「原爆爆心地へ」

「原爆爆心地へ」
壱岐の島はどんより曇っていた。心配なのは飛行機が長崎から到着するかだ。空港に電話をしたが大丈夫だという。タクシーで空港へ。霧で上空待機していた飛行機が無事到着した。(写真:D1)D1
DHC8-200というターボジェットだ。39人乗りの最後部の席に座る。あっという間、20分で長崎大村空港に着いた。長崎駅にバスで向かい、まずは腹拵えと駅ビルのレストランで「長崎ちゃんぽん」を食べた。(写真:D2)D2
他の3人は「皿うどん」に「餃子」でした。
そして路面電車の「一日券」500円を買い求めた。その前に電話があり、波が高くて「軍艦島上陸ツアー」が中止となってしまった。仕方なく、予定外だったが、平和公園に行くことにした。噴水。(写真:D3)D3
「平和の鐘」(写真:D4)D4
ここは元々「刑務所」だったところで、爆心地から500mほどあったので直撃で破壊されたという。「平和の像」があった。(写真:D5)D5
右手は原爆の直撃を示し、横に伸ばした左手は平和を意味しているという。あちこちに世界各国から寄贈された像があったが、説明等は省く。中学生の団体があちこちにいた。折鶴があった。(写真:D6)D6
原爆資料館に向かう途中に「爆心地」があった。(写真:D7)D7
8月6日11時2分にB29より投下された原子爆弾が上空500mで爆発した。死者74000人、負傷者75000人。隣にレンガ造りの塔がある。後で判明したのだが、「浦上天主堂」の一部を移築したものだそうだ。(写真:D8)D8
天辺にはザビエル像があるという。
「長崎原発資料館」に入る。その中で浦上天主堂の複製があった。本物は壊してしまったのだが、こうして当時を再現していた。(写真:D9)D9
その時、柱が土台からずれたことも分かるようになっていた。如何に風圧が強かったからだ。(写真:D10)D10
爆発時を再現していた。(写真:D11)D11
爆心地付近の写真だ。破壊され尽くしている。(写真:D12)D12
原爆投下は、小倉上空の天候不良により、長崎に変更された。爆弾発火は、無線によるもの、高度計によるもの、時計によるもの等々何段階もの手段で行うようになっていたという。最後は地面にぶつかってから発火するのが最後の手段だったという。2機のB29が通過した後には何が残ったのだろうか?我々はそれを知っている。

さて軍艦島上陸ツアーがキャンセルになってしまったために、軍艦島ミュージアムというところで疑似体験することにした。軍艦島も模型があった。(写真:D13)D13
(写真:D14)D14
(写真:D15)D15
この島に5000人以上の人々が暮らし、石炭を採掘して生活していた。明治初期から始まった採掘は昭和47年で終わった。明治大正昭和の産業を支えた石炭もその役割を終えた。今は世界遺産となり人気を集めている。

小腹が減ったということで、中華街の「福寿」という店で少し食べた。春巻き。(写真:D16)D16
焼売。(写真:D17)D17

さて「出島」のナイトツアーに行く。「ミニ出島」があった。(写真:D19)D19
(写真:D20)D20
(写真:D21)D21
(写真:D22)D22
(写真:D23)D23
(写真:D24)D24
(写真:D25)D25
出島は当初はポルトガル人がいた島だったが、島原の乱後、キリスト教布教を目的とするポルトガルと決別した幕府は代わりにプロテスタントのオランダを選び、平戸から移らせた。これらの管理は奉行所なのだが、実務は出島町人という25人の町人が行っていた。明日は奉行所跡を巡る予定だ。
戦後、戦勝国のオランダは日本からの賠償金を受け取らず、その金で出島の復興を願い支援したという。200数十年に亙るオランダと日本の交易の歴史を取り戻すためだ。明治以降、この地は居留地となり民間のものとなっていたが、それを長崎市が買い戻し、徐々に徐々に復興させて行き今に至る。まだまだ直していくという。
バトミントンをしている絵があった。(写真:D48)D48
オランダ統治のインドネシア人の召使たちが遊んでいるものだ。(写真:D26)D26
だから「バトミントン日本上陸の地」なのだ。
それではナイトツアー始まります。(写真:D27)D27
入口の門。(写真:D28)D28
実は今の出島は周囲が埋め尽くされており、橋の部分は逆に18mも削られて小さくなっていた。従って今ある橋は本物よりも大きなもので、実物は4.5mの短いものだったという。(写真:D29)D29
そして今の橋は、島の反対側の部分でのみ地上に接していて、島の部分には土台がなく、浮いた状態で接しているという。理由は遺跡の保存のためだそうだ。
門を入った直ぐの両側には石造りの倉庫があった。(写真:D30)D30
メインストリートだ。(写真:D31)D31
(写真:D32)D32
道路の端にある溝だが、江戸時代は瓦を敷いていたという。(写真:D33)D33
明治以降はV字型になっていた。
当時から全て畳敷だったが、オランダ人は靴のままで過ごしたという。
食堂だ。全てオランダから持ち込んだ家具類だ。(写真:D36)D36
クリスマスディナーの食卓です。(写真:D37)D37
(写真:D38)D38
食卓風景の模型がある。召使はインドネシア人やアフリカの人で裸足だ。(写真:D39)D39
オランダ人は靴を履いている。2人の日本女性は遊女でこれも裸足だ。(写真:D40)D40
日本女性は、女郎以外は出島に入れなかった。
珍しい婦人の絵がある。キャピタンの妻と息子だ。初めて外国から来た婦人だ。(写真:D41)D41
本来女人禁制の場所だけど、本国からジャカルタ経由で来たものと思われる。
輸出入の窓口の出島の門。輸入用の門だ。(写真:D42)D42
オランダからもたらされた秤だ。(写真:D43)D43
出島の絵図面。オランダにあった。(写真:D44)D44
シーボルトとお滝さんの絵。(写真:D45)D45
日本からは最初は金が、その後銅が輸出された。(写真:D46)D46
(写真:D47)D47
ビリヤードで遊ぶオランダ人。(写真:D49)D49
輸入品の一つは砂糖。(写真:D50)D50
丸山応挙の絵がある。実はこれは長崎のことを聞いて描いたものなので、嘘が多い。(写真:D51)D51
出島は、本来は海の中に埋め立てた島なのだが、明治以降周囲が埋め立てにより土地に囲まれてしまった。今、それらを復活させ完全な島にする計画があるという。昔の姿にしてもらいたいものだ。
さて、キャピタンは年に一度江戸で将軍に拝謁するために旅をした。長崎街道で小倉へ、船で兵庫へ、陸路京都を経て東海道を江戸に。往復約90日の旅だ。(写真:D52)D52
永代橋を渡る。(写真:D54)D54
将軍に拝謁。右の御簾の間から将軍綱吉が覗いている。(写真:D54-1)D54-1
行列の絵。(写真:D55)D55
シーボルトの乗る籠。前方に小さな箱が作られている。足の長いシーボルトが足を伸ばせるように改造したものだという。面白い。(写真:D56)D56
キャピタンは基本的には1年交代での来日なのだが、最長18年もいた人があったという。
それにしても1時間程度では見て回ることは不可能だった。出島はどんどん進化していた。
自称「出島の侍」というナイトツアー案内人にお勧めの店を聞いたら、なんと先ほど行った「福寿」だという。なんという偶然か?
再び「福寿」に。「豚肉ときゅうり」(写真:D57)D57
「ピータン」(写真:D58)D58
「ザーサイ」(写真:D59)D59
「トマトと卵の炒め物」(写真:D60)D60
「烏賊とニンニクの芽」(写真:D61)D61