「芝浦工業大学・中学高校」
またまた豊洲の話しだがモノレール「ゆりかもめ」の「新豊洲」駅真近に建築予定なのが「芝浦工大」の「中学高校」一貫校だ。今年の年末から建設工事を行い、平成28年4月開校予定だと聞く。今、豊洲、晴海、東雲地区ではマンションラッシュが依然として続いている。当然学校も足りなくなるだろう。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?57」
「捕物道具」
「突棒(つくぼう)」「刺叉(さすまた)」「袖がらみ」を捕物の「三つ道具」という。これに「梯子」「投網」が使われた。これらの捕物の道具は今も機動隊などが使っているのと大差ないようだ。当時は「御用だ。御用だ」といって犯人を追い詰めるのが今とは違っているが、犯人逮捕の原則は変わっていないようだ。
「武家の玄関」
武家屋敷の玄関だが、式台のある「玄関」は武家の客が、勿論主人も使用したが、「中ノ口」と呼ばれるものからは出入の商人が、また「勝手口」からは奉公人や店の者、振り売りなどが使用したという。入口によって客の格が違うということでここにも身分制度の片鱗が現れている。
「江戸の災害復興」
竹村公太郎著「日本史の謎は地形で解ける」「環境・民族編」の中で、「なぜ江戸城の天守閣は再建されなかった」という章で、「明暦の大火」(1651年)所謂「振り袖火事」という大災害で江戸市中は殆ど灰燼に帰した。人的被害は10万人以上と言われている。同時に江戸城天守閣も焼け落ちた。だが遂に再建されなかった。その訳は江戸復興に全力を尽くしたからだというのだ。主要道路は6間(10.9m)から10間(18.2m)へと拡大、「火除け地、広小路」の設置、「両国橋」の建設、「玉川上水」の建設、等々災害復旧事業に資金を使ったため天守閣にまで手が出なかったという。これをなしたのは「保科正之」、家康の孫だったそうだ。天守閣は敵を防ぐためにも重要な軍事施設だが、もうこの頃には平和になっていて徳川幕府に逆らって攻め寄せるような大名はいなかったということの証明のようなものなのだという。これも納得。それよりも公共事業を行い民の役に立てたという為政者がえらい。