「アウシュヴィッツ」

「モザシチからクラクフ、そしてアウシュヴィッツ」
第三日目:6月7日(土曜日)
まだ眠たいが、起き出したら4時半だ。既に日の出は過ぎた。5時丁度から東に向かってホテルを出て歩き出す。このホテル三ツ星だというが、設備は何もない。ガソリンスタンドに併設されたホテルで部屋も狭く当然ながらシャワーのみ。さてこの国はガソリンが高い。レギュラーでリッター大体220円から210円、ディーゼルは10円引き位だった。日本と比べても高い。歩き出してまず鉄道の上を通る高架橋を越える。右へ曲がり住宅街を進み、大きな通りに出たのでまた右折し、自動車専用道路にぶつかったので右折して元のホテル前の道路に戻った。この間に踏切を通過した時に警報が鳴り遮断機が下りたので、脇により電車が走り過ぎるのを2度見た。通勤用のようだった。早朝約1時間、5km程度の小散歩だった。空気が澄み切っている。気温は10度前後だろう。朝早くは地上付近を朝霧が漂っていた。ここ「クラクフ」は「ポーランドの京都」というような古都らしい。11世紀から16世紀にポーランド王朝の首都として栄えた街だとか。ポーランドでも南のこの辺りは結構標高差がある丘陵地帯だ。すぐ南は「スロヴァキア」になる。ヨーロッパの臍みたいな場所かな?さて、今ホテルに夕食後戻ってきたが、これを書くのが気が重い。何をどうやって書けばいいのか?頭が回らない。「アウシュビッツ・ショック」かもしれない。頭では分かっていたが、現実を見て感覚がマヒしてしまった。午前中に古都「クラクフ」の「バベル城」を見学し、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」作「白豹を抱く貴婦人」の絵を観た。厳重環視の中、ポーランドで最も価値のある絵画だという絵だが、やはり「モナリザ」と比べるとちょっと可哀そうな気がしてしまう。秀作ではあるが、絶品とはまでは言えないのではないか?それでも素晴らしいことは素晴らしかった。昼食後、「オシフィエンチム」に向かう。ここはドイツ語名で「アウシュヴィッツ」と呼ばれていた場所だ。話しは第一次世界大戦後に遡る。敗戦国ドイツには巨額の賠償金が課せられた。どうしようもない閉塞感が国内を覆う。そしてそれに追い撃ちを掛けたのが1929年の「世界大恐慌」。ドイツは国家として破綻してしまう寸前だった。当時のドイツ人はこの原因は商業を握っている「ユダヤ人」が悪いと判断する。そしてそんな間隙を縫ってオーストラリア人の「ヒットラー」が選挙により政権を握る。彼がドイツ国民を煽って行ったのが「ユダヤ人排斥運動」だった。ドイツ人の目には「憎きユダヤ!」という感情が急速に高まる。ユダヤ人のためにドイツ人はこんな辛い思いをしなければならなくなったという理論が国民を覆い尽くした。そして遂にドイツ軍は突然国境を越えてポーランドに侵入したのだ。こうして第二次世界大戦が始まった。占領下のポーランドでポーランド軍の宿舎と基地がオシフィエンチムにあった。ここオフィエンチムの最初はポーランドの政治犯、ドイツ軍に言わせるとテロリストが収容された場所だった。その後ヨーロッパ各地からユダヤ人が集められた。彼らには新しい土地への移住だということで大きな「ダビデの星」を胸に付けさせられ、簡単な手荷物だけで列車の貨物車に詰め込まれて送り込まれてきた。所謂「ホロコースト」の始まりだ。既に皆様も彼らのその後の結末はご存じの通りだ。収容所の入り口には「働けば、自由になれる」と書かれた看板(写真)が掲げられていた。その意味の如何に無意味なことだったのか。驚かされたのは、強制収容所ではシステマチックに且つユダヤ人たちを効率的に処理するということが行われていたことだ。そしてそれらの処理は、ユダヤ人同朋かポーランド人の囚人たちが行い、ドイツのSSたちは全く手を汚していなかったということだ。だから彼らドイツ人たちには人を殺しているという罪悪感や後悔の念は全くなかったというのだ。裸にされガス室に送り込まれ、殺された後の死体から女性は髪を切り取り、貴金属を剥ぎ取り、遺体を焼却炉に入れ、骨を粉砕し粉にして処分するこれら全ての工程は同じユダヤ人かポーランド人が行っていたのだ。今も残されている沢山の髪の毛、トランク、靴、日用品の数々、これらを観て悍ましさを感じない人はいないだろう。そして近くに「第2アウシュヴィッツ収容所」が建てられる。汽車が直接収容所内に入り、そこでドイツ人軍医が右か左へ行くことを決める。左へ行った者たちはそのまま直接ガス室へ、右に行かされた者たちは強制労働に従事させられるが劣悪な環境なので大体2か月で9割が死ぬという。右左の比率は、左75%、右25%だったという。そうしないと多過ぎて収容出来なかったのだという。こうしてこの地で公式な記録として残っているだけで120万人のユダヤ人が殺されたが、記録外が多数あったと想像される。当時ヨーロッパには約1000万人のユダヤ人がいた。では「なぜ今アウシュヴィッツなのか?」ということだ。そこに最大のテーマがある。「現代ヨーロッパの悩み」だともいえる「少子高齢化」「労働人口減少」「経済の低迷縮小」、これらがもたらしたのが「移民」だ。しかし住民と移民との間の「差別」「対立」が深刻化し、嘗てのナチスドイツ時代と同じような問題が生じつつあるという。その為にも過去を直視し、改めて「自由と平等」を訴え、過去の過ちを繰り返さないことのためにも、「アウシュヴィッツ」を教育材料にしているのだというのだ。私たちもガス室に入った。どうだろうか、学校の教室位の大きさの部屋に数百人が押し込められて上から殺虫剤を投げ込まれたという場所だ。思わず合掌し頭を下げてしまった。こんなことを人類は二度と起こしてはならない。しかし現実には「イスラエル対パレスチナ」「アメリカ対テロリスト」「キリスト教徒対イスラム教徒」、「イスラム内の宗派対立」、それ以外にも各知で紛争や闘争が行われている。東アジアも不安定だ。さてこの地で唯一の日本人ガイド「中谷さん」によれば、訪れる観光客は毎年増加しているという。日本人も増えているが、しかしそれ以上に韓国人が日本人を上回って増えているという。「繁栄し尽くした社会」と「発展し始めた社会」、この二重構造が軋みを生み、対立を激化させている現実。アウシュヴィッツを観て何を感じるのだろうか?私には人類の、そして日本の先行きを不安視することしか見えなかった。日本の社会の問題点はヨーロッパの今の問題点と全く同じだということだ。本当に非常にいい経験をした。今回の旅の最大の目的はここ「アウシュヴィッツ」に来ることだった。数えて56ケ国目の訪問国「ポーランド」。ここで観て感じたことを私は永遠に忘れない。最後にガイドの中谷さんが言っていた言葉が印象的だった。「私はここで15年ガイドをしています。今も毎日2回か3回、日本からの人をガイドしています。だから淡々と事実を述べるだけで仕事としてお話ししてしまっていて、嘗てのような感情を込めたお話しは出来ません」という。私にはアウシュヴィッツに毎日行くことなど決して出来ない。あの気持ちには決してなりたくない。

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