「壱岐の歴史発見」

朝は息子が作った朝食です。(写真:B1)B1
(写真:B2)B2
宿です。(写真:B3)B3
いよいよ歴史の島「壱岐」の探訪だ。まずは「原の辻ガイダンス」でガイドさんと待ち合わせ。昨日、レンタカーを借りた直後に電話があり、先にガイド料の支払いを求められたが、観光案内所の場所も分からず大慌てした騒動があった。本日は無事にガイドのT氏と会えた。本来は午前2時間、午後2時間のガイドだったが、天候が不順なため、一気に4時間のガイドツアーにした。
ここ壱岐の島は、魏志倭人伝にも出てくる「一支国」のあった島だ。カキ小屋のあった内海湾に朝鮮から着いた船から降りた人たちは、小舟に乗り換えて「幡鉾川」を遡上し、首都である「原の辻」に来たという。(写真:B4)B4
岸倭人伝の文章には「一大国」と記されている。(写真:B5)B5
でも本当は一支国だ。(写真:B6)B6
そして船着き場に到着。模型があった。(写真:B7)B7
土と小枝を何層にも積み重ね、最後は周囲を石で覆ったものだ。
一部発見された「盾」と「胴巻」の復元模型。(写真:B8)B8
船着き場周辺には渡来人の住居があり、日本人は少し離れた田んぼ近くに住んでいたという。いよいよ原の辻の復元場所に向かう。発掘された柱跡の穴に、そこから先は長崎大学の学者が考えた想像に基づいて造られた建物があった。(写真:B9)B9
(写真:B10)B10
(写真:B11)B11
(写真:B12)B12
(写真:B13)B13
(写真:B14)B14
ここからは人面石も出たという。現物は後程見る。(写真:B15)B15
面白いのは「イヌマキ」という木を柱にしているのだが、そこの枝分かれした部分を利用して梁を掛けていることだ。ネズミ返しもあるから食料倉庫だろう。(写真:B16)B16
この様な柱の使い方は初めて見た。考えたものだ。縄で縛る必要がないからだ。物見櫓がある。船が遡上してくるのを見たのだろう。(写真:B17)B17
弥生時代だから、渡来人のもたらした壁付の屋根の建物もある。(写真:B18)B18
基本は竪穴住居だ。東北地方などは竪穴住居は平安時代でも使われていたという。
物見櫓。(写真:B19)B19
丁度屋根の吹き替え作業中だった。萱拭きだ。(写真:B20)B20
ここは環濠集落といわれていて3重の堀があった。今はそこにガマが生えていた。(写真:B21)B21
入口だ。(写真:B22)B22
環濠。(写真:B23)B23
基本的にこの場所は「祭祀」や外国人を歓迎する場所と王の住まいで、普通の人は住んでいなかったという。「権」という秤用の重りも見つかっている。青銅だ。(写真:B24)B24
「権」は物々交換の基礎となる秤で後の「権力」や「権限」を示すようになったと考えられている。銭も見つかっている。(写真:B25)B25
弥生時代は米が生産されていたが、それでも栄養の30%しかなく、やはり森からの食糧調達が主流だったそうだ。
「元寇」の戦いに進もう。2度の侵攻に壱岐の島は大損害を受けて殆どの住民が殺害されている。2度目の戦いに大宰府から派遣された守備隊長が若干19歳の「小弐資時」だった。たった100名の兵士と14万人の元との壮絶は戦いがここで行われた。写真の赤い家のところに守備隊がいて、元の大艦隊に埋め尽くされた海に向かい戦った。
(写真:B26)B26
小弐資時の像。これ自体は12歳と時のものだという。(写真:B27)B27
戦死者を埋めた千人塚。住民は殆ど虐殺された。(写真:B28)B28
古戦場跡。(写真:B29)B29
小弐資時の墓。(写真:B30)B30
碇石。海から引き揚げられたもので日本軍が補給のために派遣した船のものだそうだ。(写真:B31)B31
狼煙台が二つあった。(写真:B32)B32
(写真:B33)B33
海をジェットフォイールが進む、早い。時速75kmだとか。(写真:B34)B34
実は本当は博多と壱岐を1時間で結べるのだが、それだと補助金が出ないのでわざと70分にしているという。
壱岐には何と神社が1500もあるという。その内の最も新しい神社だ。(写真:B35)B35
(写真:B36)B36

古墳巡りに向かう。まずは「鬼の窟」(おにのいわや)(写真:B37)B37
奥行が13.5mだとか。(写真:B38)B38
「兵瀬古墳」(写真:B39)B39
「百田頭古墳」(写真:B40)B40
「笹塚古墳」(写真:B41)B41
中に「神代文字」と呼ばれている判読不明の文字がある。(写真:B74)B74
前方後円墳の「双六古墳」(写真:B42)B42
(写真:B73)B73
長崎県内最大の古墳だという。(写真:B43)B43
(写真:B75)B75
壱岐の島は行政上は江戸時代は平戸藩松浦家に、そして今は長崎県に属している。
これで本日のガイドツアーは終了。T氏と分かれて昼食へ。私はかつ丼の具だけ食べた。(写真:B44)B44
仲間は「うに丼」や「壱岐牛照り焼き定食」を食べていた。
最初にフェリーで到着した「郷ノ浦」は時計で言えば、7時方向。宿は12時で島の北端にある。内海湾は4時方向、そして向かった「猿石」は9時方向だ。いや驚き、猿そっくりだ。(写真:B45)B45
(写真:B46)B46
(写真:B76)B76
これが横から見ると猿なのだが、正面に回るとがっかり。普通の岩でした。次に向かったのが「一支国博物館」、黒川紀章氏設計だとか。途中の田んぼに鴨がいた。(写真:B47)B47
博物館資料室。全ての長崎県の遺跡の資料はここに集められているという。(写真:B48)B48
ジオラマがあった。中々の優れものだ。船着き場だ。(写真:B49)B49
(写真:B50)B50
人々の暮らしがここに再現されていた。白い服は日本人。青い服は渡来人だ。(写真:B51)B51
(写真:B52)B52
(写真:B53)B53
(写真:B54)B54
(写真:B55)B55
(写真:B56)B56
墓地と埋葬風景。(写真:B57)B57
巫女さんがいる。(写真:B58)B58
家の中。(写真:B59)B59
稲刈り風景。(写真:B60)B60
田で働く。(写真:B61)B61
「権」実物だ。(写真:B62)B62
「鉄の刀」(写真:B63)B63
「権と人が秤で」(写真:B64)B64
「人面石」実物。(写真:B65)B65
「鏡」(写真:B66)B66
「卜骨」鹿やイノシシの骨に熱した木をあてて占う。(写真:B67)B67
博物館の屋根部分。自然に調和させるために芝を植えた設計。(写真:B68)B68
(写真:B69)B69
夜は宿に魚屋さんから刺身の盛り合わせを運んでもらった。(写真:B70)B70
買ってきたサラダ。(写真:B71)B71
べったら漬け。(写真:B72)B72
壱岐の島には「鯨組」という組織があった。1000人から1500人の組が5組あったという。鯨採りの組で「鯨一頭、猫太る」とまれ言われた程、鯨が採れると皆が裕福になったという。それほどだったが、明治以降すたれた。江戸時代には島民の大半が鯨に関係していた。今の漁業は玄界灘の魚や烏賊のほかには、マグロ漁が盛んだという。300kgを超える大物も揚がるという。