「アメリカ南部の旅、ヒューストンからナチェス」

「J  REPORT 2015 9月第2-3週」
「リタイアメント・ノート 7年2ヶ月目」、
「VOL。915 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦63、アメリカ南部の旅」
「ヒューストンーナチェス」
第一日目、9月4日(金曜日)
6月に就航したANAの成田―ヒューストン線でテキサスに向かう。今回もビジネスクラスだ。夕食は洋食を頼み、ステーキを食べた。(写真 steak)

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飲み物は焼酎の「川越」という芋の銘柄だ。あっさりしていて美味しい。肉は可もなく不可もなく、だった。フルフラットのシートだから6時間は寝ただろう。十分睡眠は取れた。約12時間のフライト。アメリカ南部は初めてだ。ヒューストンはメキシコ湾に面した最大の港湾都市で、人口は全米4位の大都市だというが、「ジョー・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」からは郊外を東に走る。油田があると思っていたが石油採掘用の「リグ」もなく、見渡す限りの平原が続き、草原か牧場か農場かといった田舎の雰囲気が延々と続く。西海岸に比べて道路事情は悪そうだ。走っている車はやはり聞いていた通り「ピックアップ・トラック」が圧倒的に多い。(写真 pickup truck)
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南部の田舎道を走る。機内食2回、最後の機内食は「一風堂のラーメン」を食べていたからお腹は空いていないが、昼食の時間となる。カジノがあるホテルのブッフェ・スタイルでの昼食には食べたかった南部料理の代表である「キャット・フィッシュ」があった。ご存知「ナマズ」料理だ。(写真 catfish)
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どんなのかと思っていたら、なんとナマズの白身のフライだった。名物料理にトマトケチャップにタバスコが入ったものをかけて食べたが、中々に行ける。庶民の料理なのだろう。もう一つ南部料理で「ガンボgumbo」いうのがあった。これは香辛料を色々と入れたスープに、チキン、ソーセージ、野菜(主に豆類)を入れて煮込んだものだが、意外と美味しい。徐々に辛さが出て来て汗をかく。(写真gumbo)
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亜熱帯ならではの味だった。慣れると病みつきになりそうだ。これならば日本でも十分に食べられるアメリカ南部料理だった。嵌まりそうな料理でした。走り出したら前方に黒い雲が観えて来た。すると突然の豪雨に見舞われた。(写真 rain)
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ワイパー全開でも前が見えない位の凄い雨だ。この地方特有の雨だそうだが、時間当たり50mmは降っていそうな感じの雨だった。10分程で雨の区域は通過した。真っ平の土地を兎に角走る。代わり映えのしない風景ばかりだ。さて今回のツアーはなんとたったの6人。42人乗りのバスに6名だから楽だ。途中、「ウォルマート」でお買い物タイム。ウォルマートは世界最大の小売業で、日本円で年間55兆円を売り上げるという。本当に全米中に当たり前のようにあるスーパーマーケット(アメリカとホンジュラスだけで約5000店舗あるという)だ。どこも基本的に造りは一緒だ。(写真 walmart)
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レジに一工夫ある。プラスティックバッグが吊られたターンテーブルに店員が勘定をしたものを自分で次々と入れていく。だから客はそのバッグを自分で最後に引き取るだけ。これはアイデア賞ものだ。人件費削減効果抜群だ。ウォルマートで日本へのお土産品を買う。50年ほど前にアメリカに出来たこの企業はあっという間に世界一になってしまったが、そこにある発想力と先進力は凄いものがあったようだ。創業者の汗と知恵がアメリカンドリームを達成させたのだろう。但し、最近はブラック企業としても有名になったようだが。綿花畑が見えて来た(写真 cotton field)
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南部の過去の歴史には、フランスの植民地時代、スペインの植民地時代、そしてアメリカの奴隷制度に基づく綿花のプランテーションの時代と続き、やがて19世紀後半の南北戦争、奴隷解放、またまた歴史は逆戻りして、人種差別が続く20世紀前半と目まぐるしく動いたのだったという。黒人の差別は今まだ払拭されてはいないのが現実だろう。テキサス州からルイジアナ州、そして「ミシシッピー川」が観えて来て橋を渡ればミシシッピー州だ。(写真 Mississippi river 1)
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世界で3番目か4番目に長い川だそうだが、この辺りは意外に川幅が狭い。色々な人が思惑を持ってこの川を上り下りしたのだろう。聞くとツアー参加の皆さんはジャズが好きか、エルビス・プレスリーが好きな人たちで私のように南部に来たことがなかったから参加というのはいなかった。「ナチェス」というミシシッピー川河畔の小さな街が本日の宿。人口1万6千人程度の小さな街の小さな小洒落たレストランで「サーモン・ステーキ」を食べた。最近はチップの相場が上がってラスベガス辺りだと25%も取られるそうだ。白ワインのボトル16ドルを飲み、チップを含めて切りよく20ドル払った。

「ナチェスからメンフィス」

「ナチェスからメンフィス」
第二日目 9月5日(土曜日)
朝、散歩に出掛ける。いやに蒸し暑い。40分程の散歩で汗まみれになった。この辺の人たちはコミュニティーを大切にしているというが、知らない人でも会えば必ず挨拶を交わす。正に昔の日本の社会のような所だ。朝は「おはよう」が当たり前の生活のようだ。この「ナチェス」という街の生い立ちは、19世紀初頭に綿花産業が発達した時に、ミシシッピー川の河川にあって、ちょっと小高い丘の上にあったため洪水に襲われず、綿花の集積地としての港湾都市として栄え、そこに豪商たちが所謂マンション(豪邸)を建てたことが繁栄のきっかけだという。今も1800年代初頭の、南北戦争以前に建てられた豪邸が残されている。本日はその内の3軒を見て回るそうだ。最初は「メルローズ邸」だ。元々弁護士だったメルローズ氏がその後綿花栽培の事業にも進出して成功し、380人もの奴隷を持つ大農場主になったという豪邸だ。(写真 Melrose)

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邸内には、使用人たちの家や、奴隷小屋、馬小屋、馬車の車庫、物置、洗濯室等々色々な建物が散在していた。今も勿論人が住んでいる。ここでワッペンとピンバッジを買う。ほぼ目的達成だ。
その次は珍しい「セント・メアリー教会」の尖塔のある建物だ。(写真 church1)
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次は、元々は奴隷だったが、「自由奴隷」となり自由を獲得した後に、理髪業をこのナチェスでやって大成功し、自身も16人もの奴隷を所有する富豪になった「ウィリアム・ジェームズ邸」だ。彼は元々白人と黒人の女性との間に生まれた混血児「ムラート」だったが、白人の所有主から認められて自由人になった人だ。理髪業を営み、この地で大成功したが、残念ながら隣人との土地を巡る境界線問題で揉めて殺されてしまった。しかし彼が残した日記が非常に貴重で黒人奴隷の歴史を物語る上で素晴らしい資料となったのだった。奴隷とは当時は「富の象徴」だったという。(写真 dairy)
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最後が「ロザリー邸」だ。ミシシッピー川を見下ろす位置に立つこの建物は、風光明美な建物でミシシッピー川が一望できる素晴らしいロケーションにある。ナチェスの歴史地区にあり、正に富の象徴だったのだろう。(写真 Mississippi river 2)
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南部の富とは「綿花」と「奴隷」というものが一体化されてなされたものだった。綿花の摘み取り作業は手作業での過酷な労働の上に、黒人奴隷の安価な労働力によって達成されていた訳だ。そこから白人の大富豪が次々と生まれて行った。ミシシッピー川の東岸のナチェスから川に沿って北上し、一路メンフィスを目指す。「インターステイト・ルート55」即ち「アイ(I)55」を走るが、これまでと違って内陸部の起伏のある丘の間を走る。(写真 route 55)
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道路脇の電柱が皆木材のポールなのに驚かされる。これのほうが安価なのか? またアメリカのフリーウェイの脇にはバーストしたタイアの残骸が沢山放置されている。本当に沢山のバーストがあったことが分かる。日本では決して見られない光景だ。
昼食は途中の街のイタリアンレストラン「ブラボー」で「牛肉煮込みペンネ」を食べた。(写真 bravo restaurant)
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美味しかったが、レストランの室内温度が華氏70度に設定されていて冷蔵庫にいるように寒かった。摂氏21度が室温ってありますか?うちでは28度ですよ。寒くて震えていました。ホテルの部屋も大体華氏72度位だから、寒過ぎる。他の客はノースリーブだとかTシャツだとかで全然問題ないみたい。本当に困りました。
「メンフィス」に着く。ここは北のシカゴと南のニューオーリンズとのほぼ中間点だという。これまでテキサス州、ルイジアナ州、ミシシッピー州、そしてテネシー州に入ってきた。ダウンタウンの「BBキング」という店に行く。87歳で今年5月に亡くなったジャズ奏者のキング氏が店のオーナーで生演奏を披露していた店だということで人気一番のようだ。エレキのリードギター、ベース、キーボード、ドラムスの4名が一斉に奏でるジャズに皆が酔い痴れている。踊り出す人もいて熱気むんむんのレストランだ。(写真 BB king )
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料理は「BQリブ・ハーフ」。ハーフというが日本人にはフルと同じ大きさだ。勿論私は手掴みで食べた。(写真 BQ lib half)
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丁度カレッジフットボール「PAC12」の「テキサスA&M」と「アラバマ・ステイト」の試合を放送していた。テキサスが圧倒的に勝っていた。食後、「ビール・ストリート」に出たが、凄い人出で警察のパトカーが3台も道路を封鎖していた。(写真 beale street)
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その道路の中を黒人の若者二人がバック転を連続して行い、チップを貰っていた。そうそう、ナチェスのメルローズ邸に綿花が植えられていて、今正に摘み取りを待っている状態だった。確かにこれでは手摘みしかできないなあと実感しました。(写真 cotton flower)
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「2015 私の勝手な映画批評シリーズ」
映画「しあわせへの回り道」(TC日本橋にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年140作目)
売れっ子作家の家庭生活での挫折にインド生まれの自動車教習所の教師が絡む真面目なお話し。いつでも前向きに行きましょう。

映画「ボーイソプラノ」(ANA機内にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年141作目)
アメリカの国立少年合唱団に入った少年が目指す頂上とは何か?しかしソプラノの声が出るのは本の数年でしかない。そこで彼は何を得るのか?

日経新聞9月4日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「赤い玉」が4つ星、「ヴィンセントが教えてくれたこと」が4つ星、「映画 みんあ!エスパーだよ!」が3つ星、「アンフェアー the end」が4つ星、「ピース オブ テイク」が2つ星、「ギヴァー 記憶を注ぐ者」が3つ星、「エデン」が2つ星でした。
日経新聞9月11日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「黒衣の刺客」が5つ星、「天空の蜂」が3つ星、「DEARダニー 君へのうた」が3つ星、「ピクセル」が2つ星、「ピエロがお前を嘲笑う」が3つ星、「私たちのファファ」が2つ星、「ヒューマン・ハイウェイ」が3つ星でした。

「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」「人生スイッチ」「筑波海軍航空隊」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」「バケモノの子」「ラブ&マーシー」「ジェラシック・ワールド」「ミッション・インパセブル」

「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は不老不死温泉(青森)、弘前城(青森)、釜石(岩手)を訪れました。

2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)、8月はアメリカ西海岸(シアトル、LA)、9月はアメリカ南部(ヒューストン、ナチェス、メンフィス、ツゥペロ、ニューオーリンズ)でした。

「2015 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)

「2015 本の記憶シリーズ」
「もみじ姫」(佐々木 裕一 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年196冊目)「もののけ侍伝」シリーズ第5段

「大塩平八郎」(早見 俊一 著)祥伝社文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年197冊目)「一本槍悪人狩り」シリーズ第3段

「兄妹の星」(和久田 正明 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年198冊目)「髪結の亭主」シリーズ第3段

「迷い人」(倉坂 鬼一郎 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年199冊目)「品川しみずや影絵巻」シリーズ第1段

「浅草料理捕物帖」(小杉 健治 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年200冊目)「浅草料理捕物帖」シリーズ第1段

「メンフィスからツペロ」

「メンフィスからツペロ」
第三日目、9月6日(日曜日)
「メンフィス」といえば「エルビス・プレスリー」を抜かしては語れない。1977年に42歳の若さで亡くなったエルビスだが、メンフィスに22歳の若さで買った家が「グレースランド」として現在公開されている。9時に入場して早速エルビス邸の見学ツアーに出た。まずi-PADが支給され、日本語を選択して画面を見ながらバスでグレースランドに行き、エルビス邸内を歩く。居間、食堂、客間、プレールーム、レコードを聴き、テレビを観る部屋等々があり、外にはラッケットボールが出来る建物や事務所、馬小屋、馬場もあり、あっという間に1時間が過ぎ去った。幼い頃からの写真や彼の歴史や歩みもよく分かるツアーだった。(写真 living room)

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展示室には彼が貰った賞や表彰状が全て飾られていた。18歳で初レコードを吹き込み、その後の活躍の歴史がそこにはあった。売れたレコードは1億枚以上。(写真 trophy)
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映画は当時ハリウッドではエルビスの映画ならば必ずヒットすると言われていたという。またエルビスはラジオの時代からテレビの時代、そして映画俳優の時代から、コンサートツアーに戻った時代といつでもファンサービス精神旺盛な人気者だった。ツアーでは全ての切符はソルドウトしたという。ギターを担いで両足を大きく開きマイクをポールごと斜めに傾けて下半身をエロティックに動かし歌うエルビスは「ロックンロール」という新しいジャンルを造ったのだった。その舞台衣装は胸の前を大きく開け飾りが縫い付けられた上着に裾が大きく広がっているパンツと実に印象的なものだった。(写真 costume)
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庭の一角にエルビスの墓があった。1930年生まれ1977年死亡と刻まれていた。両親の墓もそこにはあった。私生活では兵役で徴兵されてドイツにいた時知り合った女性と結婚し娘を授かったが、妻の浮気が原因で離婚、その直後に心臓発作で死亡したのだった。全世界の女性から愛されたエルビスだったが、実生活では必ずしも幸せではなかったのかも知れない。(写真 gravestone)
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アーカイブスで未公開のフィルムを観た。「キング・オブ・ロックンロール」の称号に相応しい活躍をした彼の真の姿を感じさせてくれるものだった。エルビス邸の道路の反対側に戻り、まずは「ハワイ展示室」に行く。全世界に同時衛星生中継された「ハワイ公演」がテレビに映され、公演時に着用した衣装が展示されていた。ファンには涙が出るほど貴重なものばかりが飾られていた。(写真 hawaii)
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その他、小型のプライベートジェットと、大型の4発のプライベートジェットがあり、中を観ることが出来た。ベッドまで備え付けられ、まるで空飛ぶ貴賓室のような機内だった。自動車展示室には彼の持っていた自動車が保存されていた。2台のロールスロイス、ベンツのリムジン、キャデラックの大型車数台、他スポーツカーや可愛い小型車もあり、彼の趣味が自動車と乗馬だったことがよく分かった。(写真 flying bed)
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我々がツアーを終えた昼前には既に待ち時間は2時間になっていた。凄い人気だ。
メンフィスで忘れてならないものがもう一か所ある。それが「マーティン・ルーサー・キングJr牧師」が暗殺された「ロレイン・モーテル」だ。黒人専用モーテルの2階の部屋に滞在していた牧師は廊下に出た時に約50m離れた道路の反対側の建物からライフルで狙撃され暗殺された。1968年4月4日だった。アメリカでは今は休日になっている。公民権運動の主役だった牧師は白人の男性によって殺された。人種差別の激しい南部は「メンフィス」での出来事だった。(写真 lorraine motel)
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昼食はエルビスが足繁く通った「アーケード」という名のレストランで、彼の好物だったという「ミートローフ」を食べた。彼が座ったというテーブルが今も残され使われていた。(写真 table)
更に最後はエルビスが18歳で初めてのレコーディングをした「サン・スタジオ」見学だ。ここも人気の場所で今もそのスタジオではレコーディングが週に3-4回は行われているという。ここで幾多のヒット曲がレコーディングされ大ヒットした。その後彼は大手レコード会社「RCA・ヴィクター」と契約するようになった。ファン垂涎の的の場所だった。(写真 sun studio)
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エルビスの旅、次は生誕の地「ツペロ」へと向かう。

「ツペロからニューオーリンズ

「ツペロからニューオーリンズ」
第4日、9月7日(月曜日)
アメリカは「レーバーデイ」の休日だ。「ツペロ」はメンフィスの東南、自動車で約2時間の小さな街だった。エルビスの生家に向かう前に、ツペロのダウンタウンにあるエルビスが8歳で初めてギターを買った「ツペロ・ハード・ウェアー・カンパニー」という店に行く。残念ながら休日で店は休みだった。田舎の何でも屋で金物ならば何でもあるという店だったらしい。ここで買ったギターが彼の進路を決めたと言っても過言ではないだろう。(写真 tupelo hard ware co.)

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いよいよ生家だ。兎に角みすぼらしい家だ。「ショットガン・ハウス」と言われているように、銃を撃ったら弾丸が家を突き抜ける程の小さな家なのだ。寝室とキッチンの二部屋のみ。電気も水道もない家だった。勿論トイレもない。(写真 house)
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そこで1935年にエルビスは双子の男の子として生まれたが片方の兄弟は死産だった。母親は神から授かった運命の男子だとエルビスのことを感じたという。子供時代の両親との写真は可愛い少年そのものだ。(写真 family photo)
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エルビスは母親の影響もあり教会に通うようになる。そして5歳で、教会で歌うこととなる。これが彼の才能の開花の第一歩だった。(写真 church at tupelo)
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13歳の時に、夜逃げするように一家はメンフィスに移住する。1948年だった。半年間は知り合いを訪ねての暮らし、半年後に漸く公営住宅に入れた。(写真 13years old Elvis)
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ここでメンフィスからご一緒した現地在住の日本人ガイドさんと別れる。彼女はこれからメンフィスにタクシーで帰るという。約100マイル(160km)のタクシー代が約2万円、飛行機だと約45分で45ドルだというが、彼女は8人乗り程度の小さなプロペラ機では嫌なのでタクシーにするという。タクシー代は安いが時間との損得勘定には個人差があるようだ。さて、エルビスの死後、彼の娘が遺産を得たが、エルビスの元の妻が利口で「グレースランド」を造り、娘に安定的な収入があるようにしたという。勿論彼の曲が世界中で聞かれれば当然印税は入るが、グレースランドの観光収入も凄いものだろう。42歳で亡くなったエルビス、今生きていれば80歳の老人だが、既に神格化してしまっている。白のステージ衣装にラインストーンが煌めき輝く舞台姿、正にハワイ公演時が38歳の彼の人生のピークだったのかも知れない。42歳の彼は既に太り過ぎの120kgにもなっていて、とてもファンの前に立てる姿ではなかったようだ。その為の減量薬が彼の命を奪ったのだという。42歳、天才歌手の余りにも短過ぎる人生の軌跡を辿る旅だった。それにしても惜しい限りだった。好きだったという「トーストにピーナッツバターをたっぷり塗り、チョコレート・スプレッドを更に塗ったバナナ・サンドイッチ」を朝に10個、そして昼は大好きな「ミートローフ」を食べるという栄養過多の生活が彼の命を奪ったのだろう。昼から「ニューオーリンズ」に向かう。ミシシッピー州から「ルイジアナ州」に入る。世界一長い橋を通る。(写真 bridge)
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「ニューオーリンズ」はミシシッピー川の河口の街だ。2005年の「ハリケーン・カトリーナ」で壊滅的な被害を受けたのは、皮肉にも低所得者が主に暮らす地域だったという。市内の80%が高潮で浸水したという。逃がられたのは、金持ちだけで貧困に苦しむ人たちは見捨てられた。日本でも伝えられたニュースだ。市内中心街の「フレンチ・クォーター」にあるホテルにチェックインして、ニューオーリンズの街に繰り出す。レストランでは「ツナ・ステーキ」を食べたが、量が多過ぎた(写真 tuna steak)
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その後生演奏のジャズをやっている「プリザベーションホール」という店にいく。一人15ドル、約1時間立ちっぱなしで待ち時間を入れるとほぼ2時間立ちっぱなしで流石に疲れた。トランペット、サックス、ピアノ、ドラムス、トロンボーンがそれぞれのパートを演奏する。演奏中は撮影禁止だった。(写真 jazz band)
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ジャズを聴きながら思った。ある一定のルールの中でそれぞれが独特の演奏をするのがジャズなのだろうか?別々の動き、演奏が実は巧みにミックスされ調和されて聴衆に届く。そこに歌声が挟まれる。正にジャズの極致なのだろう。「バーボン・ストリート」は店々から流れ出るジャズミュージックと独特の匂いが合わさり、多くのジャズファンだけでなく、旅行者を、そして地元の人を魅了しているのだろう。夜遅くまで喧噪が続いていた。ジャズ発祥の地「ニューオーリンズ」ならではの喧噪だった。(写真 bourbon street)
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「ニューオーリンズからヒューストン」

「ニューオーリンズからヒューストン」
第五日目、9月8日(水曜日)
「バーボン・ストリート」のバーボンという意味は、最初に植民してきたフランス人が母国「ブルボン王朝」のブルボンを付けたのが最初で、それが英語読みで「バーボン」となったということでウィスキーのバーボンとは全く違った。「フレンチ・クォーター」を散策するが、兎に角蒸し暑くて耐えられない。気温は多分30度近く、湿度が70-80%はありそうだ。このフレンチ・クォーターは金持ちの家が立ち並ぶが、幽霊屋敷がこの辺りは当たり前のように沢山あるという。一軒の有名な屋敷は、映画俳優の「ニコラス・ケイジ」が所有したところ「自己破産」してしまったという曰く付きの家で今も借り手を探していた。18世紀からの家々が立ち並ぶフレンチ・クォーター。(写真 haunted mansion)

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第7代大統領だった将軍の騎馬像があったり、フランス風の街だけに金色の「ジャンヌ・ダルク像」があったが、なぜだろう?不思議だった。(写真 ジャンヌ・ダルク像)
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「フレンチ・マーケット」では、フリーマーケットで土産物を売る店や食べ物屋が連なっていたが、実は私は暑さと二日酔いでばてばてでもう動きたくなく、殆どの時間を椅子に座っていた状態で最悪のコンディションだった。11時からミシシッピー川の船旅に出る。11時半出航だが、乗船と同時にビュッフェ・スタイルの食事が可能だ。まず冷えた水を大量に飲む。食事は朝も食べたし、食べたくもないが、仕方なく正午前から食べた。地元の「ケイジャン料理」、所謂庶民料理だが、「レッド・ビーン&スープ」をご飯にかけたものや、例の「キャット・フィッシュ」や、野菜サラダ、ジャガイモなどがあったが、ちっとも食欲が湧かない。船は川を下り、やがてまた川登りをするのだが、後部に回転する水車を推進力とする蒸気船?なのだ。スチームを発生させるのは今では石炭ではなくガソリンだというのが当時とは違うようだ。川の向こうにニューオーリンズのダウンタウンが観える。(写真 down town)
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午後からは近郊の「オーク・アレイ・プランテーション」に行く。19世紀前半のプランテーションのオーナーの豪華絢爛な住居だ。オークの木は樹齢350年以上、建物は200年近く前に建てられたものだという。アメリカ南部の「クレオール」と呼ばれたフランス系移民の中の一人の大富豪の家だ。主は「ローマン氏」で19世紀半ばに綿花業を営んでいた人から、この土地を買い、家を建てたという。3階建ての豪邸だ。(写真 Roman’s house)
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当時は綿花栽培だったが、ローマン氏はサトウキビ畑に切り替え、更に大成功を収めたという。その広さ東京ドームの102倍だというから凄いものだ。家の2階からミシシッピー川の方を観ると樹齢350年以上のオーク・ツリーが28本並んでいてそれは壮観だった。(写真 oak alley)
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敷地内には奴隷が住んでいた家を復元させていた。驚いたことにこのプランテーションには1848年当時113人の奴隷がいたという。記録を見ると、その価格は最高価格が1500ドル、多分勿論健康な青年だろう。安いのは老人と子供で20ドルから50ドルだ。平均は7-800ドル程度だろうか。当時の1ドルは現在の27ドルに相当するというから、奴隷一人に仮に800ドルとして、今のレートで21600ドル、日本円で260万円位だといえる。だから富の象徴が奴隷だったのだ。奴隷の家は小さいもので6畳ほどの広さに一家7-8人程度が住んでいたという。勿論ベッドなどあるはずがない。(写真 slave’s house)
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ニューオーリンズに戻る途中に「スーパードーム」が観えた。1977年完成のドームは「東京ドーム」の3倍あるという凄い大きさだ。8万以上の席を満席にしたのはイギリスのロックバンド「ローリング・ストーン」だけだったという。ここはNFLの「ニューオーリンズ・セインツ」のホームスタジアムだ。プレシーズン・マッチは4戦全敗だったという。ここに「ハリケーン・カトリーナ」の災害の時に避難所が設けられていたことはまだ記憶に新しい。(写真 super dome)
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夜はまたまた「バーボン・ストリート」に出掛け、老舗レストランの「アーノーズ」を訪れた。料理も勿論美味かったが、3人の高齢者のバンドが印象的な演奏をしてくれた。ジャズとはこういうものかと知らされた一夜だった。(写真 trio band)
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最終日のヒューストンは次号にてご紹介します。
アメリカ南部から勢古口がお送りしました。

「ほやを食す」

「手前勝手世界食物語、第379号」
「ほや」

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友人のM君(彼も中学の同級生)に誘われて銀座8丁目の「樽平」という居酒屋に行った。手造り料理をおつまみにした小さな店だが、M君によればテレビで紹介していた店だという。横丁に入った分かり難い場所にあった。そこで「ほや」に巡り合えた。東北地方の太平洋岸で採れる「ほや」、これは貝ではないし、軟体動物なのだろうか?独特の風味が好き嫌いを強調する食べ物で、一度嫌になると二度と食べられないし、逆に美味いと感じれば、日本酒に合うあてなのだが、「ほや」の好き嫌いは人それぞれだ。私は大好物の一つで問題なく食べられる。琵琶湖の「鮒寿司」も独特の匂いの食べ物だ。「鮒寿司」も初めて食べた時から美味いと思い、全く問題なく食べられた。大概の人は食べられない品だ。これらは最初が肝心だろう。最初でその後の好き嫌いが決る。果物の王様「ドリアン」もそうだ。あの匂いもきつい。だから食べられない人が日本人には多いと思う。私はこれも問題なく食べられる。まあ何でも食べられるということだろう。
「鼎泰豊(din tai fung)の小籠包」
日本橋高島屋地下2階の鼎泰豊に初めて行った。勿論台湾の本店にはこれまで3度行ったことがある。日本では初めてだったが、流石に美味しかったと伝えておく。この店、世界中に出展しているようだが、日本にも数店舗あると聞く。他の店の小籠包は皮が破れてしまい、肝心のスープが漏れ出しているのが多いが、この店のは流石にそういったことなく、熱々のスープを味合うことが出来た。これは職人芸なのだろう。満足でした。
9月4日から11日までアメリカ南部の旅に出掛けますので、次回「J REPORT 914号」の更新は多分帰国後の12日になると思いますので宜しくお願い致します。
以上、夏から一挙に秋めいて来た東京から勢古口がお送りしました。

「去り行く夏」

「去り行く夏」

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あれだけ猛暑が続いていたが、台風が去ったら突然涼しくなった東京。数寄屋橋のソニービル一階には小さな水槽に熱帯魚がいた。なんだか寂しくなり夏が去って行く後姿を観ているような気持ちにさせられた。今年は台風の当たり年だったようでもう既に16号までやって来た。「暑さ寒さも彼岸まで」とは言われるが、今年の秋は早いようだ。

「さいたま歴史研究会8」
7月の研究会は旅行中で欠席、8月は夏休みで会がなかったので、9月の研究会は6月以来の出席だった。今月のテーマは「徳川豊子」様というお姫さまのお話し。徳川宗家は、幕末の15代目が「慶喜」、明治維新後の16代目が「家達」、17代目が「家正」でこの家正を父に、島津家からきた泰子を母にして生まれたのが、「豊子」だから正に正真正銘のお姫さまだ。彼女は大正2年(1913)生まれ、千駄ヶ谷駅前の6万坪の敷地を持つ豪邸で育った。その彼女が自伝「春は昔」を題材にして研究会は進められた。豊子は長じて「会津松平家」の松平恒雄の長男「一郎」に嫁ぐ。恒雄は外交官で後には参議院議員になるし、一郎は横浜正金銀行、後の東京銀行の頭取になるのだが、一郎と豊子の次男「常孝(つねなる)」は徳川宗家に養子に行き、第18代を継ぐ。秩父宮妃や三笠宮妃とも親類だが、彼女が関東大震災や太平洋戦争時のことを日記に記したのが先の「春は昔」という自伝なのだ。実に肌理細やかな形で日々を綴っている。戦争当時の食糧難などはお姫さまがしたことがない、農作業は下肥やりなどびっくりするような事情が書かれていた。面白かった。

「孫二人」

「孫娘」

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久し振りに孫娘二人に会った。段々姉妹は似てきている。それにしても可愛い。8月中旬に長男から奥さんが妊娠したと連絡があった。これまた実に嬉しい報告だ。内孫が来年早々にも出来そうだ。万歳! 次男も10月には結婚すると言って来た。今年は嬉しいニュースが続きそうだ。9月は下の孫娘が1歳を迎える。10月には娘と孫娘たちと我々夫婦で沖縄に旅行することにした。これまた楽しみだ。

「家族会」

「家族会」

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1年振りに家族が集まった。私の家族、妹の家族、叔母の家族が集まった。私と妹、いとこ達、はとこ達、最年長の伯母(母の姉)は93歳だが、ちょっと足は不自由になったものの元気だ。残念ながら私の長男夫婦と娘の婿さんは欠席だったが、その他は参加した。こうした家族の繋がりも段々と薄くなっていくのだろう。

「2015 私の勝手な映画批評シリーズ」
映画「わたしに会うまでの1600キロ」(TCシャンテにて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年137作目)
薬物に嵌まり、大胆な男性関係を求めていた女性が母を癌で失い、自分を見つける旅に出る。それはPCTと呼ばれる1000マイルのハイキングコースだ。PCTとはパシフィック・クレスト・トレイルでメキシコ国境から西海岸沿いにカナダまで続く道程で砂漠や森林、河、雪山が続く道だ。女一人で約3ヶ月の苦労の末に見えたものは?

映画「テッド2」(TC日劇にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年138作目)
アメリカンユーモアなのか、全くセックス満杯のおふざけな映画でした。

映画「S 最後の警官 奪還」(TC日劇にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年139作目)
警察、海上保安庁、海上自衛隊らがテロリストに乗っ取られた船を奪還するという荒唐無稽なお話し。日本映画には向いていない。

映画「S 最後の警官 奪還」(TC日劇にて)私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年139作目)

日経新聞8月28日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「わたしに会うまでの1600キロ」が4つ星、「僕たちの家に帰ろう」が3つ星、「ロマンス」が3つ星、「しあわせへのまわり道」が3つ星、「デッド2」が3つ星、「バレイボーイズ」が2つ星、「懲罰大陸★USA」が4つ星でした。

「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」「人生スイッチ」「筑波海軍航空隊」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」「バケモノの子」「ラブ&マーシー」「ジェラシック・ワールド」「ミッション・インパセブル」

「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は不老不死温泉(青森)、弘前城(青森)、釜石(岩手)を訪れました。

2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)、8月はアメリカ西海岸(シアトル、LA)でした。

「2015 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)

「2015 本の記憶シリーズ」
「江戸の茶碗」(中島 要 著)祥伝社文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★★(今年193冊目)「まっくら長屋騒動記」

「溺れた閻魔」(早見 俊 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年194冊目)「佃島用心棒日誌」シリーズ第2段

「憂いなき街」(佐々木 譲 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年195冊目)佐々木得意の警察シリーズ

「もみじ姫」(佐々木 裕一 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J‘CRITICAL EYE)★★★(今年196冊目)「もののけ侍伝」シリーズ第5段

「マウント・レニエ」

「J  REPORT 2015 9月第1週」
「リタイアメント・ノート 7年2ヶ月目」、
「VOL。914 SINCE AUG.12th、1983」
「マウント・レニエ」

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ワシントン州シアトルの南にある「マウント・レニエ」は標高4300mの山で氷山に覆われていた。この山だけはやはり写真で観てもらいたい。美しい山と氷河、そして周囲を囲む森林。自然が一杯の国立公園だ。改めてシアトルのT君にはお礼を言わなければならない。本当にシアトルはいい所だったと思う。小さな街だが、逆に言えば静かな雰囲気を漂わせ、周囲を湖に囲まれ、森と水とのマッチングが実に美しい街だった。ボーイングの工場にも圧倒された。
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そして勿論シアトル・シーホークスの練習は我々がやっていることと同じことなのだが、その密度の濃さには驚かされた。やはりプロは凄い。よく写真を調べてみたら、キャンプに参加している選手は100名ほどだが、それと同数程度のアシスタントたちがいたことに改めてびっくり。アメリカ最大のスポーツであり、巨額のマネーが動く業界だけに、関係者の多さも凄いものがあった。またロスアンジェルスは流石大都市だった。日本と違うのはダウンタウンには高層ビルがあるものの、その他はフラットな街で余り大きな建物はない。日本流に言うマンション(アパートメント)は少なく感じた。その代わり豪華邸宅があるのだろう。一方人種の坩堝であるアメリカ特有のヒスパニックやアフリカ系の人たちも多かった。K君日本に来たら日本国内の旅に出ましょう。実に楽しい思い出ばかりのアメリカ西海岸の旅だった。