「ヘルシンキとコペンハーゲン」

「ヘルシンキ」
8月18日(月曜日)
朝、船室から外を見ると多少白波が立っている。風があるのだろうか?ちょっと横揺れもするようだ。空には厚い雲が幾重にも覆っている。これまで感じなかった揺れが左右にする。船独特の揺れだ。6時に目が覚めたが、ぐっすりと眠れた。肝心のWIFIが繋がらない。これだけが問題だった。まあ仕方ない。今日は午前中ヘルシンキ観光で午後からコペンハーゲンに移動だ。最後の訪問地だから帰国も迫ってきた。降り立った「ヘルシンキ」はすでに初秋だった。もう夏は去っていた。気温18度。フィンランドも高福祉国家で月収が平均3200ユーロで共働きが当たり前、所得税が28%の累進課税、消費税24%。アパートの暖房は集団暖房システムで月額一人当たり20ユーロの水道代込みだそうだ。まあ、物価的にはノールウェイやスウェーデンよりは若干安めだった。船は10時に着き、約3時間の市内観光だったが、余り見るところもなかった。この国、700年間スウェーデン王に、その後はロシア皇帝に支配されていた歴史があるらしい。北欧の他の国は所謂バイキングの末裔だが、フィンランド人は人種的にも言語的にも違うらしい。昼は波止場近くの市場の屋台でコーヒーとピロシキ(合わせて6ユーロ)を食べた。北欧諸国は、ノールウェイはEUに入っていない。スウェーデンとフィンランド及びデンマークはEUに加盟しているがスウェーデンとデンマークは独自通貨のクローネでフィンランドはユーロと非常に複雑で4つの通貨を準備しなくてはならないので面倒くさい旅だった。行き来は自由にできるのだけはEUに準じている訳だ。さて、フィンランドは人口約540万人でストックホルムが約60万人、100歳以上の人が400人いるというから、日本の人口比に比べてもかなり長寿の国だと言えよう。出生率の低下には悩んでいて子育て支援はかなり充実しているとのこと。国会議員は200人の定員でその内40%が女性議員だという女性先進国だ。保育園も完備していて待機児童はいないとのことだった。フィンランドといえば「サンタクロース」「ムーミン」が有名だ。どれも今回の旅では何も影響はなかったが、娘家族への土産は昨日ストックホルムのデパ地下で魚介類のペースト状のチューブ3本を買った。パンやスナック等につけて食べるものだという。パスタにもいいらしい。喜んでくれればいいが。

「コペンハーゲン」
空港から市内への道筋の途中のガソリンスタンドの値段を観たら、リッター160円程度と意外に安い。500mmのビールも900円程度でこれも安い。これまでのノールウェイやスウェーデンが高過ぎたのだろう。EUの他の国並がデンマークだと思う。スーパーに行ったら、牛ひれ肉が1kg9000円、豚肉が1kg3600円となっていた。意外に肉が高い。デンマークの最低賃金は時間2000円だというが、世界一税金の高い国だが、これまた高福祉国家。どれがいいのか?まあ日本にいると分からないというのが実感だ。観光地としては超有名な「人魚姫」(リトルマーメイド)には沢山の観光客が集まっていた。意外に小さな像だった。顔は今にも泣きだしそうな悲しそうな顔だった。それと鱗の部分が足首から先だけだったのも初めて知ったことだった。最後に「王宮」を訪れた。今日は皇太子夫妻は王宮にいるということだったが、女王陛下は不在とのこと。ここの観光客で一杯だが、コペンハーゲンの観るものといったらこれくらいしかないらしい。たった3時間の観光でした。あっという間に時間が経過し、北欧4か国の旅は終わってしまった。最後のフィンランドとデンマークは本当に駆け足だった。もう北欧は秋の気配が漂っていた。これで帰国したらまた暑い残暑が待っているかと思うとがっかりだ。デンマークも女性進出が盛んで、ヨーロッパで最初に女性参政権が付与された国で現在議員の三分の一は女性で首相も女性だそうだ。
以上、帰国早々更新しました。暑い東京に疲れ張っている勢古口です。

「ストックホルム」

「ストックホルム」
土曜日の午後からはスウェーデンのストックホルムに飛行機で移動。空港から旧市街に入って夕食後、ホテルに到着した。ストックホルムはオスロと比べると暖かい。多分20度はあるだろう。だから歩いている人を見ても、オスロはダウンや革ジャンを着ていたのが、殆どが半袖だ。建物も高いし大きい。約90万人の人口だから、オスロとは比べ物にならないのだろう。物価もどうやらオスロより安いようだ。レストランで飲んだビールだけで比較すると、オスロの半額に近い。6掛けかな?ノールウェイはEUに加盟いていないが、殆どのことはEUと同じで人々の移動も全く制限がなかった。豊かな国ノールウェイにも乞食がいた。但し彼らは東欧のジプシー系の人たちだという。移動に制限がないからやってきて乞食をしているのだという。オスロの飛行場には「回転寿司屋」があった。生ものは殆どサーモンだった。機内に入ったら白人のおばちゃんが寿司を食べていた。「あっ、寿司を食べている」といったら「日本人か?」と話しかけて来た。聞いてみると旦那さんは日本男性で子供の名は、「金太郎」と「桜」だという。まあ面白い話しもあったものだ。金太郎22歳は兵隊で沖縄にいるというし、驚きでした。彼女も日本に住んでいたこともあり、温泉や浴衣の話しで大いに盛り上がった。さてスウェーデンは「59か国目」の訪問国だ。この国も高福祉国家だという。ノールウェイ同様「王国」、所謂「立憲君主国」だ。フィンランドは「共和制」だが、デンマークも王国だ。ヨーロッパは王国が多い。イギリス同様「君臨すれども統治せず」だ。政治的には全く力のない王様なのだ。日本の天皇制と同じなのだろう。王様も象徴なのだ。

8月17日(日曜日)
ストックホルムの市内観光。その前に雑学だが、このスウェーデンは200年間戦争していないという。第一次も第二次世界大戦も不参戦だったというから凄い。地方税は例えばストックホルムでは29.95%、国税、消費税を合わせると大体収入の半分が消えるという。さて、ノーベル賞の授賞式を行うのが「コンサートセンター」でこれは市内中心部にあったが、大した建物ではなかった。薄水色の意外に小さな建物で逆に驚かされた。また、授賞式後のレセプション会場は「市庁舎」でこれは旧市街にある落ち着いた建物で400年ほど前からあるというレンガ造りの趣ある建物だった。もう一つ驚いたのが「寿司屋」が多いこと。日本人はこの街に1500人程度住んでいるらしいが、寿司屋の多さには日本人気というか、日本食人気というか、寿司人気というか、凄いと思わざるを得なかった。航空会社はスカンジナビア航空を使っての移動だが、これがまたLCC並の素早さだ。我々が乗る飛行機が到着すると乗客が降りて来て、直ぐそのまま我々が乗る。だから到着後、出発までほぼ20分。だから当然掃除などしていない。荷物の出し入れだけのようだ。これでないとそれこそLCCに太刀打ちなど出来ないだろう。またアルコールもエコノミーは有料だというからLCC並である。「シリア・ライン」という客船での船旅でフィンランドの首都ヘルシンキに向かう。バルト海を西から東へと横断する船旅だ。「シリア・セレナーデ号」という客船だった。5万8千トンのクルーズ船だ。船旅はイタリアのシシリア島パレルモからミラノへの旅をしたことがある。今回はもっと本格的な船旅でカジノも付いているという。まあギャンブルは下手なので手出ししないほうがよいだろう。
ということで、乗船した。3000人定員の船で今回は2000人以上が乗っているという。カジノやらバーやらがあり、買い物もできる便利な船旅だ。夜のバルト海を走る。空は雲に覆われていて星も見えない。揺れも殆どなく朝を迎えた。
写真はストックホルム市庁舎でここでノーベル賞が授与されるという。

「首都オスロ」

「首都オスロ」
首都のオスロ。高速道路には「バス・タクシー専用レーン」があり、他のレーンは渋滞していたが、バスは随分と早く進めた。「ヘラジカ注意」のマークもあった。オスロは人口50万人の大都会だ。「国立美術館」で「ムンク」の絵を観る。有名な「叫び」は全部で5枚あり、そのうちの一枚は美術館から大富豪に70億円で売られたという。残りの4枚の叫びの絵は今後も売られることはないだろうとのこと。もしあったとしたら100億円は下らないという。ムンクの作品で「マドンナ」という裸婦の絵は予想50億円だという。どうしてそんな値が付くのだろうか?「叫び」は既に過去2回盗まれているという。だから海外への貸し出しも今後はしないそうだ。さてオスロは北緯59度95分だが、やはりメキシコ暖流の影響で冬でも夏でも過ごし易い?らしい。市内の「フログネル公園」の中には彫刻が沢山あった。一番人気は「怒れる子供」だという。地団駄、足踏みをする子供の姿が実に楽しいし、実感が湧いてくる傑作だった。

8月15日(土曜日)
オスロの市内を探索した。「オスロ大学」「王宮」「市庁舎」等々を巡ったが、疑問が一つある。「ノーベル」はノールウェイ人なのかスウェーデン人なのかということだ。本ではスウェーデン人となっているが、彼が活躍した時代を含めて400年間は、ノールウェイはスウェーデンに支配されていたのだ。それで巨万の富をダイナマイトで築いたノーベルは、ノーベル賞を設立したが、平和賞のみノールウェイで決めてオスロの市庁舎で受賞式が行われる。その他はストックホルムで行われる。これは何を意味しているのだろうか?もっと調査が必要だ。その日のドライバーさんは北海油田のプラットフォームで働いているという。2日働いて4日休みのローテーションなので暇な時にアルバイトでドライバーをしているという。
写真は平和賞が受賞される市庁舎の内部だ。

「ベルゲン」

「ベルゲン」
8月15日(金曜日)
ホテルで感じたことなのだが、ベッドの幅が極端に狭い。90cmほどだ。それに対して掛け布団の幅はベッドの1.5倍はある。理由は寒い地方なので芋虫のように丸まって寝るからだという。寝がえりをうたず熱を逃がさないためなのだろうか?またホテル前の駐車場には「プラグ」が設置されていて、プラグインハイブリッド車が使用できるようになっていたのには驚かされた。また、ノールウェイが裕福なのは「北海油田」から産出される原油と天然ガスの輸出が大きく貢献しているという。だから一番の産業は原油ビジネスだとか。これにより財政黒字、貿易収支黒字が保たれる優等国なのだ。またこの国のエネルギーの基本は水力発電による電力で家庭では暖房も給湯も炊事も全て電力で賄われているという。冬場はマイナス20度になることもあるのでそんな時は補助に薪ストーブを使うという。年休は5週間、60歳以上は6週間取れる。定年は67歳。普通の子供は18歳になると親元を離れて独立する。大学には国から資金を借りられるので基本的に全ての人が大学に通えるという。介護も福祉も教育も医療も全て無料の本当に素晴らしい国なのだ。
今日午前中はベルゲンの観光だ。この街の歴史は10世紀にノールウェイの首都として出来た古い街だとのこと。200年後には首都はオスロに移ったが、それまで、またそれ以降も重要な貿易港として栄えたという。フィヨルドの奥にあるベルゲンの港は北緯60度にあるのだが海が凍結せず、干満の差も殆どない良港だという。昔からタラを乾燥させたものをドイツ人のハンザ同盟の手を借りてヨーロッパに輸出していて繁栄を極めた。そしてノールウェイは今も非常に裕福な国だという。国民一人当りのGDPは世界第8位、勿論日本より上だという。年収の平均が700万円で所得税と年金で28%収入から引かれるらしいが、老後の心配が全くないので、貯蓄する人がいないという。ノールウェイ人は貯金しないと言ったが、実際には金利にも元本にも税金が掛かるのだという。元本にまで税金が掛かるから貯金せずに消費に回されるのだ。消費税25%も大きい。食料品は別だそうだが、恐ろしい高率だ。物価が高くても収入は食べるだけで、医療や学校等公共のものは全てただだから、皆ゆとりある生活をしているらしい。ベルゲンの人口は約27万人、内20%が公務員、最も単独で多い事務所は国立病院で1万1千人、学生が3万人、大企業はなく、中小企業の街のようだ。高収入、高物価、高税金、しかし高福祉だというから日本人の視点を変えて生きるという道もあるというものだ。ハンザ同盟のドイツ人のみが400年間暮らしていたのが、「ブリッゲン」地区というのが港の中心にあり、木造の倉庫街が世界遺産に登録されていた。地盤が悪いので家は傾いていたが、それでも今も一階は土産物店やブティック、画廊、二階以上はオフィスとして使用していた。火事で2回ほど焼け落ちたが復活されて現在に至っているという。小さな街だが、毎日フィヨルド観光のクルーズ船が訪れ、人気の観光地でもあるのだった。フィシュ・マーケットでは「ヘラジカ」「クジラ」「トナカイ」のサラミがあった。大きなタラバガニや海老、貝類、キャビアもあった。但しここのキャビアは魚の卵は全てそう呼ぶのでチョウザメのではないとのこと。海老などのすり身をチューブに入れたものもあった。

「北欧の旅」

「J  REPORT 2014 8月第3,4週」
「リタイアメント・ノート 6年2ヶ月目」、
「VOL。860 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦53、北欧4カ国の旅」
「またやってきた8月12日」
毎年、この日になると思い出すのが伊豆の空で見た日航機の姿だった。夏休みで家族と下田の民宿に泊まっていた。夕食前の時間に私は近所を散歩していた。午後6時半ごろ、空を見上げると日航ジャンボ機が通過していた。本来ならば1万メートルほどの高空を飛んでいるはずだったが、意外に大きく見えたのが不思議だった。あの時刻、下田上空を通過する日航機はあの後御巣鷹山に墜落したものしかなかった。そして午後6時56分、日航機は墜落した。
「フィヨルドの旅」
8月13日(水曜日)
デンマークの「コペンハーゲン空港」に着いた。デンマークは「58か国目」の訪問国だ。今日は乗り継いでノールウェイの「ベルゲン」に向かう。今、コペンハーゲン空港のラウンジにいる。成田から11時間。ここまでは順調だ。乗り継ぎ時間3時間強あるからホテルに着くと多分日本時間の14日の朝だろう。今回はビジネスクラスなので知らず知らずのうちに飲み過ぎて寝てしまった。フルフラットの座席だからぐっすりと寝てしまった。スカンジナビア航空はちょっと変わっている。手荷物は全て座席の上の棚に上げさせられるのだ。靴もしかり。座席周辺には荷物は一切置かせないのだ。3時間待ち合わせて乗継便でノールウェイのベルゲンというノールウェイ第二の都市に約1時間で到着。コペンハーゲンの日没は午後8時半、更に北のベルゲンでは午後10時でも薄ら明るかった。予想通りホテル着は日本時間の午前6時、日本との時差7時間でした。ベルゲンに着陸する時に見た光景では入り組んだ陸地、所謂フィヨルドと島々、そして白壁の家が白樺の林の中に点々としていたのが印象的だった。今回はダウンジャケットも持ってきた。先月のアイルランドが結構寒かったから用意したのだ。日本も出発する日には朝もそれなりに涼しくなっていたが、まだまだ残暑厳しい日が続くだろう。北欧の涼しさを満喫したい。

8月14日(木曜日)
ベンゲルからバスで「ヴォス」経由、列車で「ミュルダール」という高度900mのところまで行き、乗り換えてから約20km先のフィヨルドまで急こう配を列車で下って「フロム」という所まで行く。フィヨルドとは説明するまでもないと思うが、氷河期1000mから3000mもの厚さの氷河が海に流れ出る時に大地を削り、海に達した谷間のことだ。今回の「ソグネ・フィヨルド」は大規模なY字型をしたものでY字の下が海、Y字の左上の部分から我々は船に乗り、三俣まで向かい、そこからY字の右上に向かう航路を歩んだ。両側は低い壁でも500mから1000m、最高は1700mを超す垂直の岩の壁が連なり、幅1kmから2kmほどの水路となった部分を進む。仄聞するところによるとこの辺りの海水は氷河が溶けた真水と交り合い塩分が少ないのだという。途中にはたくさんの滝があり、岩壁の下の部分には崩れ落ちた岩の上に樹木が生い茂り、その上は断崖絶壁であり、頂上部分には残雪の雪渓があちこちに残っていた。今日の朝の気温は12度、正午は20度近くになったが、やはり風は冷たい。この時期に残っている雪はおそらく万年雪になるのだろう。ところどころに小さな集落もあり、数十人の住民が暮らしているらしいが、正にバイキングの発祥の地なのだろう。こういう自然環境厳しいところからバイキングたちは大海原を横切ってイギリスやアイルランド、アイスランド、そして大西洋を越えて今のカナダやアメリカに到達したのだろう。フィヨルドの美しさもさることながら、一番驚いたのはその物価の高さだ。ハンバーガー1個96NOK(ノールウェイ・クローネ)、概算で1NOKは20円だから約2000円、レストランで飲むビールは500ccで2000円、コカコーラ1.5Lは540円、昼食のブッフェ式の代金が3000円、スーパーでのビール500mm缶6本で2500円でした。ガソリンレギュラーでリッター320円、ディーゼルで290円。びっくりの物価だ。地元の人は一体いくら稼いでいるのだろうか?理解に苦しむ。大体日本の2倍から3倍だ。話しは変わるが、今日立ち寄った「ヴォス」という町はウィンタースポーツの町で上村愛子さんがワールドカップのモーグルで優勝した地でもあるという。余談です。フィヨルドの船旅を終えた「グドヴァンゲン」ではフランスからの大型クルーズ船が到着したばかりだった。この地方はクルーズ船が多く出入りする人気の観光地なのだろう。
それにしても皆、男女共に身体が大きい。本当にサイズが大きいのには驚く。

「蕎麦の話し」

「手前勝手世界食物語、第346号」
「蕎麦の話し」
西銀座の地下街の一角に「俺のそば」という店が数ヶ月前に出来た。今流行の「俺」のシリーズの一つだ。銀座には「俺の焼鳥」「俺の揚子江」等々もあるが、遂に蕎麦も出た。私は食べたことがないが、500円ワンコインでかなりボリュームのある蕎麦だそうだ。平日の昼時は20人ほどの行列が出来ていた。やはり人気になっていた。私は地方に行けば美味しそうな蕎麦を探す。写真は先日訪れた山形寒河江の蕎麦屋で出されたもの。中央には「蕎麦の実入りお粥」だ。まずこのお粥を食べてから蕎麦を食べるのだそうだ。田舎の蕎麦は都会の蕎麦と違って如何にも昔風の蕎麦でいつ食べても美味しい。「俺のそば」も一度トライしてみるつもりだ。
以上、勢古口が東京よりお送りしました。
13日より20日まで「北欧4カ国」の旅に出掛けます。従って「J REPORT」の更新は、21日と24日に纏めて行います。

「芝浦工業大学中学高校」

「芝浦工業大学・中学高校」
またまた豊洲の話しだがモノレール「ゆりかもめ」の「新豊洲」駅真近に建築予定なのが「芝浦工大」の「中学高校」一貫校だ。今年の年末から建設工事を行い、平成28年4月開校予定だと聞く。今、豊洲、晴海、東雲地区ではマンションラッシュが依然として続いている。当然学校も足りなくなるだろう。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?57」
「捕物道具」
「突棒(つくぼう)」「刺叉(さすまた)」「袖がらみ」を捕物の「三つ道具」という。これに「梯子」「投網」が使われた。これらの捕物の道具は今も機動隊などが使っているのと大差ないようだ。当時は「御用だ。御用だ」といって犯人を追い詰めるのが今とは違っているが、犯人逮捕の原則は変わっていないようだ。

「武家の玄関」
武家屋敷の玄関だが、式台のある「玄関」は武家の客が、勿論主人も使用したが、「中ノ口」と呼ばれるものからは出入の商人が、また「勝手口」からは奉公人や店の者、振り売りなどが使用したという。入口によって客の格が違うということでここにも身分制度の片鱗が現れている。

「江戸の災害復興」
竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける」「環境・民族編」の中で、「なぜ江戸城の天守閣は再建されなかった」という章で、「明暦の大火」(1651年)所謂「振り袖火事」という大災害で江戸市中は殆ど灰燼に帰した。人的被害は10万人以上と言われている。同時に江戸城天守閣も焼け落ちた。だが遂に再建されなかった。その訳は江戸復興に全力を尽くしたからだというのだ。主要道路は6間(10.9m)から10間(18.2m)へと拡大、「火除け地、広小路」の設置、「両国橋」の建設、「玉川上水」の建設、等々災害復旧事業に資金を使ったため天守閣にまで手が出なかったという。これをなしたのは「保科正之」、家康の孫だったそうだ。天守閣は敵を防ぐためにも重要な軍事施設だが、もうこの頃には平和になっていて徳川幕府に逆らって攻め寄せるような大名はいなかったということの証明のようなものなのだという。これも納得。それよりも公共事業を行い民の役に立てたという為政者がえらい。

「SASUKE PARK」

「SASUKE PARK」
先週も豊洲のことを書いたが、その時にもお話しした「SASUKE PARK」というテンポラリーな施設がある。多分夏休みだけなのだろうが、仮設の鉄パイプを組み合わせた施設を歩いたり走ったり登ったりするのだろうと思う。なにぶんこの近くに行くのは早朝の散歩なので人は全くいない。今日も朝から熱い日差しが強い。35度を超えるだろうと天気予報は言っていたが、正に実感だ。

「江戸時代の東海道の安全性」
竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける」「環境・民族編」の中で「なぜ9歳の本因坊秀策は東海道を一人旅できたのか」という項目がある。それによると9歳の少年が広島の尾道から江戸まで一人旅をしたというのだ。広重の「東海道五十三次」の絵を観ると分かるらしいが、旅人が勿論「老若男女」が旅をしている姿が描かれているという。故に当時の東海道は安全な街道だったというのだ。だが我々が知る東海道には「雲助」や「追いはぎ」が出たと教えられてきたような気がする。実はそれらは宿場が旅人を泊まらせようとして作り出した創作だというのだ。東海道には53の宿場があるが、江戸と京都を歩けば大体2週間ほどで着けるという。従って宿場は多くても20ほどでいいわけだ。だが53もあるのだから、当然競争は激しい。宿場では客を泊まらせるためには「危ないよ。早く宿を見つけて泊まったほうがいいよ。追いはぎが出るよ」といったデマだったというのだ。これも納得だ。安全性の証明は広重の絵で分かるというものだった。面白い。

「七五三の準備」

「七五三の準備」
孫娘は今年11月15日で満三歳となる。従って「七五三」を迎える訳だ。その仕度をと娘がやってきて、昔の着物を探したが、結局見つからない。まあ最初から新しいものを買ってやるつもりだったから問題ないが、昔の写真を探していたら、娘が三歳の時の写真が見つかった。驚いたことに今の孫娘そっくりだった。親子だからだろうが、実に娘も孫娘も三歳当時は似ていたことに改めて驚かされた。写真は愛犬「もも」を追いかける孫娘だ。

「2014年の映画のお話し」  2013年は221本の映画を観ました。
映画「サンシャイン」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年129作目)
スコットランドのリースという町に帰還した兵士とその家族らの恋愛を描くミュージカル。中々よかったよ。

映画「るろうに剣心 京都大火編」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年130作目)
好評な映画の第二作目。人を切ることを止めた剣心だったが、維新政府のために遂に立ち上がり京都に向う。

映画「ブラックレイン」(TC日本橋にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年131作目)
1980年代にヒットした映画のリバイバル。ニューヨークの警察官がやくざ絡みの殺人事件とニセドル札を追って大阪にやってくるというもの。マイケル・ダグラスと高倉健が主演している。面白かった。

映画「ドラえもん スタンド バイ ミー」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年132作目)
夏休みなので小学生がたくさん来ていた。のび太君の将来が危機に。そこでドラえもんが過去にタイムスリップする。大人でも楽しめるコミックでした。

8月8日付けの日経新聞夕刊「シネマ万華鏡」の評価は、「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」が4つ星、「FORMA」が4つ星、「トランスフォーマー/ロストエイジ」が3つ星、「ドラえもん」が3つ星、「めぐり逢わせのお弁当」が4つ星、「ぼくを探しに」が3つ星、「ジプシー・フラメンコ」が3つ星でした。

「私の去年2014年の映画の評価は?」
今年の★★★★★は、「青天の霹靂」「超高速・参勤交代」「人生はマラソンだ」「ゴジラ」「なまいきチョベレンと水夫さん」
今年の★★★★は、「小さいおうち」「アメリカン・ハッスル」「ウルフ オブ ウォールストリート」「光にふれて」「ダラス・カーボウイズ・クラブ」「それでも夜は明ける」「あなたを抱く日まで」「世界の果ての通学路」「チョコレート・ドーナッツ」「プリズナーズ」「ウッドジョブ」「マンデラ」「X?MEN」「グランド・ブタペスト・ホテル」「私の男」「パークランド」「マダム・イン・ニューヨーク」「怪しい彼女」「思い出のマーニー」

「2014 旅の記憶シリーズ」
2014年の国内旅行は、第1回目は九州福岡と水俣(1月)、第2回目は能登(1月2月)。第3回目は長崎(3月)。第4回目は山形寒河江、青森白神山地、函館、第5回目は福岡、佐賀(6月)、第6回目は福岡、壱岐(7月)でした。
2014年の海外旅行は、トルコ(1月、3度目)、台湾(2月、3度目)、シンガポール(3月、X度目?)、フィンランド、ポーランド(6月、55&56ヶ国目)、アイルランド(7月、57カ国目)です。

「2014 歌舞伎観劇シリーズ」歌舞伎座にて★★★★「今年4回目」

「2014 本の記憶シリーズ」  2013年は本を350冊読みました。
「偽装強盗」(六道 慧 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年189冊目)

「海賊と呼ばれた男 上」(百田 尚樹 著)講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★★(今年190冊目)
流石本屋大賞を得た作品だ。面白い。日本の石油業をあまねく描く。

「海賊と呼ばれた男 下」(百田 尚樹 著)講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★★(今年191冊目)
出光興産を起こした出光佐三の生涯を描く。読んで久し振りに涙が出た。非常に面白かった。

「毒物殺人」(今野 敏 著)講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年192冊目)
「警視庁科学特捜班」シリーズ第2弾

「風塵の剣」(稲葉 稔 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年193冊目)
「風塵の剣」シリーズ第6弾

「寒雀」(今井 絵美子 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年194冊目)
「照降街自身番書役日誌」シリーズ第2弾

「崖っぷちにて候」(坂岡 真 著)祥伝社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年195冊目)「新・のうらく侍」シリーズ第1弾

「夏祭り」

「J  REPORT 2014 8月第2週」
「リタイアメント・ノート 6年2ヶ月目」、
「VOL。859 SINCE AUG.12th、1983」
「夏祭り」
東北の夏祭りの便りが聞こえてきた。私は仙台に足掛け6年半住んだことがあるが、東北の夏祭りは「仙台七夕」だけしか観た事がない。「青森ねぶた」「秋田竿灯」「山形花笠」「盛岡さんさ踊り」には一度は行って見たいものだ。さて地元深川の夏祭りと言えば「富岡八幡宮」の「深川八幡祭」通称「水掛祭」だ。江戸三大祭(赤坂日枝神社の山王祭と神田明神の神田祭)と言われるだけあって、神輿の数も凄い。今年は3年に一度の「連合渡御」の年で8月17日に行われる。永代通りを通行止めにして「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声で練り歩く。沿道からは大量の水が掛けられる。子供が小さい頃は子供神輿を担がせたこともあった。その昔、紀伊国屋文左衛門が寄贈したといわれた金張りの大神輿が3基あったそうだが、関東大震災で被災消失したという。今は境内には某運輸会社の元会長が寄贈したものが置かれていて17日には登場する。写真は晴海地区の神輿だ。

「日本語の不思議」
竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける」「環境・民族編」の中で「なぜ日本語は分裂せず、現代まで生き残ったか」という章がある。世界の言語はどんどん分化していき、それぞれの部族毎の言語になるという。例えば多民族国家のロシアやインドがそれだという。ヨーロッパも中国等もそうだろう。確かに地方で言語が違うのは世界中の常識かも知れない。しかし南北に長い日本はほぼ統一された言語が残されてきていた。これは不思議だというのだ。そして日本語は「方言」の段階で踏みとどまったというのだ。これには江戸時代の「参勤交代制度」も貢献したのではないかと著者はいう。各地の大名は基本は江戸で生まれ江戸育ちで大名になってから2年毎の地元に戻るから、江戸の言葉で育っているので日本語は方言での変化までで基本形は江戸弁が全国で通じていたというのだ。納得させられる話しだった。