「有田へ」
当初の予定を雨のために変更して長崎から有田に行く。まず訪れたのは「柿右衛門」の店だ。(写真:J1)
磁器の歴史は古く、中国では数千年前から製造されていたという。景徳鎮が有名だ。だから日本の戦国大名にとって茶器である磁器は垂涎の的だった。秀吉の朝鮮出兵の帰国時に多くの朝鮮の陶工が日本に渡った。自発的な人たちも多かったという。その中で「李参平」が1616年に有田で磁器を造れる年度を見つけた。それが「泉山鉱山」だ。そして有田で磁器の生産が始まった。元々福岡は八女の武士だった酒井田氏がその後漸く磁器の生産を行うようになり今は15代目となった。柿右衛門釜。(写真:J2)
柿右衛門では分業で作業が行われている。これは当初からのようだ。(写真:J3)
庭に金魚がいた。(写真:J4)
柿右衛門の特徴は、白磁に色鮮やかな柿色が映えている点だ。白い余白の使い方もその特徴だという。店の前だ。(写真:J5)
昼食はガイドさんとの待ち合わせ場所でもある「ギャラリー有田」。四方の壁にはティーカップがこれでもかと並んでいた。頼んだのは「有田五膳」。一日10食限定だ。(写真:J6)
色々な鶏料理だ。(写真:J7)
全ての器がそれぞれ凝っている。(写真:J8)
ティーカップは各自選べる。(写真:J9)
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私はアイスティーを頼んだ。(写真:J12)
デザート。(写真:J13)
スプーン。(写真:J14)
トイレにも大きな磁器があった。(写真:J15)
「九州陶磁文化館」に行く。佐賀県が運営している施設だ。(写真:J16)
姉妹都市でもあるドイツのマイセンから送られた鳥だ。(写真:J17)
古伊万里の白磁。この白は少しくすんでいるが、これが有田の泉山で採れる石の特徴だという。鉄分が多いらしい。従って、今有田では天草の石を使っているという。有田の石を使っているのは柿右衛門位らしい。(写真:J18)
柿右衛門。(写真:J19)
今泉。(写真:J20)
墨を含んで吹き掛けることで微妙な濃淡の変化を出すことができるという一子相伝の技だという。
5千万円のからくり時計。(写真:J21)
輸出された丼がシャンデリアの一部に加工されている。(写真:J22)
ヨーロッパに輸出されたものを買い戻した品々。(写真:J23)
面白いのはこの皿。使い方はあごの下にへこんだ部分を当てて、ひげをそったという。(写真:J24)
ヨーロッパでは中国景徳鎮の磁器が非常にもてはやされていたという。そこで17世紀に漸く磁器に辿り着いた有田は、景徳鎮産と偽って輸出をしたという。その歴史が約100年。すると景徳鎮が巻き返してきて輸出市場を奪われ、輸出していない時期が約100年。そして幕末から明治にかけての100年で古伊万里の名前で猛烈な人気を取り戻して大量に輸出されるようになるのだった。
また、佐賀藩で庇護され、肥後藩主用や将軍への献上品として造られたので、歴史的には「色鍋島」、「柿右衛門」、「古伊万里」と変遷してきたという。
山へ行く。「泉山」の鉱山だ。山一つが掘り出されていた。(写真:J25)
「ブラタモリ」にも出た場所だ。白い部分の石を砕き、鉄分を抜いて粘土にするという。(写真:J26)
「トンバイ壁」。これは釜を壊した際に出た石を積み上げて壁としたもの。(写真:J27)
磁器の焼き釜は、昔は赤松を燃やして1300度の温度をキープし30時間も焼くという。ここ有田では、泉山の石と赤松の木が沢山採れたというラッキーがあった。燃料はその後石炭、重油、今はガスとなった。
この皿は古伊万里を製造する過程が描かれている貴重なものだ。(写真:J28)
古伊万里の皿。(写真:J29)
水差しセット。(写真:J30)
それでは現代の作品を見て行こう。まずは「辻常陸」(写真:J31)
「平林伊平」(写真:J32)
「染錦四季花絵」(写真:J33)
「ヤマトク」(写真:J34)
「赤絵の狛犬」(写真:J35)
有田の町並みだ。古い形を残している。(写真:J36)
「伝統的建遺物」の証。各家に貼ってある。(写真:J37)
有田市のマークは「いちょう」(写真:J38)
最後は福岡で行きつけの店「よしむら」でまずは焼き肉を、特上カルビだ。(写真:J39)
上ミノとホルモン。(写真:J40)
勿論もつ鍋ですね。(写真:J41)
(写真:J42)
満足満腹の旅でした。お疲れ様でした。
以上、雨続きの九州から戻った勢古口がお送りしました。