「ワルシャワ市内」

第6日目、6月10日(火曜日)、第7日目、6月11日(水曜日)
「ワルシャワ市内観光」
旧市街地の観光の前にまずは「ショパン」所縁の地を巡る。「ワジンキ公園」で「ショパン像」を観て、ショパンの「生まれた家」、父親が教師をしていた「ワルシャワ第一高校」、「ワルシャワ大学」等々を廻った。そして世界遺産の旧市街地へと。ワルシャワはヒットラーに徹底的に破壊された。理由はナチスドイツ占領下のポーランドで1944年8月市民たちが立ち上がり、所謂レジスタンス運動での市民一斉蜂起を行ったことによる。その鎮圧のためにヒットラーは西部戦線からも兵士を導入せざるをなくなり、彼の逆鱗にふれ、「ワルシャワを平らにせよ」ということで徹底的に破壊することを命じたという。約10万人の市民が死んだという。戦後はソ連により「社会主義国家」にさせられ、「スターリング」による知識人の虐殺が行われたりと苦労の連続だったという。旧市街地は戦前の姿に完璧に戻すべく作業が行われたという。だから今は非常に美しい姿を保っている。昼食後フリータイムに個人で「旧王宮」を見学した。内部も立派だったが、「絵画」も素晴らしいものが沢山あった。この数日、本当に暑い。毎日30度超えだ。湿度が低いから日陰に入ると涼しいが、直射日光の下では暑さに負けそうだ。ワルシャワでもこんな気候は珍しいという。さて、ポーランドの生んだ偉人だが、筆頭は勿論「ショパン」だろう。「コペルニクス」、「キュリー夫人」、「ワレサ」、「ヨハネパウロ2世」などだろうか?ノーベル賞を二度獲得したキュリー夫人は、実はワルシャワ生まれで18歳の時パリに留学し、フランス人と結婚したのでフランス国籍になっているが、実際はポーランド人だということを初めて知った。彼女も含め、彼女の夫も、娘婿たちも含めるとノーベル賞受賞者が5人もいる家族なのだという。ワレサ氏は1990年初めての民主化大統領選挙で選ばれた「連帯」の指導者だ。コペルニクスは有名な天文学者だし、前の前のローマ法王だった「ヨハネパウロ2世」は今年の4月に早くも「聖人」に列せられた。現地ガイドの方々はそれぞれ大学の日本語学科を卒業して勉強してきたのだが、その日本語の上手さには舌を巻く。東欧の国の人たちの言語能力の高さには驚かされる。それだけ色々の国との色々な複雑な関係が生じることから、持つことを余儀なくされた能力なのかも知れない。今から25年前の1989年、「ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア」の四か国から「民主化運動」がスタートし、その後東ヨーロッパ各地で民主化が行われ、「ベルリンの壁」の崩壊、「ソ連邦崩壊」へと続く。まだたったの25年しか経っていないとは驚きだ。ノルマンディー上陸から70周年、戦後69年の今年、東アジアの混沌はどうなるのだろうか?中国、北朝鮮、ベトナム、まだまだ民主化されていない地域が沢山ある。自由にものが言えない国から解放された東ヨーロッパの波は、近年「アラブの春」へと続いたが、依然として東アジアにその波は来ていない。非常に残念だ。
「平らな国、ポーランド」。いよいよ後にします。今日は満月だ。お月様も空から光り輝きポーランドに祝福を送っているようだった。写真は「旧王宮」だ。これも復活させたものだ。

「チェンストホーヴァからワルシャワ」

「チェンストホーヴァからワルシャワ」
第5日目、6月9日(月曜日)
旅も終盤になってきた。今日も快晴で暑い。道路工事中の人たちはヘルメットと黄色のズボンは履いているものの上半身裸で作業をしている。1989年で社会主義国に終止符を打ち資本主義自由主義になったにも拘らず、東西の格差は依然として縮まらない。だから明らかにヨーロッパとはいえ、道路事情の悪さはかなり酷いと思う。それと食事は美味くもなく、不味くもない。ツアー飯だとはいえ、「そこそこ」だと思う。毎食スープが付くのはありがたい。兎に角「ジャガイモ」が必ず付く。これが主食だから仕方がないのだが、いい加減に飽きてくる。物価も西側に比べれば安い。消費税23%の商品である飲料水で観てみると1.5リッターで、80円位(税込)、日本と比較すると半分か?大体そんな感じで物価の差はあるだろう。ところがこの国、国土は日本の5分の4だが、平地部分は90%、日本は3分の1が平地で残りが山地。これで比較すると有効活用できる面積は日本の3.5倍あり、人口が日本の3分の1だから、一人当たりでは10.5倍ポーランドのほうが大きくなる。だから使われていない国土が沢山あるということだいう。逆に言えばそれだけ発展の余地があるということでもある訳だ。可能性は残されている。ポーランドのこれからの未来に期待をしよう。さて、クラクフから「チェンストホーヴァ」に行く。ここの「ヤスナ・グラ修道院」には「黒いマドンナ」と呼ばれている「マリア様とイエス様」が描かれた絵があるという。黒いのは一つの説では火事が起きて、その煤が付いて顔が黒くなったという説と、マリア様は実際に薄黒い肌をしていたという説とがあるという。どちらだかは分からない。5?6歳位の子供たちがやってきた。女児は純白のワンピース、男児は白いジャケットを着ていた。集団での洗礼式だという。主祭壇に飾られたマリア様の前に集まった子供たち。修道士たちにより洗礼の儀式が行われるという。沢山の家族も見守っていた。今日も暑い。既に30度を超えている。この時期にこれだけ高い気温になるのは稀だという。夕方、ワルシャワに着く。ポーランド語だと「WARSZAWA」と書く。英語だと「WARSAW」となる。夕食はホテルでのビュッフェスタイルの食事だ。肉類は「ポーク・カツレツ」、「チキン・ソテー」、魚は「タラのソテー」、あと、野菜は豊富だった。味は良かった。昼は「キャベツロール」だったが、これも美味しかった。部屋に戻り、これを書きながら、ウォッカを飲む。地元産の「ズブルーフカ」という名前だが、「バイソン・グラス」との表記もあり、バイソンの絵が描かれていた。700ml、@39ZT、1560円。途中でトマトジュースを買い、カクテル風にしてウォッカをトマトジュースで割って飲んでいる。午後8時だが、まだ昼間と一緒の明るさだ。このウォッカ、中にハーブが入っていた。まあ、トマトジュースで割れば味は分からないが。

「カルヴァリアとヴィエリチカ」

「カルヴァリアとヴィエリチカ」
第4日目、6月8日(日曜日)
「カルヴァリアとヴィエリチカ」
ポーランドでは道路標識で頻繁に「鹿に注意」の表示がある。それだけ自然豊かなのだろう。ところが意外と「ネズミ」が道路脇でひかれている死骸を観た。それも小型の猫位の大きさのネズミだ。話しはポーランド経済だ。電力は大半が「石炭火力」だという。「原子力発電所」はない。石油はバルト海で産出されるが、大半は輸入だという。だからガソリンが高いのか。ガスは大半がロシアからの輸入だ。2005年にEUに加盟してからは「NATO」にも参加、「ユーロ」は使われていないが、市場では流通している。自動車は「ノックダウン」方式で自国ブランド車はない。最も驚いたのは「墓地」の光景だ。お墓には本当に驚くほどの美しい花が飾られていた。聞くとポーランド人は田舎なら毎週墓地を訪れ、花を飾るという。今、午前2時、駄目だね、時差ボケが一向に解消しない。昨日は、昼は「豚肉」、夜は魚の「タラ」を食べたと記憶してるいが、食事制限しているのでよく覚えていない。さて、古都「クラクフ」の人口は70万人、その内30万人が学生だという。「学生の街」なのだ。14世紀に建てられたポーランド最古の大学もここにある。ポーランドの国旗は日本とよく似ている。白と赤の旗だ。上半分が白、下半分が赤でこれは日没を意味しているという。日本とは真逆だ。ポーランドの産業について現地ガイドの「マチエイさん」に聞いてみた。すると農産物や酪農製品が輸出品だが、東欧の人件費の安さで西側からの「アウトソーシング」が今は産業の中心になりつつあるという。彼自身も「アナリスト」としてイギリスの銀行の人事管理の下請け作業をしているという。東西の格差もまだ依然としてあるのが現実だという。実は私は旅行直前の水曜日に「大腸内視鏡検査」を受け、2mmのポリープを除去した。その際に「旅行やアルコールは当分駄目ですよ」と言われていたが、無視して旅立った。まあ、なんとかこれまでは体調は問題なく過ごせている。今日の観光の最初は世界遺産「カルヴァリア・ゼブジドフスカ」の教会に行くことだ。だが日曜日だから「ミサ」をやっていた。私が教会の一番後ろの席に座っていたら、「ミサ」が始まってしまい、皆が起立して讃美歌を歌いだした。抜け出すことも出来ず、仕方なく皆に合わせて立っていた。10分位して歌の合間に教会を出た。その後、同じく世界遺産の「木造教会」群を訪れた。白川郷のような建物の小さな教会がこの地方には200以上あるという。最後は「ヴィエンリチカ地下岩塩採掘場」を観た。地風深く潜って岩塩を採掘した後の場所だ。数十kmもある坑道が網の目のようになっているところの一部を歩いた。トンネルには扉が沢山あり区切られている。そして一つの部屋に入って後ろの扉を閉めてから、前の扉を開ける。こうしないと空気が急激な流れになってしまうようだ。多分大量の空気を地上から送り込んでいるからだろう。さて工夫たちは広い空間を地下に造り、そこを礼拝堂としたのだという。素晴らしい地下教会もあった。ここは1978年に世界遺産に登録されたという。ユネスコが世界遺産というものを作った最初の「登録第一号」の一つだという。可哀そうだったのが、馬たちだ。地上から入れられた馬は死ぬまで暗い地下空間で暮らしたのだという。勿論労働させられてだった。嫌がって暴れる馬を地下に入れる。恐ろしいというか実に可哀そうな話しだった。

「アウシュヴィッツ」

「モザシチからクラクフ、そしてアウシュヴィッツ」
第三日目:6月7日(土曜日)
まだ眠たいが、起き出したら4時半だ。既に日の出は過ぎた。5時丁度から東に向かってホテルを出て歩き出す。このホテル三ツ星だというが、設備は何もない。ガソリンスタンドに併設されたホテルで部屋も狭く当然ながらシャワーのみ。さてこの国はガソリンが高い。レギュラーでリッター大体220円から210円、ディーゼルは10円引き位だった。日本と比べても高い。歩き出してまず鉄道の上を通る高架橋を越える。右へ曲がり住宅街を進み、大きな通りに出たのでまた右折し、自動車専用道路にぶつかったので右折して元のホテル前の道路に戻った。この間に踏切を通過した時に警報が鳴り遮断機が下りたので、脇により電車が走り過ぎるのを2度見た。通勤用のようだった。早朝約1時間、5km程度の小散歩だった。空気が澄み切っている。気温は10度前後だろう。朝早くは地上付近を朝霧が漂っていた。ここ「クラクフ」は「ポーランドの京都」というような古都らしい。11世紀から16世紀にポーランド王朝の首都として栄えた街だとか。ポーランドでも南のこの辺りは結構標高差がある丘陵地帯だ。すぐ南は「スロヴァキア」になる。ヨーロッパの臍みたいな場所かな?さて、今ホテルに夕食後戻ってきたが、これを書くのが気が重い。何をどうやって書けばいいのか?頭が回らない。「アウシュビッツ・ショック」かもしれない。頭では分かっていたが、現実を見て感覚がマヒしてしまった。午前中に古都「クラクフ」の「バベル城」を見学し、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」作「白豹を抱く貴婦人」の絵を観た。厳重環視の中、ポーランドで最も価値のある絵画だという絵だが、やはり「モナリザ」と比べるとちょっと可哀そうな気がしてしまう。秀作ではあるが、絶品とはまでは言えないのではないか?それでも素晴らしいことは素晴らしかった。昼食後、「オシフィエンチム」に向かう。ここはドイツ語名で「アウシュヴィッツ」と呼ばれていた場所だ。話しは第一次世界大戦後に遡る。敗戦国ドイツには巨額の賠償金が課せられた。どうしようもない閉塞感が国内を覆う。そしてそれに追い撃ちを掛けたのが1929年の「世界大恐慌」。ドイツは国家として破綻してしまう寸前だった。当時のドイツ人はこの原因は商業を握っている「ユダヤ人」が悪いと判断する。そしてそんな間隙を縫ってオーストラリア人の「ヒットラー」が選挙により政権を握る。彼がドイツ国民を煽って行ったのが「ユダヤ人排斥運動」だった。ドイツ人の目には「憎きユダヤ!」という感情が急速に高まる。ユダヤ人のためにドイツ人はこんな辛い思いをしなければならなくなったという理論が国民を覆い尽くした。そして遂にドイツ軍は突然国境を越えてポーランドに侵入したのだ。こうして第二次世界大戦が始まった。占領下のポーランドでポーランド軍の宿舎と基地がオシフィエンチムにあった。ここオフィエンチムの最初はポーランドの政治犯、ドイツ軍に言わせるとテロリストが収容された場所だった。その後ヨーロッパ各地からユダヤ人が集められた。彼らには新しい土地への移住だということで大きな「ダビデの星」を胸に付けさせられ、簡単な手荷物だけで列車の貨物車に詰め込まれて送り込まれてきた。所謂「ホロコースト」の始まりだ。既に皆様も彼らのその後の結末はご存じの通りだ。収容所の入り口には「働けば、自由になれる」と書かれた看板(写真)が掲げられていた。その意味の如何に無意味なことだったのか。驚かされたのは、強制収容所ではシステマチックに且つユダヤ人たちを効率的に処理するということが行われていたことだ。そしてそれらの処理は、ユダヤ人同朋かポーランド人の囚人たちが行い、ドイツのSSたちは全く手を汚していなかったということだ。だから彼らドイツ人たちには人を殺しているという罪悪感や後悔の念は全くなかったというのだ。裸にされガス室に送り込まれ、殺された後の死体から女性は髪を切り取り、貴金属を剥ぎ取り、遺体を焼却炉に入れ、骨を粉砕し粉にして処分するこれら全ての工程は同じユダヤ人かポーランド人が行っていたのだ。今も残されている沢山の髪の毛、トランク、靴、日用品の数々、これらを観て悍ましさを感じない人はいないだろう。そして近くに「第2アウシュヴィッツ収容所」が建てられる。汽車が直接収容所内に入り、そこでドイツ人軍医が右か左へ行くことを決める。左へ行った者たちはそのまま直接ガス室へ、右に行かされた者たちは強制労働に従事させられるが劣悪な環境なので大体2か月で9割が死ぬという。右左の比率は、左75%、右25%だったという。そうしないと多過ぎて収容出来なかったのだという。こうしてこの地で公式な記録として残っているだけで120万人のユダヤ人が殺されたが、記録外が多数あったと想像される。当時ヨーロッパには約1000万人のユダヤ人がいた。では「なぜ今アウシュヴィッツなのか?」ということだ。そこに最大のテーマがある。「現代ヨーロッパの悩み」だともいえる「少子高齢化」「労働人口減少」「経済の低迷縮小」、これらがもたらしたのが「移民」だ。しかし住民と移民との間の「差別」「対立」が深刻化し、嘗てのナチスドイツ時代と同じような問題が生じつつあるという。その為にも過去を直視し、改めて「自由と平等」を訴え、過去の過ちを繰り返さないことのためにも、「アウシュヴィッツ」を教育材料にしているのだというのだ。私たちもガス室に入った。どうだろうか、学校の教室位の大きさの部屋に数百人が押し込められて上から殺虫剤を投げ込まれたという場所だ。思わず合掌し頭を下げてしまった。こんなことを人類は二度と起こしてはならない。しかし現実には「イスラエル対パレスチナ」「アメリカ対テロリスト」「キリスト教徒対イスラム教徒」、「イスラム内の宗派対立」、それ以外にも各知で紛争や闘争が行われている。東アジアも不安定だ。さてこの地で唯一の日本人ガイド「中谷さん」によれば、訪れる観光客は毎年増加しているという。日本人も増えているが、しかしそれ以上に韓国人が日本人を上回って増えているという。「繁栄し尽くした社会」と「発展し始めた社会」、この二重構造が軋みを生み、対立を激化させている現実。アウシュヴィッツを観て何を感じるのだろうか?私には人類の、そして日本の先行きを不安視することしか見えなかった。日本の社会の問題点はヨーロッパの今の問題点と全く同じだということだ。本当に非常にいい経験をした。今回の旅の最大の目的はここ「アウシュヴィッツ」に来ることだった。数えて56ケ国目の訪問国「ポーランド」。ここで観て感じたことを私は永遠に忘れない。最後にガイドの中谷さんが言っていた言葉が印象的だった。「私はここで15年ガイドをしています。今も毎日2回か3回、日本からの人をガイドしています。だから淡々と事実を述べるだけで仕事としてお話ししてしまっていて、嘗てのような感情を込めたお話しは出来ません」という。私にはアウシュヴィッツに毎日行くことなど決して出来ない。あの気持ちには決してなりたくない。

「ポーランドの旅」

「J  REPORT 2014 6月第3週」
「リタイアメント・ノート 5年12ヶ月目」、
「VOL。851 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦51、ポーランドの旅」
「ヘルシンキからワルシャワ」
第一日目―6月5日(木曜日)
成田から初めて「ボーイング787」に乗った。あれだけ乗りたかった機体だ。JAL0413便ヘルシンキ行。機内はがらがらだ。だからサービスもいい。驚いたのは窓にシェードがなく、窓ガラスの色が変化し、青黒くなり、陽の光を遮るようになっていたことだった。西に行くのにも関わらず若干の追い風で予定より1時間早く到着した。緑と水の国、フィンランドだ。ここで乗り換えてワルシャワに飛ぶ。まだ夕方だが、太陽は真上にあるようだ。どんよりと曇っているが気温は25度とのこと。初夏という感じだろうか?飛行場の周囲は「白樺」の林だ。時差は6時間。既に機内で持ち込んだ本を3冊読み終えた。バッグにはもう本がない。スーツケースにも何冊か入っているが、帰りに読むのがなくなってしまう。食事は機内食2回だったが、糖質制限中だからおかずだけ食べた。ダイエットには旅行は丁度いい。余計なものを食べなくて済むからだ。約1時間45分でワルシャワに着く。「ワルシャワ・ショパン空港」、何でもこの国では「作曲家ショパン」が最高なのだ。現地時間午後7時なのに太陽はまだ角度30度以上の上にある。ここも気温25度、明日は30度以上になるらしい。時差は7時間。ホテルで部屋に荷物を入れて直ぐに目の前の大きなショッピングセンターに行く。まずは両替。1万円で現地通貨250ZT(ズウォティ)だ。そして地下のスーパーマーケット「カルフール」で水とソーセージを買った。準備万端整いました。初めてのポーランド。「平らな土地」という意味の国名だそうだが、真っ平な平原が続いていた。森林と農地が入り組んでいるように飛行機からは観える。ワルシャワは中心部には高層ビルがあるが、大体が中層のビルで直ぐに郊外となり、アパート群と個人住宅、そして畑と森が広がっていた。新宿副都心を更に小さくしたような規模か?この町を歩く人々には色白の美人が多い。東欧は美人が多いとは聞いていたが、これからの旅が楽しみだ。顔が小さい八頭身型だ。さて、これを書きながら、持参した焼酎を飲み、買い求めたソーセージを食べた。物価は安いのかと思っていたが、意外とそうでもなく、加工肉(ハム、ソーセージ類)などは大体700円から1000円前後だった。品物は豊富だが、何か実感がつかめないといった感じだ。スーパーのこの光景は世界中皆同じになったからだろうか?どこの国にいるのかが分からないといった感触だ。
第二日目:6月6日(金曜日)
目覚めたらまだ午前1時半(日本時間午前8時半)、完全な時差ボケだ。4時間ほど寝たのだろうか?二度寝して目が覚めたら午前4時半。大体東京で生活しているとの同じ時間帯に起きた。風呂に入ってから散歩に出掛ける。まずは「ワルシャワ中央駅」へ。この時間だが列車の発着もあり、人々が歩き回っていた。道路が広い。ヨーロッパの都市でも広さでは負けないだろう。駅から北上して国立博物館辺りまで歩き、ホテルに戻る。約1時間10分の朝の散歩。気が付いたのは、歩道に「タバコの吸い殻」が多いことと、ヨーロッパにしては珍しく自転車が少ないことだった。車社会なのだろう。日本車も多い。トヨタ、ホンダ、マツダ、日産、スズキが走っていた。それはドイツやフランス、そしてアメリカの車も多いが日本車大いに健闘しているようだ。タバコは皆がどこでも吸っている。そしてポイ捨て。困りますね。さて7時半にホテルを出発して東南の「ザモシチ」という町へ向かう。高速道路がない。一般道と自動車専用道路の合の子のような中途半端な道路を走る。この国、やはり「中進国」だ。それは道路の未整備が物語っている。ちょっと郊外に出るともう「林と田園風景」だ。どこまでも続く平坦な土地に畑が広がり、林が点在する。畑では多分「輪作」が行われているのだろう。麦、穀物類、牧草、休耕地が交互にある。周囲は緑一色だった。道端に「十字架」や「イエスキリスト」、「マリア様」などの像が点々とある。まるで日本の「お地蔵様」のようだ。カソリックの国ならではなかろうか?もう一つ、「墓地」のお墓には生き生きとした花が捧げられていた。余程頻繁にお墓参りに来ているのだろうか?感心な人たちだ。ところで二つ疑問がある。一つ目は川がないことだ。ワルシャワを流れる大河「ヴィスワ川」が国土の中心を南から北に流れ、この幹に毛細血管からのように支流が流れ込み、バルト海に流れ込む。だから道路を走っていても、この大河を二回超えただけで後は小川すら見えないし、橋で越えることもない。延々と続く平原だけなのだ。摩訶不思議だ。もう一つは動物が見えないことだ。牛も結局今日一日で10頭も見なかった。酪農王国での話しだ。ヤギ一頭、ニワトリ数羽、猫一匹、犬数頭、これが今日見た動物だ。何でこんなに少ないのか?目に見えないところにいるのだろうが、不思議な世界だった。道路に速度制限の看板が非常に少ない。見てみると最高速度100kmから50kmと10km毎の表示はあったが、村なり町を走る時は50kmで後はかなりの早さで走れる。途中ネズミ取りを数か所でやっていた。どこの村にも町にも「教会」がある。キリスト教国なのだ、ここは。道路の上に電光掲示板があり、気温と道路の表面温度を示していた。この国ではやはり冬の凍結が交通に支障をきたし、問題になるのだろう。それでも道路工事をあちこちでやり、高速道路網を強化しているようだった。道路にだけ関していえば、日本より30年は遅れていると思った。さて、目的地の「ザモシチ」に着いた。ここは16世紀末にある貴族が留学先のイタリアの「ルネッサンス」に憧れ、ルネッサンス様式の建物を自らの資金で建てた街なのだという。100m四方の広場の周囲に「市庁舎」、「教会」、そして「商人の館」が建てられていた。「市場」が広場では開かれていたという。写真は「銃を背負う女性」とでも名付けようか?偽物の銃を肩にして歩く女性の後ろ姿だ。観光客集めなのだろうか?市内観光後、320km先の「クラクフ」へと向かう。日没は午後8時45分でした。クラクフ到着は午後9時でした。ワルシャワから「モザシチ」まで250km、本日の走行距離は合計570km強でした。さて食事は昼が「ビゴタ」という地元の名物料理にビール大@7ZT(280円)。「牛肉とソーセージを細切れにしてザワークラフト(酢漬けキャベツ)を一緒に煮込んだもの」を食べた。ビーフストロガノフのようなものだった。夜は豚肉のソテーと茹でたポテトと人参でした。生ビール10ZT(400円)。まあツアー飯だから仕方がない。不味くても文句は言わない。

「驚きのトマト・パワー」

「雹(ひょう)」
富岡製糸場からの帰りに空が暗くなり雷の音も聞こえるようになった。その後高崎駅の新幹線ホームで待っている時、屋根にバラバラと何かが当る音が聞こえてきたと思ったら、大量の「雹」が振り出した。パチンコ玉大の雹が音を立てて降り注ぐ。あっという間の出来事だった。農産物にも被害が出たのではなかろうか?心配だ。だが、熊谷を過ぎたら、もう明るくなり、雨も止んでいた。

「驚きのトマト・パワー」
この話しをするためには私の健康状態も明らかにしなくてはならないので若干躊躇したのだが、皆様のお役に立てればと思い恥を承知でかかせてもらう。
数年前に京都大学のチームが「トマトジュースの効能として、血糖値を下げる作用がある」と発表した時にスーパーの棚からトマトジュースが無くなったことがあった。今年3月初めの定期健診で、ヘモグロビンA1Cが7.5と急上昇していた。食後2時間の血糖値も何と300、γ―GTPにいたっては600もあった。禁酒一ヵ月後の4月初めの人間ドックでもHBA1Cが8.5、γ―GTPは146と禁酒効果はあったものの、このままでは大変なことになると思って、二つのことをした。一つが「トマトとトマトジュース」、二つ目は「おからダイエット」だった。毎日中型のトマトを一個とトマトジュースを250ccから300cc飲んだ。そして二ヶ月経過した6月初め。結果は驚くなかれ、HBA1Cは「6.4」、食後1.5時間の血糖値は150、γ―GTPは150、但しこの間禁酒はしてませんでした。医師も驚くこの結果。HBA1Cが「8.5」から「6.4」へは凄い記録だ。これまで殆どこの数値は6点台だったから急上昇にも驚いたが、急降下にも驚いた。また「おからダイエット」は植物性タンパク質を摂取することで「糖質ダイエット」効果があり、体重減少に繋がるはずだったが、二ヶ月で約2.5kgしか減らなかった。この2ヶ月、毎日平均で「18000歩」歩いた。だから、トマトとおからとウォーキングが上手くかみ合ったのかもしれない。だが、絶対に「トマト&トマトジュース」はお薦めだ。これからも続けます。なお、コレステロール値は善玉も悪玉も範囲内で問題はない私です。やはり体重を減らすことと、お酒を控えめにすることも必要ですね。
5日からポーランド8日間の旅に行ってきます。以上、勢古口が東京からお送りました。
追伸:「本を売った2」
まだたくさん本が残っているので今回はダンボール(水とかの飲み物用)の箱にいったい何冊の文庫本が入るか試して数えた。やはり50冊以上は入る。するとこの間の18箱は900冊以上になっていたのだ。するとやはり1冊当り20円以下での買い取りだったということだ。安過ぎない!!!私しか読んでいないほぼ新品だよ。

「馬庭駅と麦秋」

「馬庭駅と麦秋」
帰りの電車で「馬庭駅」というのに停車した。思い出した。ここ「馬庭」では江戸時代、「馬庭念流」という剣術が盛んに学ばれていて、武士だけでなく農民も町民もこの地方では剣術が盛んだったと時代小説に書かれていたのを思い出した。上州のこの辺りで盛んだったのが「馬庭念流」なのだ。へえ、この辺のものだったんだ。線路脇の畑に黄色い植物がたくさん植わっていた。「小麦」だった。丁度季節は「麦秋至」、麦の収穫の時期だった。上州は美味しい「うどん」の産地だ。そのためには「小麦」がないと駄目だ。「七十二候」の「麦秋至(ばくしゅういたる)」は暦では5月31日だった。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?52」
「継飛脚」
幕府の「継飛脚」は、御用提灯を持った先駆けと小さな挟み箱状の小葛籠(こつづら)を担いだ二人組みが次ぎの宿駅で二人組みと交代しながら、江戸と大坂の間を昼夜ぶっ通しで走り、最短三日で運んだという。これは公儀の継飛脚だが、民間の商人たちも三日から四日で「町飛脚」を走らせたという。その料金が四両二分(約45万円)だったが、大坂堂島の米相場を江戸に知らせたりしたようだ。まあ江戸時代も情報を先取りしないと儲からないというのは現代を一緒だったのだ。

「繰糸場」

「繰糸場」
メインの建物が繰糸場だ。大空間にたくさんの繰糸器が並んでいる。茹でた繭玉をほぐし、細い糸にしてそれを何本かに寄り合わせ太い糸にしていくものだ。これらの動力は蒸気モーターだ。モーターも繰糸器も全てフランス製。フランス人技師に言わせるとちょっと古かったフランスの機械が安く手に入ったからコストダウン出来たそうだ。物は言いようだ。当時の日本人は皆だまされていたのだろう。古い機械を買ったというより買わされたのだ。同じようなことは新橋ー横浜間の鉄道もそうだ。イギリスでいらなくなった鉄道が「狭軌」だったから、それをそのまま持って来て日本に買わせた。結果日本の鉄道は狭軌になってしまった。国際基準の「広軌」ではなく。製糸器は1セット25台で6セット、合計150台の繰糸器が150名の「工女」と呼ばれる女性たちによって動かされた。中々働き手がなく、已む無く工場長は自分の娘を真っ先に働かせたという。昭和62年(1987年)に操業停止されるまで勿論機械は新しく更新されていったが、ここで稼動し生糸を生産していたのだ。世界文化遺産とはいえ、ちょっと規模も小さいので余り感動はしなかった。他にも富岡製糸場関連の施設も世界遺産には含まれるらしい。

「自宅前での交通事故」
私の自宅の目の前は丁度T字路の交差点になっているのだが、意外と交通事故が多いのだ。なんでこんな見通しのいいところで交通事故を起こすのだろうと思う。先日も急ブレーキの音と共にドスンという大きな衝撃音がした。あっと思ってベランダに出てみると、やはり交差点の角のフェンスに小型トラックが激突していた。運転席から出てきた人は膝から下に出血があり、救急車がやってきて運んで行った。単独事故だったが、どうしてあんなところで事故を起こすのか?理解に苦しむ。片側3車線に中央分離帯があり、Tのたての部分も片側2車線で中央分離帯があり、本当に見通しがいいし、勿論信号機もついているのだが、人間どこかで「魔がさす」ということか?あるいは「魔の交差点」なのか?

「明治五年」

「創業明治5年」
富岡製糸場入口でスマホ大の「I pod touch」@200円を借りてガイダンスを聞きながら廻ることにする。勿論ボランティアの方によるガイドツアーもあるのだが、時間が合わないので、一人歩きとした。入口すぐ目の前の建物が「東繭倉庫」、これが「明治5年(1872年)」に完成したものだ。新生明治政府が「輸出産業振興」のために巨額の予算を投下して完成させた当時の世界最新鋭?のものだ。フランス人技師「ブリュナ」氏の指導の下に、レンガも地元で焼き、建物は「木造レンガ造り」の純国産建築だという。確かにこれだけの大きな洋式建築を作るのは大変だっただろう。柱、梁の部分は木造で壁をレンガで作ってある。建物の入口のところに「明治五年」と書かれていた。この建物の裏にある建物は2月の大雪で完全に崩壊していた。復旧の目処は立っていないという。

「2014年の映画のお話し」  2013年は221本の映画を観ました。
映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」(TOHOシャンテにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年91作目)
1960年代、フォークソング全盛時代に生きたあるフォークソンガーの人生を描く。全編フォークソングが流れる。懐かしい歌もある。

映画「X?MEN The future & past」(TOHO日劇にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年92作目)
未来ではミュータントと人類の最終戦争が行われており、ミュータントは滅亡の危機にあった。そこで過去に戻り人類との共存を図ろうとする。果たしてその行方は?娯楽映画としては本当に面白い。

映画「万能鑑定士Q モナリザの瞳」(TOHO有楽座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年93作目)
高校時代の成績はALL1に近いが天才的鑑定士「凛田」女史が活躍し、モナリザの絵を守るという奇妙なお話し。天然ボケが天災役なんて、ちょっと疑問。

映画「モンスターズ」(丸の内ピカデリーにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年94作目)
突然変異で生まれてきた男は、人を自在に操ることが出来る。他方、こちらは怪我に対する驚異的な回復力を持つ男。二人のモンスターが一人は殺人を、もう一人はそれを防ぐことを目的に対戦するというもの。当代人気随一の若手俳優二人、藤原竜也と山田孝之とが共演。

映画「シネマ歌舞伎 リビングデッド」(東劇にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年95作目)
江戸時代にゾンビ(存鼻)が登場するというもの。歌舞伎ならではの手法でした。

「私の去年2014年の映画の評価は?」
今年の★★★★★は、「青天の霹靂」
今年の★★★★は、「小さいおうち」「アメリカン・ハッスル」「ウルフ オブ ウォールストリート」「光にふれて」「ダラス・カーボウイズ・クラブ」「それでも夜は明ける」「あなたを抱く日まで」「世界の果ての通学路」「チョコレート・ドーナッツ」「プリズナーズ」「ウッドジョブ」「マンデラ」「X?MEN」

「2014 旅の記憶シリーズ」
2014年の国内旅行は、第一回目は九州福岡と水俣(1月)、第二回目は能登(1月2月)。第三回目は長崎(三月)です。
2014年の海外旅行は、トルコ(1月、3度目)、台湾(2月、3度目)、シンガポール(3月、X度目?)、フィンランド、ポーランド(6月)=55&56ヶ国目です。

「2014 歌舞伎観劇シリーズ」歌舞伎座にて★★★「今年3回目」

「2014 本の記憶シリーズ」  2013年は本を350冊読みました。
「江戸裏吉原談」(小杉 健治 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年135冊目)「浪人・岩城藤次」シリーズ第3弾

「極楽宿の刹鬼」(鳥羽 亮 著)角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年136冊目)「火盗改鬼与力」シリーズ第7弾

「暁角の章」(北方 謙三 著)集英社刊 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年137冊目)「岳飛伝」シリーズ第9弾

「富岡製糸場」

「J  REPORT 2014 6月第1週」
「リタイアメント・ノート 5年12ヶ月目」、
「VOL。850 SINCE AUG.12th、1983」
「富岡製糸場」
今月に「世界文化遺産」に登録が確実視されている群馬県富岡市の製糸場を訪れた。東京から新幹線で高崎へ。そこから「上信電鉄」に乗り換えて、「下仁田」方面に向う。高崎の駅員が「入場券付き往復割引券」がありますよと言われたが、私は身障者なので入場料は無料なので通常の乗車券を買った。1時間に1?2本しかない電車に乗って「上州富岡」へと向う。完全な田園風景、過疎の町と畑が続く。日本のごくごく当たり前の田舎だ。二両編成の電車には製糸場見学だと思われる人たちばかりで一般の乗客はほんの数人だ。これでは採算が合わないだろう。約40分で到着。驚いたことに「上州富岡」駅は実に新しい立派な建物で未だ工事中だった。世界遺産登録で慌てて作り変えたような感じだった。道路も工事中だったが、道路の路面に製糸場までの距離と矢印が書かれていた。電柱にも矢印が掲げられていて分かり易くなっていた。約1キロ、15分程度で製糸場に着いた。道々行き交う人々は大体中高年の夫婦者か女性の友人同士かと思われる。この町、実にこじんまりしているが清掃されていて綺麗な町だ。店も色々と開いていたが、食べ物屋が殆どだった。漸く見えてきた。赤いレンガ造りの建物だ。

「昭和45年の秋の思い出」
昭和45年秋11月1日、所は東京駒沢公園内「駒沢第二競技場」。私が大学4年生の時、秋のリーグ戦、対戦相手は強豪「明治大学」。アメリカンフットボールの試合だ。この試合の8mmフィルムを長い間放置していたのを今回DVDにした。それを観ると皆痩せている。私の背番号は「10番」、クオーターバックであり、ディフェンスではラインバッカーだった。ほぼ全試合が映っていたが、素人が撮影したものだから手振れもあるし、勿論白黒だし、夕闇迫る後半には画面は暗くてよく見えなくなってしまった。だが皆全力でプレーし、最高の試合をしていた。そして勝利する。今でも仲間に会えばこの試合の話しになるのだが、忘れてしまったことが多く、思い出して涙、涙。本当に感動のDVDだった。あの日、私の学生時代のフットボールプレイヤーとしての最高の日だった。

「横浜港開港記念日」
それは「6月2日」だ。1859年、旧暦安政6年6月2日に横浜港は開港した。私が小学生時代に開港100周年を向かえお祝いをしたことを覚えている。横浜の公立学校は休日となる。今でもそうだろうか?当時6年生だった私は学校の代表として何かに参列したような記憶が薄っすらとある。船に乗って横浜港を廻ったのははっきり覚えている。もう開港から155年にもなった。私は元々「浜っ子」だし、自宅では時々船の汽笛が聞こえることもあった。