★★(今年142冊目)本帰郷
本当に作家の知識と描き方に脱帽。抜群のセンスだ。反戦小説だというが、まさに人間ドラマだ。

「原爆爆心地へ」

「原爆爆心地へ」
壱岐の島はどんより曇っていた。心配なのは飛行機が長崎から到着するかだ。空港に電話をしたが大丈夫だという。タクシーで空港へ。霧で上空待機していた飛行機が無事到着した。(写真:D1)D1
DHC8-200というターボジェットだ。39人乗りの最後部の席に座る。あっという間、20分で長崎大村空港に着いた。長崎駅にバスで向かい、まずは腹拵えと駅ビルのレストランで「長崎ちゃんぽん」を食べた。(写真:D2)D2
他の3人は「皿うどん」に「餃子」でした。
そして路面電車の「一日券」500円を買い求めた。その前に電話があり、波が高くて「軍艦島上陸ツアー」が中止となってしまった。仕方なく、予定外だったが、平和公園に行くことにした。噴水。(写真:D3)D3
「平和の鐘」(写真:D4)D4
ここは元々「刑務所」だったところで、爆心地から500mほどあったので直撃で破壊されたという。「平和の像」があった。(写真:D5)D5
右手は原爆の直撃を示し、横に伸ばした左手は平和を意味しているという。あちこちに世界各国から寄贈された像があったが、説明等は省く。中学生の団体があちこちにいた。折鶴があった。(写真:D6)D6
原爆資料館に向かう途中に「爆心地」があった。(写真:D7)D7
8月6日11時2分にB29より投下された原子爆弾が上空500mで爆発した。死者74000人、負傷者75000人。隣にレンガ造りの塔がある。後で判明したのだが、「浦上天主堂」の一部を移築したものだそうだ。(写真:D8)D8
天辺にはザビエル像があるという。
「長崎原発資料館」に入る。その中で浦上天主堂の複製があった。本物は壊してしまったのだが、こうして当時を再現していた。(写真:D9)D9
その時、柱が土台からずれたことも分かるようになっていた。如何に風圧が強かったからだ。(写真:D10)D10
爆発時を再現していた。(写真:D11)D11
爆心地付近の写真だ。破壊され尽くしている。(写真:D12)D12
原爆投下は、小倉上空の天候不良により、長崎に変更された。爆弾発火は、無線によるもの、高度計によるもの、時計によるもの等々何段階もの手段で行うようになっていたという。最後は地面にぶつかってから発火するのが最後の手段だったという。2機のB29が通過した後には何が残ったのだろうか?我々はそれを知っている。

さて軍艦島上陸ツアーがキャンセルになってしまったために、軍艦島ミュージアムというところで疑似体験することにした。軍艦島も模型があった。(写真:D13)D13
(写真:D14)D14
(写真:D15)D15
この島に5000人以上の人々が暮らし、石炭を採掘して生活していた。明治初期から始まった採掘は昭和47年で終わった。明治大正昭和の産業を支えた石炭もその役割を終えた。今は世界遺産となり人気を集めている。

小腹が減ったということで、中華街の「福寿」という店で少し食べた。春巻き。(写真:D16)D16
焼売。(写真:D17)D17

さて「出島」のナイトツアーに行く。「ミニ出島」があった。(写真:D19)D19
(写真:D20)D20
(写真:D21)D21
(写真:D22)D22
(写真:D23)D23
(写真:D24)D24
(写真:D25)D25
出島は当初はポルトガル人がいた島だったが、島原の乱後、キリスト教布教を目的とするポルトガルと決別した幕府は代わりにプロテスタントのオランダを選び、平戸から移らせた。これらの管理は奉行所なのだが、実務は出島町人という25人の町人が行っていた。明日は奉行所跡を巡る予定だ。
戦後、戦勝国のオランダは日本からの賠償金を受け取らず、その金で出島の復興を願い支援したという。200数十年に亙るオランダと日本の交易の歴史を取り戻すためだ。明治以降、この地は居留地となり民間のものとなっていたが、それを長崎市が買い戻し、徐々に徐々に復興させて行き今に至る。まだまだ直していくという。
バトミントンをしている絵があった。(写真:D48)D48
オランダ統治のインドネシア人の召使たちが遊んでいるものだ。(写真:D26)D26
だから「バトミントン日本上陸の地」なのだ。
それではナイトツアー始まります。(写真:D27)D27
入口の門。(写真:D28)D28
実は今の出島は周囲が埋め尽くされており、橋の部分は逆に18mも削られて小さくなっていた。従って今ある橋は本物よりも大きなもので、実物は4.5mの短いものだったという。(写真:D29)D29
そして今の橋は、島の反対側の部分でのみ地上に接していて、島の部分には土台がなく、浮いた状態で接しているという。理由は遺跡の保存のためだそうだ。
門を入った直ぐの両側には石造りの倉庫があった。(写真:D30)D30
メインストリートだ。(写真:D31)D31
(写真:D32)D32
道路の端にある溝だが、江戸時代は瓦を敷いていたという。(写真:D33)D33
明治以降はV字型になっていた。
当時から全て畳敷だったが、オランダ人は靴のままで過ごしたという。
食堂だ。全てオランダから持ち込んだ家具類だ。(写真:D36)D36
クリスマスディナーの食卓です。(写真:D37)D37
(写真:D38)D38
食卓風景の模型がある。召使はインドネシア人やアフリカの人で裸足だ。(写真:D39)D39
オランダ人は靴を履いている。2人の日本女性は遊女でこれも裸足だ。(写真:D40)D40
日本女性は、女郎以外は出島に入れなかった。
珍しい婦人の絵がある。キャピタンの妻と息子だ。初めて外国から来た婦人だ。(写真:D41)D41
本来女人禁制の場所だけど、本国からジャカルタ経由で来たものと思われる。
輸出入の窓口の出島の門。輸入用の門だ。(写真:D42)D42
オランダからもたらされた秤だ。(写真:D43)D43
出島の絵図面。オランダにあった。(写真:D44)D44
シーボルトとお滝さんの絵。(写真:D45)D45
日本からは最初は金が、その後銅が輸出された。(写真:D46)D46
(写真:D47)D47
ビリヤードで遊ぶオランダ人。(写真:D49)D49
輸入品の一つは砂糖。(写真:D50)D50
丸山応挙の絵がある。実はこれは長崎のことを聞いて描いたものなので、嘘が多い。(写真:D51)D51
出島は、本来は海の中に埋め立てた島なのだが、明治以降周囲が埋め立てにより土地に囲まれてしまった。今、それらを復活させ完全な島にする計画があるという。昔の姿にしてもらいたいものだ。
さて、キャピタンは年に一度江戸で将軍に拝謁するために旅をした。長崎街道で小倉へ、船で兵庫へ、陸路京都を経て東海道を江戸に。往復約90日の旅だ。(写真:D52)D52
永代橋を渡る。(写真:D54)D54
将軍に拝謁。右の御簾の間から将軍綱吉が覗いている。(写真:D54-1)D54-1
行列の絵。(写真:D55)D55
シーボルトの乗る籠。前方に小さな箱が作られている。足の長いシーボルトが足を伸ばせるように改造したものだという。面白い。(写真:D56)D56
キャピタンは基本的には1年交代での来日なのだが、最長18年もいた人があったという。
それにしても1時間程度では見て回ることは不可能だった。出島はどんどん進化していた。
自称「出島の侍」というナイトツアー案内人にお勧めの店を聞いたら、なんと先ほど行った「福寿」だという。なんという偶然か?
再び「福寿」に。「豚肉ときゅうり」(写真:D57)D57
「ピータン」(写真:D58)D58
「ザーサイ」(写真:D59)D59
「トマトと卵の炒め物」(写真:D60)D60
「烏賊とニンニクの芽」(写真:D61)D61

「長崎市内観光」

「長崎市内観光」
歩いて集合場所まで向かう。中華街の北門だ。(写真:G1)G1
「長崎サルク」という観光関連の団体がある。長崎観光をサポートする団体だ。そこに申し込みしてガイドを派遣してもらった。(写真:G63)G63
まずは出島表門橋の前で揃い踏みしてスタート。(写真:G2)G2
出島の目の前は旧県庁跡。盛んに解体工事が行われていた。(写真:G3)G3
その隣が「長崎奉行所西役所」跡で石垣が残されていた。(写真:G4)G4
長崎の江戸時代の組織は、長崎奉行が江戸と長崎にそれぞれ1名おり、1年交代で江戸と長崎を行き来した。その下に「長崎代官」がいて、これは本来は旗本の役なのだが、実際は地元長崎の人がなった。更に実務を担当する「長崎会所」があり「町年寄」が運営した。
西役所のある場所は「江戸町」というところで、意味は江は港、戸は先で港の先の意味らしい。オランダ人の江戸町をアルファベッドで書いてもらったら「JEDOMACHI」と書いたという。それがこの町のシンボル。(写真:G5)G5
ここに「南蛮船到着」の碑がある。南蛮とは「ポルトガル」の意味だ。(写真:G6)G6
少し歩くと「大音寺坂」があった。通称「喧嘩坂」だ。(写真:G7)G7
長崎では大変有名な坂だそうで、江戸時代に佐賀藩の老武士二人が雪の日にこの坂を登っていて、杖が滑って上から降りてきた若い衆に泥がはねたそうだ。この若衆たちは地元の有職者である町年寄「高木家」の者で酒に酔っていた。そこでこのことで喧嘩となったが、この時は周囲の人たちの取り成しで別れたのだが、高木家に戻った連中が怒り出し仕返しに佐賀藩の蔵屋敷に殴り込み、さんざんに乱暴した挙句、老武士の刀を奪って戻ったという。奪われた武士は、武士の命を取り戻すべく応援の藩士を集めて、今度は高木家に殴り込みをかけ、まず何も知らない当主の高木氏を切り殺した。この時高木家の息子を含む若衆たちは逃げてしまった。老武士二人はいずれも切腹。その後奉行所により、佐賀藩士10名が切腹、5名が謹慎。高木家の若衆は斬首、息子は親を見捨てて逃げたとのことで重追放の上、蕨所となり全財産を没収されたという。
近くに坂本龍馬の姉の「おつうさん」の像があった。(写真:G8)G8
中々の美人だ。この近くの家に一時龍馬と共に住んでいたという。
また遠山家の裏家紋の刻まれた石があった。(写真:G9)G9
これは江戸町奉行となった桜吹雪の彫り物で有名な遠山の金さんの父が、遠国奉行である長崎奉行時代のものだ。彼は500石の旗本だったが、非常に優秀で3000石の長崎奉行に抜擢され、更に江戸に戻っては勘定奉行にもなっている。
今は立町小学校となっているが、元々は長崎代官所があったが、更にその前は「サント・ドミンゴ教会」があった。発掘で一部が保存されていた。日本で最初に石敷の歩道跡。(写真:G10)G10
井戸だ。(写真:G11)G11

さあ、「長崎奉行所立町役所」だ。(写真:G12)G12
目の前に「長崎会所」跡がある。G14
奉行所内部をたった30分で回る。
(写真:G15)G15
(写真:G16)G16
(写真:G17)G17
貿易の品々。これが莫大な利益をもたらすのだ。(写真:G18)G18
「お白州」だ。ここで判決を告げた。(写真:G19)G19
江戸時代の小石がそのまま残っている。
奉行の部屋。一番奥まったところにある。(写真:G20)G20
NHKの大河ドラマで使われた龍馬撮影の場。(写真:G21)G21
貿易を描いた屏風。(写真:G22)G22
(写真:G23)G23
輸入品にはラクダや象もあった。(写真:G24)G24
船の模型。(写真:G25)G25
「解体新書」の作成には長崎の通事の協力が不可欠だった。(写真:G26)G26
オランダ語と日本語との辞書。(写真:G27)G27
この写真は明治元年の一年前のもの。長崎の港には各国の軍艦が停泊している。(写真:G28)G28
もう内戦は時間の問題と各国が武器の売却に奔走していることが分かる。
鉄砲だ。特に多くは南北戦争の残り物だ。(写真:G29)G29

昼食は「長崎ちゃんぽん」発祥の店「四海楼」へ。そこから見た長崎港。三菱ドック方面。(写真:G30)G30
稲佐山方向。(写真:G31)G31
駅方面。(写真:G32)G32
皿うどん。普通の店より値段が高い。(写真:G33)G33

ガイドさんとの待ち合わせ場所は旧「香港上海銀行」。(写真:G34)G34
(写真:G35)G35
(写真:G36)G36
(写真:G37)G37
(写真:G38)G38
国宝でもある「大浦天主堂」。(写真:G39)G39
私は膝痛で、ここでリタイアして休憩。(写真:G40)G40
(写真:G61)G61
後で聞くと、ガイドさんは実は隠れキリシタンの末裔だとか。6代前に長崎から逃れて五島に移ったのだという。村の長以外は全て隠れキリシタンだったという。未だにそういう人たちがいたとは驚き。
グラバー邸に向かうが、ただいま工事中で観ることは出来ない。サルク君がいた。(写真:G41)G41
(写真:G62)G62
対岸には世界遺産に登録された明治近代化の遺産がある。クレーンだ。今も現役だ。(写真:G42)G42
古いドッグ。(写真:G43)G43
長崎港。(写真:G44)G44
女神橋。(写真:G45)G45
グラバー邸。(写真:G48)G48
(写真:G47)G47
幕府に提供されたオランダの蒸気船。今も観光船として活躍している。(写真:G46)G46

夜景を見に稲佐山に登る。たくさんの観光客が日没を待つ。
昨日行かれなかった軍艦島だ。左に二つ並ぶ島の右側の島が軍艦島だ。(写真:G49)G49
(写真:G50)G50
夜景だ。函館のほうが綺麗だな。(写真:G51)G51
(写真:G52)G52
稲佐山の通信用の塔。(写真:G53)G53
G54
夜食は「一口餃子」だ。
ニラ玉。(写真:G55)G56
餃子。(写真:G56)G57
レバー焼き。(写真:G57)G58
店を出たらそこは思案橋通り。飲み屋街なので若い女性を含めて物凄い人がいた。(写真:G58)G59
(写真:G59)G60

「有田へ」

「有田へ」
当初の予定を雨のために変更して長崎から有田に行く。まず訪れたのは「柿右衛門」の店だ。(写真:J1)J1
磁器の歴史は古く、中国では数千年前から製造されていたという。景徳鎮が有名だ。だから日本の戦国大名にとって茶器である磁器は垂涎の的だった。秀吉の朝鮮出兵の帰国時に多くの朝鮮の陶工が日本に渡った。自発的な人たちも多かったという。その中で「李参平」が1616年に有田で磁器を造れる年度を見つけた。それが「泉山鉱山」だ。そして有田で磁器の生産が始まった。元々福岡は八女の武士だった酒井田氏がその後漸く磁器の生産を行うようになり今は15代目となった。柿右衛門釜。(写真:J2)J2
柿右衛門では分業で作業が行われている。これは当初からのようだ。(写真:J3)J3
庭に金魚がいた。(写真:J4)J4
柿右衛門の特徴は、白磁に色鮮やかな柿色が映えている点だ。白い余白の使い方もその特徴だという。店の前だ。(写真:J5)J5

昼食はガイドさんとの待ち合わせ場所でもある「ギャラリー有田」。四方の壁にはティーカップがこれでもかと並んでいた。頼んだのは「有田五膳」。一日10食限定だ。(写真:J6)J6
色々な鶏料理だ。(写真:J7)J7
全ての器がそれぞれ凝っている。(写真:J8)J8
ティーカップは各自選べる。(写真:J9)J9
(写真:J10)J10
(写真:J11)J11
私はアイスティーを頼んだ。(写真:J12)J12
デザート。(写真:J13)J13
スプーン。(写真:J14)J14
トイレにも大きな磁器があった。(写真:J15)J15

「九州陶磁文化館」に行く。佐賀県が運営している施設だ。(写真:J16)J16
姉妹都市でもあるドイツのマイセンから送られた鳥だ。(写真:J17)J17
古伊万里の白磁。この白は少しくすんでいるが、これが有田の泉山で採れる石の特徴だという。鉄分が多いらしい。従って、今有田では天草の石を使っているという。有田の石を使っているのは柿右衛門位らしい。(写真:J18)J18
柿右衛門。(写真:J19)J19
今泉。(写真:J20)J20
墨を含んで吹き掛けることで微妙な濃淡の変化を出すことができるという一子相伝の技だという。
5千万円のからくり時計。(写真:J21)J21
輸出された丼がシャンデリアの一部に加工されている。(写真:J22)J22
ヨーロッパに輸出されたものを買い戻した品々。(写真:J23)J23
面白いのはこの皿。使い方はあごの下にへこんだ部分を当てて、ひげをそったという。(写真:J24)J24
ヨーロッパでは中国景徳鎮の磁器が非常にもてはやされていたという。そこで17世紀に漸く磁器に辿り着いた有田は、景徳鎮産と偽って輸出をしたという。その歴史が約100年。すると景徳鎮が巻き返してきて輸出市場を奪われ、輸出していない時期が約100年。そして幕末から明治にかけての100年で古伊万里の名前で猛烈な人気を取り戻して大量に輸出されるようになるのだった。
また、佐賀藩で庇護され、肥後藩主用や将軍への献上品として造られたので、歴史的には「色鍋島」、「柿右衛門」、「古伊万里」と変遷してきたという。
山へ行く。「泉山」の鉱山だ。山一つが掘り出されていた。(写真:J25)J25
「ブラタモリ」にも出た場所だ。白い部分の石を砕き、鉄分を抜いて粘土にするという。(写真:J26)J26
「トンバイ壁」。これは釜を壊した際に出た石を積み上げて壁としたもの。(写真:J27)J27
磁器の焼き釜は、昔は赤松を燃やして1300度の温度をキープし30時間も焼くという。ここ有田では、泉山の石と赤松の木が沢山採れたというラッキーがあった。燃料はその後石炭、重油、今はガスとなった。
この皿は古伊万里を製造する過程が描かれている貴重なものだ。(写真:J28)J28
古伊万里の皿。(写真:J29)J22

J29
水差しセット。(写真:J30)J30
それでは現代の作品を見て行こう。まずは「辻常陸」(写真:J31)J31
「平林伊平」(写真:J32)J32
「染錦四季花絵」(写真:J33)J33
「ヤマトク」(写真:J34)J34
「赤絵の狛犬」(写真:J35)J35
有田の町並みだ。古い形を残している。(写真:J36)J36
「伝統的建遺物」の証。各家に貼ってある。(写真:J37)J37
有田市のマークは「いちょう」(写真:J38)J38

最後は福岡で行きつけの店「よしむら」でまずは焼き肉を、特上カルビだ。(写真:J39)J39
上ミノとホルモン。(写真:J40)J40
勿論もつ鍋ですね。(写真:J41)J41
(写真:J42)J42
満足満腹の旅でした。お疲れ様でした。
以上、雨続きの九州から戻った勢古口がお送りしました。

「大宰府から壱岐の島へ」

『J REPORT 2019年7月第3週』
「リタイアメント・ノート 11年1か月目」
「VOL.1116号 SINCE  AUG.12th, 1983」
「旅暦88、北部九州への旅」
「壱岐の島へ」
久しぶりの4S会での旅だ。次男夫婦の住む壱岐の島へ向かう。羽田からANAで福岡空港へと飛ぶ。地下鉄、西鉄を乗り継いで大宰府到着。まずは腹拵えで駅前のラーメン店「暖募」に行く。客は80%以上が中国人だ。豚骨スープの九州ラーメンを食べる。(写真:H1)H1
駅前からタクシーで「坂本八幡宮」へ向かう。ここは新元号「令和」ゆかりの地だ。(写真:H2)H2
(写真:H3)H3
(写真:H4)H4
万葉集に収められた大伴旅人の歌「梅花の歌三十二首 序文」にある文言から引用されたのが「令和」だ。元々ここは大宰府政庁跡の隣にあり、旅人が住んだ家だと言われているのが三か所あるのだが、実際にここだと分かるのがこの神社だそうだ。旅人は大納言も歴任したが、大宰府の長官として赴任し、ここで暮らした。そして神亀4年(727)に役所が管轄した西海道の宮人たちを自宅に招き、宴を開いた時の歌だ。(写真:H5)H5
「がらんさま」(写真:H6)H6
別の和歌が刻まれていた。(写真:H7)H7
(写真:H8)H8
政庁跡(写真:H9)H9
神社の前(写真:H10)H10
4S会の3人(写真:H11)H11
さて博多駅に着く。駅前に大きな博多祇園山笠が飾れられていた。(写真:H12)H12
いよいよ祭本番に向かって盛り上がりつつある。
壱岐に行くフェリー乗り場のある博多港。大きな水槽があった。魚が泳いでいた。(写真:H13)H13
(写真:H14)H14
(写真:H15)H15
壱岐ではレンタカーを借りて息子の住む宿に行き、そこから夕食の「カキ小屋」へ向かう。ブーゲンビリアが咲く店だ。(写真:H16)H16
S氏兄弟(写真:H17)H17
3人(写真:H18)H18
牡蠣とサザエにアナゴを頼む。牡蠣は一盛り@500円、サザエも同じ。炭火で焼く。(写真:H19)H19
(写真:H20)H20
(写真:H21)H21
(写真:H22)H22
(写真:H23)H23
この店は元々は真珠採りの店だそうだ。副業で始めたのがカキ小屋だとか。経営者は二代目のYさん。
牡蠣のシーズンは冬だそうで、生の牡蠣は最高だそうだ。牡蠣は真珠採取の副産物みたいなものだが、1年物が一番美味しいという。今日は暇だからと、牡蠣は全てYさんが剥いてくれた。素人がやるにはちょっと難しいそうだ。牡蠣は2月に採れたものを冷凍してあるとい。あこや貝の貝柱が美味しいらしい。
アナゴだ。(写真:H24)H24
(写真:H25)H25
兜蟹が出て来た。7年物で個人で飼育しているという。(写真:H26)H26
(写真:H27)H27
本当に兜のようだ。(写真:H28)H28
最後はおにぎりを食べた。(写真:H29)H29
料金は飲んで食べて何と一人2500円だった。驚き。
帰りは「代行」で宿に戻る。

「震災遺産と東北の旅、宮古へ」

『J REPORT 2019年7月第2週』
「リタイアメント・ノート 11年1か月目」
「VOL.1115号 SINCE  AUG.12th, 1983」
「旅暦83」「震災遺産と東北の旅」
「初日、宮古へ」
令和になって最初の台風3号が関東の南岸を通過中ということで雨と風を心配していたのだが、どうもそれたようで傘も持たずに出掛けることが出来た。新幹線はほぼ満席で一路八戸に向かう。盛岡では岩手山も霞んでいる。(写真:K1)k1
北上川も増水していた。(写真:K2)k2
八戸から時刻表に乗っていないという特別列車「東北エモーション」に乗る。(写真:K3)k3
3両編成で中央の車両がキッチン、先頭が一般のレストラン、所謂食堂車。一番後ろが個室、コンパートメントになっている。(写真:K4)k4
この列車で八戸から久慈までゆっくり2時間の旅だ。シートは4人掛けだ。(写真:K5)k5
飲み放題なので白ワインを頼む。山形産「高畠ワイン」だ。(写真:K6)k6
4人揃って乾杯。(写真:K8)k8
まず出たのが、「もりおか寄せ豆腐、生湯葉と三陸の雲丹」。(写真:K7)k7
前菜は、「甘海老松前かけ、三陸いくら添え」、「青森産烏賊の酒盗和え」、「岩手鴨のスモーク オレンジフォーム」、「ホタテ貝のミキューイ の塩薫海」、「カラフルトマトのジュレ」、「紅木豚の南乳煮」(写真:K9)k9
ウミネコで有名な蕪島だ。(写真:K10)k10
海岸線が続く。(写真:K11)k11
(写真:K12)k12
スープが出てきた。「気仙沼産フカヒレ入り薬膳 竹筒蒸しスープ」。(写真:K13)k13
(写真:K14)k14
ワッパ飯。「海鮮ちらし寿司」。(写真:K15)k15
メインは「東北産牛もも肉のロースト」。(写真:K16)k16
太平洋。(写真:K17)k17
沿線の人たちが大漁旗を振って大歓迎。(写真:K18)k18
心温かいおもてなしだ。
最後はデザートのお菓子類だ。(写真:K19)k19
久慈駅到着。(写真:K22)k22
ここで一時間ほど余ったので駅前の「あまちゃんの家」に行く。数年前に朝ドラで流行ったらしいが、生憎私は見たことがない。(写真:K20)k20
(写真:K21)k21
三陸鉄道の待合室に有名な「ウニ弁当」を売る店がある。(写真:K23)k23
行ってみると直前に売り切れたという。おばあさんがいたので話し掛けた。ネットには一日限定20食とあったが、と聞くと「それでは私たちが生活できない。朝5時からお父さんと一緒に作り出して7時から20個販売し、その後も作って売りして大体100個売る」そうだ。一個1400円程度なので安いと言えば安い。残念ながら売り切れでした。(写真:K24)k24
いよいよ「三陸鉄道北リアス線」で田野畑駅へと向かう。どこも海岸線は高い堤防が作られ、海も見えない。鉄道はかなり内陸部を走っている。高い鉄橋の下には「鮭の孵化場」があった。(写真:K25)k25
高いところに鉄橋がある。(写真:K26)k26
田野畑で降りる。(写真:K27)k27
鳥越港から観光船に乗り「北山崎断崖クルーズ」に出掛ける。(写真:K28)k28
八戸に降りた時にも感じたのだが、寒い。気温が東京と全く違う。まして海の上は風も強く寒さが増す。
それに波もあるから揺れる。ローリングとピッチングが交互に訪れて恐ろしいくらいだ。
切り立った海岸線が延々と続く。その沖を船は行く。(写真:K29)k29
(写真:K30)k30
(写真:K31)k31
天候が良ければ美しい海岸線と古代の地層を眺めながらの楽しい船旅だったのかも知れないが、兎に角寒さと揺れで満足に写真も撮れない。ウミネコが並走している。(写真:K32)k32
切り立った崖、浸食された島、聳え立つ岩と変化に富んでいる。(写真:K33)k33
(写真:K34)k34
(写真:K35)k35
(写真:K36)k36
(写真:K37)k37
(写真:K38)k38
(写真:K39)k39
(写真:K40)k40
(写真:K41)k41
そしてまた田野畑駅に戻り、本日の宿泊地「宮古」に向かう。(写真:K42)k42
ホテルの食事はブッフェ形式。(写真:K43)K43
地元産の「ほや」が抜群に美味しかったので、追加して食べた。しかし問題は「飲み放題」というのがあり、時間と値段を聞いたが、アルバイトの若い男性は全く分からず、もめにもめたが、まあこちらの意向に沿った形で次々と飲み物を出させた。

「気仙沼へ」

「二日目、気仙沼へ」
朝、ホテルから歩いて浄土ヶ浜へ行く。ホテル前にて。(写真:M1)M1
8時から「さっぱ船」に乗る。「浄土ヶ浜」から「青の洞窟」へ行くとのことで、ヘルメットに救命胴衣を着けて出港。ウミネコ同伴だ。(写真:M2)M2
「かっぱえびせん」を配られたので、これを船から撒く。ウミネコの集団があっという間に現れて餌にしていく。やがて「浄土ヶ浜」だ。夏場は海水浴場となり船は入れないのだそうだ。奇岩奇石がある浜辺だ。(写真:M3)M3
ウミネコが飛び回る。(写真:M4)M4
嘗てお坊さんがこの地にやってきて、「この景色は極楽浄土だ」といったことから地名になったらしい。(写真:M5)M5
(写真:M6)M6
(写真:M7)M7
(写真:M8)M8
天然のワカメが生えている。(写真:M9)M9
岩山の上には神社があった。(写真:M10)M10
安産と海の安全だとか。尖った岩がある。(写真:M11)M11
青の洞窟巡りの他のボートがいる。(写真:M12)M12
あさ、いよいよ青の洞窟だ。徐々に船は近づく。(写真:M13)M13
狭い入口から船は穴に入る。中はちょっとした広さ。後ろを振り返ると入り口付近の海の色が青い。(写真:M14)M14
(写真:M15)M15
(写真:M16)M16
(写真:M17)M17
ムール貝がびっしりとあった。(写真:M18)M18
もう一度浄土ヶ浜を見る。(写真:M19)M19
宮古の港では大規模な護岸工事で高く大きな防波堤が築かれていた。(写真:M20)M20
港全体を囲っていた。工事中のクレーンが立ち並ぶ。(写真:M21)M21
市内の歩道橋に津波到達点が示されていた。(写真:M22)M22
これを見ると4m程の津波が襲ったことが分かる。
宮古駅から電車に乗る。非常に混んでいた。(写真:M23)M23
打波海岸というところで途中電車は止まる。撮影ポイントだ。(写真:M24)M24
釜石近くでラグビーワールドカップ用のスタジアムが建設中だった。(写真:M25)M25
バックスタンドでは仮設スタンドが建てられている。
釜石駅前の橋の上の店舗街で「釜石ラーメン」を食べる。(写真:M26)M26
透明なスープに細縮れ緬で実にさっぱりした昔風のラーメンで美味しかった。(写真:M27)M27
正面には日本製鉄の工場がある。(写真:M28)M28
やはりラグビーの街だ。(写真:M29)M29
ここから「BRT」に乗る。(写真:M30)M30
線路を潰して、そこを専用バスで走るのだが、途中は一般道も走る。JR東日本としては採算上から廃線にしようとしていた路線だったので、この際に列車からBRTに変えてしまった。確かに時刻表には一日に9本から10本しか走っていない。実際には朝夕の通学客が殆どだそうだ。JRとしては上手く立ち回れたということか?
大船渡、陸前高田等を通過して気仙沼に向かう。雨が降っている。ホテル到着、部屋から気仙沼港と正面には大島が見える。(写真:M31)M31
直ぐに夕飯の店に行く。人気の居酒屋だそうだ。店名は「ぴんぽん」。入った途端に大皿に盛られた刺身が出てきた。(写真:M32)M32
壁に大きな心という文字が。(写真:M33)M33
「つぶ貝」の焼き物。(写真:M34)M34
「ほや」(写真:M35)M35
「つぶ貝の刺身」(写真:M36)M36
「ほたて」の焼き物(写真:M37)M37
「かにみそ」(写真:M38)M38
「きゅうり」(写真:M39)M39
「烏賊焼き」(写真:M40)M40
「つくね焼き」(写真:M41)M41
「ホッケ焼き」(写真:M42)M42
何を頼んでもすぐに出てくる。周囲を見ると煙草を吸っている人が多いが、家族連れを含めて若い人が多かった。結局満席になっていた。それでも一人当たり4,400円程度だったから、また驚きだ。あれだけ食べて飲んでだから凄い店だ。まあ気仙沼では当たり前なのだろうが、タクシー運転手もリピーターが多く、出張者も使っていると言っていた。満足しました。この旅、グルメ旅になっています。

「南三陸市へ」

「気仙沼から南三陸市へ、三日目」
小雨が降っている。今日も「BRT」での移動だ。BRTとは、「バス・ラッピド・トランジット」の略だ。
気仙沼駅。(写真:B1)B1
仲間たち。(写真:M44)M44
そして気仙沼市内の「向洋高校」へ向かう。県立の水産高校で、海水浴場からすぐ近くにあった。津波に襲われたこの建物の保存が決まり、今年3月に新たな施設を加えて永久保存し、公開されたものだ。
まず、ガイドのO氏(80歳)に紹介された後、13分の津波の映画を観た。恐ろしい映画だった。津波の恐ろしさを改めて痛感させられた。何度見ても恐ろしい映画だった。
そして校舎内に入る。がれきの山だ。(写真:B2)B2
当初は校舎を壊す予定で一階部分は瓦礫を処理してしまった。(写真:B3)B3
一階から二階への階段部分だ。(写真:B4)B4
教室内部。(写真:B5)B5
(写真:B6)B6
(写真:B7)B7
(写真:B8)B8
(写真:B9)B9
3階に登る。車が教室の中に入ってきていた。(写真:B10)B10
(写真:B11)B11
4階に行く。ここは膝下位まで津波が押し寄せたという。書類入れが錆びている部分まで水が来た。(写真:B12)B12
4階に流れ着いた冷凍倉庫の巨大な部材だ。(写真:B16)B16
(写真:B13)B13
(写真:B15)B15
4階の外壁に何か(大型冷蔵庫?)がぶつかって壊れた。(写真:B14)B14
屋上に出る。
当日、高校には生徒約200人、教員20名余、工事関係者25名がいた。年3度の避難訓練を受けていたので、50数名は早期に自宅へ。残りは先生と共に近くの「地福寺」に避難、だが津波が10m以上とのことで更に上の陸前階上駅へと避難、その後階上中学に逃れて全員助かった。一部工事関係者と教員は屋上に逃げたが、そこにある塔へ登ろうと、教室より机や椅子を運び、それらを伝って登ったという。その時の写真がある。(写真:B17)B17
机と椅子。(写真:B18)B18
塔。(写真:B19)B19
実際には12mの津波だった。
屋上より室内体育館を見下ろす。屋根の部分だけがなくなっている。(写真:B20)B20
遠くに「地福寺」が見える。(写真:B21)B21
海側の神社がある丘だ。(写真:B22)B22
元々はお城があり、そこに仙台市内の人が別荘を建てたという。その隣に神社があり、ここで何名かの人が助かった。境内にあった欅(けやき)の木に登った。ところが偶然アルミ製のはしごが流れてきたので、それを使い更に上にと登ったという。
裏にも校舎がありまる。こちらの被害は少ない。(写真:B23)B23
中庭に卒業生が植えた木があり、こちらは津波に耐えた。(写真:B24)B24
屋根がなくなった体育館。(写真:B26)B26
校舎の4階部分にぶつかり欠けた跡がある。(写真:B25)B25
課外事業の教室だ。(写真:B27)B27
車数台が流されてきて、そこに家が原型を保ったままぶつかり、中の人は奇跡的に助かったという。(写真:B28)B28
最後にNHKで放送された母と子のお話し。夫と姉を失った家族のVTRに涙ぐむ。感動感激の震災遺跡「伝承館」でした。最後にO氏が言っていたのが、印象的だった。「防潮堤を造るより、逃げ道の整備が必要だ。車がすれ違えない道を逃げなければならないのだから」。その通りだと翌日知ることになる。

昼は寿司屋に行く。「大名握り」@3,500円を食べる。(写真:B29)B29
デザートの果物だ。(写真:B30)B30

BRTで南三陸市に行く。ここは志津川町と歌津町が一緒になった市だ。部屋に入るとウミネコが大歓迎してくれた。(写真:B31)B31
(写真:B32)B32
ホテルでの夕食だ。豪華だね。でも一般的だ。(写真:B33)B33
このホテルの売りは、三陸唯一の五つ星ホテルだということだそうだ。
それでは品々をご紹介しよう。まずは「前菜=真烏賊の海胆和え、蛸の煮こごり、茄子の鰯巻」(写真:B34)B34
「お造り=鮪、メカジキ、鱈昆布〆、赤海老」(写真:B35)B35
「酢の物=万棒の酢味噌掛け、灸秋刀魚サーモン絹田巻」(写真:B36)B36
「ずわい蟹ホールレク」(写真:B37)B37
「鮑の踊り焼き」これが目玉だ。(写真:B38)B38
ちょっと残酷だが、生きている鮑を焼くのだから、可哀想だった。でも美味しいから仕方ないか?
「洋皿=スモークサーモンと蛸と毛鹿褪め生カルパッチョ」(写真:B39)B39
「焼酎=さつま島美人」(写真:B40)B40
「殻付き海胆」これも目玉だったが、北海道の雲丹を食べつけている我らには物足りなかった。(写真:B41)B41
「蓋物=炊き合わせ」(写真:B42)B42
「蛸」これは追加オーダー分(写真:B43)B43
「海鮮茶碗蒸し」(写真:B44)B44
{ほや}これも追加オーダー分(写真:B45)B45
「鮑」(写真:B46)B46
(写真:B47)B47
結構団体客も入っていて、混雑していたのには驚いた。

「仙台経由で帰京」

「仙台経由で帰京、四日目」
8時45分から1時間の「語り部と共に震災復興ツアー」に出掛ける。語り部はホテルの方だった。聞くと震災後毎日やっているという。それもバス2台に分乗した50人位の乗客だった。
まず向かったのは「戸倉小学校」跡。今建物はないが、三階建ての普通の小学校だったが、海岸から250mというところにあった。流石三陸の子供らは避難訓練を常に行っていたという。3月9日の昼間、かなり大きな地震がこの地にあり、まずは生徒と教員は校庭に集まり、その後屋上へと避難することになった。この時点で避難場所は校舎屋上か近くの丘の上と候補地が二つあり、未定だったという。この日女性教師から屋上では津波に囲まれて孤立してしまうから丘に逃げようという提案があったそうだ。その決定は校長先生に委ねられる。
そして3月11日、太平洋の沖合で東西200km、南北450kmのプレートが突然動いた。それに伴い午後2時46分、マグニチュード9.0、震度6弱の地震が襲い、3分もの間揺れ続けたという。最初の警報は大津波警報で高さ10mだということだった。そこで校長は丘の上に逃げるという判断をした。写真に丘の上に家が建っているが、あの場所まで逃げた。(写真:S1)S1
生徒教師約100名。しかし津波というより海そのものが徐々に高くなってきた。振り返ると校舎と体育館が波にのみこまれていくのが見えた。その時の写真と語り部。(写真:S3)S3
そこで更に上にある山に登ることにした。そこには木立に囲まれた神社があった。(写真:S2)S2
最初に逃げた丘にまで津波は到達した。彼らは寒い夜をそこで過ごすことになった。すると真夜中に歌声が聞こえた。6年生が歌い出したのだ。一晩中、寒さにこらえながら歌い続け全員助かった。

次が小高い丘の上にあった「戸倉中学校」の現場へ向かう。(写真:S4)S4
(写真:S5)S5
この校庭にも近所の人たちが車で逃げてきた。生徒もここならば安全だと思っていた。しかし津波はこの高い丘の校舎の一階床にまで到達した。一部の人が丘から津波の写真を撮っていた。(写真:S7)S7
そこへ校舎の裏山から津波が逆流してきて2名の方が亡くなったという。今ここは公民館になっている。こんな高いところまで津波が来るとは、驚きだが、20mの津波だった。時計があった。2時48分で止まっていた。(写真:S6)S6
その時、語り部の人はホテルの5階ロビーから押し寄せる津波を見ていたという。海が盛り上がって広がっていく感覚だったという。このホテルの2階に露天風呂があるのだが、そこまで津波は来たという。
小学生が逃げた神社のある山だ。(写真:S8)S8
堤防を建設している。しかし10m程度の堤防が何の役に立つのだろうか?これこそ政治の不始末で形だけ整えるだけ、実際の住民のことなど考えていないのだと思うのだった。地元の土建屋だけが儲かり、次の津波が来たらまた同じ被害が出るのではないだろうか?だから堤防より逃げ道をという地元の人の話しに納得するのだった。20mの津波に10mの堤防で防げるの?

街の中心部に移る。ここには町役場の防災基地があり、3階建ての鉄骨が剥き出しになっていた。(写真:S10)S10
当時ここから避難放送をしていて、あの女性の悲痛な叫びはテレビでも何度も流されたのを覚えている。あの場所では全員が亡くなった。今は鉄骨の高さ近くまで土が盛られている。手製の慰霊碑があった。(写真:S11)S11
あの鉄骨だが、保存と廃棄の意見がぶつかり、一応2031年までは保存し、その時点で再度考えるということで妥協したという。志津川町の中心街には建物は全くなかった。地面は盛土で10m近くかさ上げされていた。
支津川湾の対岸にホテルが見える。(写真:S12)S12
海岸近くに残されたビルがある。ホテルの系列のビルで民間保存することにしたという。(写真:S13)S13
津波が到達した高さが分かる。ここでは15mだったという。(写真:S14)S14
(写真:S15)S15
当日ここで老人会の発表会が開かれていた。ビルの係の人は全員屋上に逃げるように指示したという。一名車で帰宅した人は自宅で津波に呑み込まれた。その屋上にも波が来た。足首当たりまで海水があるのが分かる。(写真:S16)S16
戸倉中学校跡が見える。あんな高い所にあるのが、津波にのまれるとは。(写真:S17)S17
(写真:S18)S10
ここでの被害者が意外に海岸付近では少なく、内陸部での死者が多かったという。理由は過去にはここまでは津波が来ないから大丈夫だという判断が裏目に出たためだ。兎に角津波が来るとなったら、常識を超えた判断が必要だということなのだろう。「自助、共助」というが、まずは自分の命を守ること、これが一番だ。
これまでの地元の人たちの意見を総括すると、
まず自然破壊である防潮堤が未来を壊しているということ。自然の美しさがなくなった故郷に若者が残るのかという疑問。美しい観光資源も同時になくなった。
次に防潮堤を造るよりも、内陸部の高台への逃げ道を確保することのほうが重要ではないのかという意見。
地元民の意見が反映された対策が取られているとは思われないのはどうしてなのだろうか?
地元の人の声をもっともだと今回の旅で思った次第だ。それとどこでも救助された人たちが助かった場所に神社やお寺が多かった。やはり先人たちは経験から神社仏閣を安全な場所に造ったということが分かった。

仙台に出る。昼食は牛タンの「利久」だ。
「ホタルイカと烏賊の塩辛」(写真:S19)S19
「ほや」(写真:S20)S20
「だだちゃまめ」(写真:S21)S21
「松前漬け」(写真:S22)S22
「仙台茄子」(写真:S23)S23
「牛タン極み」(写真:S24)S24
厚い牛タン、しかし柔らかい歯応え。やはり最高でした。
いやあ、計画立案してくださったA君のご努力で大変素晴らしい旅になりました。ありがとう。