「仙台経由で帰京」

「仙台経由で帰京、四日目」
8時45分から1時間の「語り部と共に震災復興ツアー」に出掛ける。語り部はホテルの方だった。聞くと震災後毎日やっているという。それもバス2台に分乗した50人位の乗客だった。
まず向かったのは「戸倉小学校」跡。今建物はないが、三階建ての普通の小学校だったが、海岸から250mというところにあった。流石三陸の子供らは避難訓練を常に行っていたという。3月9日の昼間、かなり大きな地震がこの地にあり、まずは生徒と教員は校庭に集まり、その後屋上へと避難することになった。この時点で避難場所は校舎屋上か近くの丘の上と候補地が二つあり、未定だったという。この日女性教師から屋上では津波に囲まれて孤立してしまうから丘に逃げようという提案があったそうだ。その決定は校長先生に委ねられる。
そして3月11日、太平洋の沖合で東西200km、南北450kmのプレートが突然動いた。それに伴い午後2時46分、マグニチュード9.0、震度6弱の地震が襲い、3分もの間揺れ続けたという。最初の警報は大津波警報で高さ10mだということだった。そこで校長は丘の上に逃げるという判断をした。写真に丘の上に家が建っているが、あの場所まで逃げた。(写真:S1)S1
生徒教師約100名。しかし津波というより海そのものが徐々に高くなってきた。振り返ると校舎と体育館が波にのみこまれていくのが見えた。その時の写真と語り部。(写真:S3)S3
そこで更に上にある山に登ることにした。そこには木立に囲まれた神社があった。(写真:S2)S2
最初に逃げた丘にまで津波は到達した。彼らは寒い夜をそこで過ごすことになった。すると真夜中に歌声が聞こえた。6年生が歌い出したのだ。一晩中、寒さにこらえながら歌い続け全員助かった。

次が小高い丘の上にあった「戸倉中学校」の現場へ向かう。(写真:S4)S4
(写真:S5)S5
この校庭にも近所の人たちが車で逃げてきた。生徒もここならば安全だと思っていた。しかし津波はこの高い丘の校舎の一階床にまで到達した。一部の人が丘から津波の写真を撮っていた。(写真:S7)S7
そこへ校舎の裏山から津波が逆流してきて2名の方が亡くなったという。今ここは公民館になっている。こんな高いところまで津波が来るとは、驚きだが、20mの津波だった。時計があった。2時48分で止まっていた。(写真:S6)S6
その時、語り部の人はホテルの5階ロビーから押し寄せる津波を見ていたという。海が盛り上がって広がっていく感覚だったという。このホテルの2階に露天風呂があるのだが、そこまで津波は来たという。
小学生が逃げた神社のある山だ。(写真:S8)S8
堤防を建設している。しかし10m程度の堤防が何の役に立つのだろうか?これこそ政治の不始末で形だけ整えるだけ、実際の住民のことなど考えていないのだと思うのだった。地元の土建屋だけが儲かり、次の津波が来たらまた同じ被害が出るのではないだろうか?だから堤防より逃げ道をという地元の人の話しに納得するのだった。20mの津波に10mの堤防で防げるの?

街の中心部に移る。ここには町役場の防災基地があり、3階建ての鉄骨が剥き出しになっていた。(写真:S10)S10
当時ここから避難放送をしていて、あの女性の悲痛な叫びはテレビでも何度も流されたのを覚えている。あの場所では全員が亡くなった。今は鉄骨の高さ近くまで土が盛られている。手製の慰霊碑があった。(写真:S11)S11
あの鉄骨だが、保存と廃棄の意見がぶつかり、一応2031年までは保存し、その時点で再度考えるということで妥協したという。志津川町の中心街には建物は全くなかった。地面は盛土で10m近くかさ上げされていた。
支津川湾の対岸にホテルが見える。(写真:S12)S12
海岸近くに残されたビルがある。ホテルの系列のビルで民間保存することにしたという。(写真:S13)S13
津波が到達した高さが分かる。ここでは15mだったという。(写真:S14)S14
(写真:S15)S15
当日ここで老人会の発表会が開かれていた。ビルの係の人は全員屋上に逃げるように指示したという。一名車で帰宅した人は自宅で津波に呑み込まれた。その屋上にも波が来た。足首当たりまで海水があるのが分かる。(写真:S16)S16
戸倉中学校跡が見える。あんな高い所にあるのが、津波にのまれるとは。(写真:S17)S17
(写真:S18)S10
ここでの被害者が意外に海岸付近では少なく、内陸部での死者が多かったという。理由は過去にはここまでは津波が来ないから大丈夫だという判断が裏目に出たためだ。兎に角津波が来るとなったら、常識を超えた判断が必要だということなのだろう。「自助、共助」というが、まずは自分の命を守ること、これが一番だ。
これまでの地元の人たちの意見を総括すると、
まず自然破壊である防潮堤が未来を壊しているということ。自然の美しさがなくなった故郷に若者が残るのかという疑問。美しい観光資源も同時になくなった。
次に防潮堤を造るよりも、内陸部の高台への逃げ道を確保することのほうが重要ではないのかという意見。
地元民の意見が反映された対策が取られているとは思われないのはどうしてなのだろうか?
地元の人の声をもっともだと今回の旅で思った次第だ。それとどこでも救助された人たちが助かった場所に神社やお寺が多かった。やはり先人たちは経験から神社仏閣を安全な場所に造ったということが分かった。

仙台に出る。昼食は牛タンの「利久」だ。
「ホタルイカと烏賊の塩辛」(写真:S19)S19
「ほや」(写真:S20)S20
「だだちゃまめ」(写真:S21)S21
「松前漬け」(写真:S22)S22
「仙台茄子」(写真:S23)S23
「牛タン極み」(写真:S24)S24
厚い牛タン、しかし柔らかい歯応え。やはり最高でした。
いやあ、計画立案してくださったA君のご努力で大変素晴らしい旅になりました。ありがとう。