1月20日(金)

札幌を朝7時に出発して、行きとは逆コースの函館青森経由仙台まで向かう。今日は移動日、只ただ列車に乗っているだけ。北海道内を抜けて海峡を通過して本土へと移るが、青森の景色はやはり北海道とは違う。北海道が広々としていたと思ったら、青森は寒々としている。同じ冬の厳しさなのにどうしてこうも違うのだろうか?函館山を左手に湾越しに見る。もう青森の半島が薄くだが、その姿を沖合いに見せている。今日も快晴だ。青森ではの山々が美しい。また盛岡では岩手山が頂上部分は曇っているもののそのどっしりとした姿を見せていた。そして仙台。札幌とは比べられないものの流石に東北一の大都会だ。久しぶりの仙台だ。昔、通った店を訪ねてみたが、当然ながら20数年前のことだから勿論その店はなかった。当たり前だろうが。仙台は大都会だから変遷も凄い。特に大震災以降色々とあったのだろう。活気は確かに戻ってきていると実感した。明日は早めに東京に帰ろう。仙台にはサラリーマン時代2度、通算6年半過ごした街だ。長男もこの街で産まれた。でも昔の面影は全くなくなっていた。
以上、北海道から勢古口がお送りしました。

1月19日(木)

確かに早朝の空気は冷え切っている。肌がぴりぴりする。さて「丹頂の里」に行くつもりだったのだが、考え方を変えて「阿寒湖」に行くことにした。「釧路空港」「阿寒町」を経由して、阿寒湖に向かう。朝のバスは高校生がたくさん乗ってきて混雑している。若い子達がわいわいと騒いでいる。阿寒高校前で全員下車した。途中から「阿寒富士」「雌阿寒岳」が白い山肌を見せる。釧路から2時間のバスの旅(@2650円)。阿寒湖は完全に凍結していて氷の厚さ35cmとのこと。見上げると「雄阿寒岳」が見事な姿を見せていた。湖上には天然のアイススケートリンクも作られていた。殺風景なだけだったが、自然の巨大な姿を実感した。近くにある「エコミュージアムセンター」で天然記念物の「まりも」を見学する。小さな細い藻が長い年月を掛けて丸くなったもので日本ではここにしかないという。阿寒湖滞在時間50分でまたバスで釧路にとんぼ返り。午後の列車で札幌に戻る。帯広からはたくさんの乗客が乗り込みほぼ満席状態となる。

1月18日(水)

札幌から列車で4時間、釧路に向かう。雪、雪、雪の中なのだが、今日は晴天で太陽が燦燦と輝いている。途中「トマム」にも止まったが、ここに以前来てスキーをしたことがあったが、今は一旦破綻して再建中のはずだが、高層ホテルが3棟建っているのが痛ましい。釧路に着いて考えたのだが、このまま根室に行ってもすぐ戻ってこなければならないなら、思い切って「タンチョウ鶴」を観に行くのに急遽変更し、駅前のバス停から「鶴見台」へ行くことにした。まず駅前のホテルに荷物を預けて身軽にして出発。「釧路湿原」の西側の道路を進むこと約1時間で到着(片道料金@970円)。どこにタンチョウ鶴がいるのかなあ?と思っていたら、「カーン、カーン」と独特の鳴き声が聞こえて、観るとたくさんのタンチョウ鶴が群れていた。立ち入り禁止の立て札があり、フェンスで仕切られてはいるものの、2?30mほど先にそれこそ30羽ほどのタンチョウ鶴がいる。感激だ。何羽かが空から舞い降りてくるかと思えば、まとまって数羽が空に飛び立つなど色々な動きをしている。白の身体に、首の部分と広げた羽根の後ろ部分が黒く、そして頭のてっぺんはまた白くなっている独特の姿だ。さて外はやはり日が照っていても寒い。気温は恐らくマイナス3度以下だろう。長い時間戸外にいると寒さが染みてくる。それでも約20分ほどタンチョウ鶴を観てまたバスで釧路に戻った。ご存知のトロッコ列車が走る線路は釧路湿原の東側で、バスの走る道路は西側なのだ。明日もまたタンチョウ鶴を観に別の場所に行くことにしよう。夕食からの帰り道、午後6時の気温はマイナス4度、路面温度はマイナス6.3度でした。なお、明日の最低気温はマイナス15度との藍?ナした。

映画

映画「リミットレス」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年6作目)
作家志望の青年なのだがアイデアが浮かばない。ある日偶然元妻の弟に街で会う。かれがくれた薬は人間の頭脳を活性化するという。通常人間の脳は20%しか使われていない。しかしこの薬を飲むと100%使うことが出来る。即ち超頭がよくなるということだ。こうして作家として大作を数日で、語学は数ヶ国語を数日でマスターするし、あっという間に株式投資で大金を稼ぐ。だが薬を狙う人物が次々と現れる。この薬、切れると死んでしまうという。果たして彼は薬を手に入れることは出来るのか?意外に面白いお話しでした。

映画「デビルス・ダブル」(丸の内ピカデリーにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年7作目)
イラクのフセインの息子にャbクリな男が影武者にされてしまった。家族を人質に獲られ、どうしようもない立場に置かれたのだが、本物の曲がった性格にはどうしても馴染めなかった。だが遂に復讐の時が訪れた。一人二役をやる主役の演技がよかった。

映画「ロボジー」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年8作目)
ある地方の家電会社がロボットを作ることになる。しかしどうしても成功しない。仕方なくロボットの中に人を入れることにする。所謂イカサマだ。その中に入ったのが一人の老人男性。ここからが実に面白い。傑作でした。笑えます。

日経新聞1月20日夕刊「シネマ万華鏡」の評価によれば、「J・エドガー」が3つ星、「預言者」が4つ星、「アニマル・キングダム」が4つ星、「ジョニー・イングリシュ 気休めの報酬」が3つ星、「ALWAYS 3丁目の夕日’64」が2つ星、「はさみ」が2つ星でした。

「シノプスシ158」
本「八丁堀同心殺人事件」(風野 真知雄 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年11冊目)「耳袋秘帖」シリーズ2作目
本「浅草妖刀殺人事件」(風野 真知雄 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年12冊目)「耳袋秘帖」シリーズ3作目
南町奉行「根岸肥前守」が江戸の町の怪異を次々と解き明かす。

本「千里伝」(仁木 英之 著) 講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年13冊目)
中国「唐」の時代のファンタジー。魔法使いのようなお話しでした。

本「メモリーコレクター」(メグ・ガーディナー 著) 集英社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年14冊目)
「心理検死官ジョーベケット」のシリーズ2作目。ある物質によって人間の脳が犯され、直前の記憶が失われてしまうという事件に遭遇する彼女の活躍を描く。

本「右近のいなせ銀杏」(早見 俊 著) 講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年15冊目)「双子同心捕物競い」シリーズ2作目
双子の兄弟がそれぞれ兄は家を、弟は養子先で共に南北に分かれて同心となり活躍する物語。

本「隠密拝命」(稲葉 稔 著) 講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年16冊目)
深川廻りの同心だった深見は先輩が殺されたことから「隠密廻り」に抜擢された。

本「願の糸」(今井 絵美子 著) 角川春樹時代小説文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年17冊目)「立場茶屋おりき」シリーズ9作目
品川の宿場で宿屋と立場茶屋を営む「おりき」とその仲間達の物語。

本「姫は31」(風野 真知雄 著) 角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年18冊目)
「妻はくノ一」の後編作とも言うもの。平戸藩のおかっぱな姫が江戸で大活躍するというもの。

本「大江戸料理競べ」(和田 はつ子 著) 角川春樹時代小説文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年19冊目)「料理人季蔵捕物控」シリーズ14作目
小料理屋「塩梅屋」の料理人季蔵は元は武士。北町奉行の命を受けて裏で始末屋を行っている。

「タンチョウ鶴を観に」

「J REPORT 2012 1月第4週号」
「リタイアメント・ノート 3年目7ケ月目」 「VOL.722 SINCE AUG. 12th、1983」
「旅暦37 北海道東北の旅」
JR東日本とJR北海道が企画している「大人の休日倶楽部」の5日間乗り放題@23000円のチケットで北海道と東北へと行ってきた。
さて東京を東北新幹線で出発した。関東平野は快晴だったが、白河の関を越えると山々は雪に覆われていて、それも仙台を越えて一関に達すると一挙に雪が増した。森岡を経て新青森に到着。これまでは順調だ。新青森で「海峡線」に乗り換えるが、ここからはディーゼル車だ。空には太陽も見え、青空ものぞいている。「海底トンネル」は海面から海底まで140m、そして更にその下100mにトンネル部分がある。ここは新幹線が走れるように建設されている。青函トンネル53kmを約30分で越えると北海道の地はそれこそ一面の銀世界、列車のスピードで雪が舞い上がっている。既に北海道側は新幹線建設工事が進行していて函館までは2015年度の開業を目指しているという。函館から更に乗り換えて札幌へと向かう。意外に混んでいるのに驚く。3年振りの北海道だ。確か2009年の2月に流氷を見に来て以来だ。考えてみれば今日は阪神淡路大震災から17年目だった。あれからもう早17年だ。あの日のことは忘れられない。

「手前勝手世界食物語、第234話」

「パリの下町食堂」
という名の店に初めて行った。これもまた歌舞伎座の裏にある。銀座の店は日曜休日は休みのところが多いのだが、この店はやっていた。正にその名の通りパリの下町にありそうな店だ。店も混んでいたが、ワインとコース料理を頼んだ。その中からこの店の名物料理の一つ「カナダ産オマール海老のブイヤベース」をご紹介しよう。コース料理2品@3129円の一品だ。穴子や舌平目などの魚介類を10時間以上煮込んだものだというが、スープはまあまあだった。勿論海老は殆ど食べるところがないから、出汁だけ味合うことになる。替わりにめったやたらにジャガイモが多かった。ジャガイモで腹を膨らせる戦法とみた。その他人気の豚肉は売り切れていた。さて、この店、リピーターになるのがよいのかどうか迷っている。今一つパンチが感じられなかったからだった。
来週は17日から21日まで北海道東北の汽車の旅に出ます。
以上、勢古口が寒さ厳しくなった東京からお送りしました。

「亀島橋袂の芭蕉の句碑」

東京駅から「八重洲通り」を真っ直ぐに東に向うと「八丁堀」がある。その先にあるのが「亀島橋」だ。昔はこの辺りに北町奉行所と南町奉行所に勤めていた「同心」という人たちが住んでいたという。所謂今の警察官たちだ。その橋の袂に「松尾芭蕉」の碑がある。そこにはこう刻まれている。
「八町堀を詠む 《菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)》 芭蕉 50才 元・U年(1693)」
芭蕉はこの翌年亡くなっているし、この句は有名な句ではないので殆どの人が知らないと思うが、この句が八丁堀を詠むというのがよく分からない私でした。この八丁堀と言うところは賃貸で家を借りていた「儒者と医者」が沢山住んでいたそうだ。同心たちの家と土地は幕府から貸与されていた筈だが、貧しさ故か皆また貸ししていたようだ。江戸の名物に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」というのとがあるが、これは伊勢屋という屋号の店が多かったのと、同様に稲荷があちこちにあり、道には犬の糞が沢山落ちていたということだそうだが、この八丁堀に多数の儒者と医者が住んでいたのも一つの名物のようになっていたらしい。関係ない話しかも知れないが、「八丁堀」という名の由来は江戸城の石垣を築くに当って伊豆辺りから持ってきた石垣用の石をこの地の沖「八丁」約850m先から陸揚げしたことによるらしい。そんなことからこの地にはひょっとしたら、石屋がありそれを芭蕉が詠んだのかもしれない。

映画

映画「マジック・ツリー・ハウス」(ユナイテッドシネマ豊洲にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年3作目)
世界中で1億冊売れたコミックの映画化されたものだそうだ。小さなお子様連れのご婦人たちが多かったのが印象的だった。幼い兄と妹が木の上にあるマジックハウスの中で4つのメダルを探す旅に出るというもの。困難に立ち向かい過去にタイムトラベルしながら必死にメダルを探す二人を描く感動の物語でした。

映画「フライト・ナイト」(有楽座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年4作目)
ラスベガス郊外の住宅地。自宅の隣にバンパイアが住み着いた。その吸血鬼が一家を襲う。果たして家族を守れるのか?高校3年生の男性が奮戦するのだが?

映画「クレイマークレイマー」(日比谷みゆき座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年4作目)
若き日のダスティン・ホフマンとメリル・ストリープの演技が印象的。働き過ぎの夫にあきれ果てた妻は幼い7歳の息子を残して家を出る。息子と二人だけになった男は仕事と家事との両立に悩む。そして元妻と息子の養育権を巡る裁判になるのだが、果たしてその結末は?本当にいい映画だった。

映画「カルテット」(丸の内ピカデリーにて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年5作目)
浦安に住む4人家族の物語。音大で知り合った夫婦には高校生の娘と中学生の息子がいた。娘はちょっとやばそうな暮らし方、一方息子はバイオリンに集中し将来は音楽家になりたいと思っていた。そんな時、家族4人で演奏会をやろうと息子が言い出す。リストラされた父親も賛成して4人はカルテットを組む。

日経新聞1月13日夕刊「シネマ万華鏡」の評価によれば、「ヒズミ」が4つ星、「果てなき路」が4つ星、「ロボジー」が3つ星、「マイウェイ」が2つ星、「三国志英雄伝 関羽」が3つ星、「月光ノ仮面」が4つ星、「BUNRAKU」が3つ星でした。

「シノプスシ157」
本「口は禍いの門」(佐藤 雅美 著) 角川文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年4冊目)「町医北村宗哲」シリーズ2作目
元はごろつき同然だったが今は町医者として活躍している宗哲が生きる江戸の世相を描く。本当に作者はよく調べていると感心しました。

本「麝香ねずみ」(指方 恭一郎 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年5冊目)「長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件簿」シリーズ1作目
本「出島買います」(指方 恭一郎 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年6冊目)「長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件簿」シリーズ2作目
本「砂糖相場の罠」(指方 恭一郎 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年7冊目)「長崎奉行所秘録 伊立重蔵事件簿」シリーズ3作目
長崎奉行の家人である伊立が活躍する捕物帳シリーズ

本「福むすめ」(井川 香四郎 著) 文春文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年7冊目)「樽屋三四郎言上帳」シリーズ5作目
町年寄りの樽屋の若旦那三四郎が将軍吉宗の命を受けて百眼たちを使って江戸の町を守る。

本「東雲ノ空」(佐伯 泰英 著) 双葉文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年8冊目)「居眠り磐音江戸双紙」シリーズ38作目
遂に坂崎磐音とおこん夫婦は幼い息子の空也を連れて江戸に戻ってきた。本当に長い物語だ。

本「変死体」上(パトリシア・コーンウェル 著) 講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年9冊目)
本「変死体」下(パトリシア・コーンウェル 著) 講談社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年10冊目)
Drスカーペッタが戻ってきた。彼女が責任者をしている検視局で問題が発生すると同時にボストン市内で相次いで変死体が見つかる。どうやら彼女の部下の副局長の動きが怪しい。流石いつものスカーペッタでした。

「祥月命日」

2001年の1月8日が私の父「國成(くにしげ)」の命日だ。その日は前日からの雪で道路は東京には珍しく凍りついていた。そんな早朝に妹から電話があり、病院からの連絡で家族は直ぐに集まるようにとのことだった。子供たちを起こし、車に乗せて急いで横浜の病院に向った。病院到着時には既に父は意識がなく、それから一時間後に息を引き取った。この月は本当に大変だった。8日に私の父、14日に妻の父、そして更に妹の義母が亡くなった。一月の間に3件の葬儀が行われる結果となった。その最初が父の死去だった。正月は家族で墓参りをするが、8日の父の祥月命日には私は独自で墓参りをする。青山墓地の入口近くのために、見上げると伊藤忠商事本社ビルが直ぐ近くに見える。父の好きだった日本酒を墓石にかけ、般若心経を唱える。色々あったが、父は私たち兄妹には本当に貢献してくれたと今では思う。母に変わって父兄参観日には必ず父がやってきてくれた。それは私も妹も同じだ。私の大学時代のフットボールの試合も、妹の大学時代のバスケットボールの試合も殆ど全て父は観に来てくれた。子供思いの父だった。そんな父は母や私たち兄妹とその伴侶、そして5人の孫たち、母の姉である叔母とその娘(私の従姉妹)に見送れられながら79年の生涯を終えた。全ての家族に見送られた、ある意味では幸福な最期だったと思う。思い出すたびに短かった父との想いが湧き出してくる。勿論母のほうが私達を心配してくれていたのだったが、父もその愛情の全てを我々家族に注いでくれたことを今正に思い起こす。青山墓地は都内の一等地にあるのに「都営霊園」だからその賃貸料は驚くほど安い。私の家の墓は一坪の3/4位の大きさなのだが、年間の使用料が3000円にも満たない。どこの都営霊園もそうなのだろうが、これほど都心近くにあり便利な場所は数少ないと思う。調べてみたら「都営霊園」は「多摩」「小平」「八王子」「八柱」「青山」「谷中」「多摩みたま堂」とあるようだ。青山と同じく便利なのは多分谷中なのだろう。都営なので本当に助かっています。

お護摩修行

「J REPORT 2012 1月第3週号」
「リタイアメント・ノート 3年目7ケ月目」 「VOL.721 SINCE AUG. 12th、1983」
「初詣」
いつもながら「川崎大師」を訪れた。平日とあって空いていたので難なくお寺に入ることが出来た。それでもお護摩修行が始まる頃には本堂は満員の人となった。大太鼓のドンドンという音に始まって「お護摩修行」は感動的だ。「火」は全てを焼きつきし、煩悩を焼き尽くす。立ち上る炎は正に仏様の姿を描いているようだ。読経が高く激しく唱えられ、お護摩修行の炎に御札がかざされ、次々と清められていく。我々は色々なお願いを記したお札を最後に戴く。今年も一年間、どうか無事に過ごせますようにと願いながら、お札を戴く。「真言密教」の創始者「空海」が中国から持ち帰った密教は高野山を中心として全国に広まった。9世紀初頭に中国に渡った空海はその当時の日本の最高の頭脳の持ち主だったのだろう。中国に行く前に既に当時の中国語を完璧にマスターしていて、意図も簡単に中国人とコミュニケーションをすることが出来たという。そしてその文章力は当時の中国人をも凌駕していたというし、文字を書くその美しさも最高水準だったというのは有名な話しだ。「南無大師遍照金剛」と唱えながら我々は通称「お大師様」、「弘法大師」を敬うのだった。