「瞼の上の手術」

「瞼の上の手術」
何と奇妙なことに、右瞼の上に小さな瘤が出来てきた。その内治ると持っていたらどんどん大きくなってきた。そこで聖路加国際病院の形成外科に行き手術をすることになった。(写真:手術前)手術前
病名は「右上眼瞼脂漏性角化症」疑いということになった。当日は手術6時間前から食事禁止、2時間前から飲水中止をした上で、部分麻酔、切除、縫うということになるらしい。また1週間前から個人的に飲んでいる漢方等の薬は服用中止となった。どうも仰々しい手術だ。もっと簡単にその場で切ってくれるものと思っていただけに大袈裟に感じた。
手術当日、少し早めに病院に着いたが、時間通り手術室に入った。勿論手術着に着替えて手術台に横たわる。そして消毒、麻酔注射、その後切開し、糸で縫い合わせとなったのだが、痛みはないものの約30分強もの手術時間だし、なんでこんなに時間が掛かるのかと思うのだが、どうも出血もかなりあったようで、一体何針縫ったのだろうか?手術後はこんな感じの顔になっていた。(写真:手術後)手術後
痛み止めや抗生物質の薬を貰ったが、右の額の上に氷等で冷やすようにとのことだった。腫れるというのだ。さてどんな経過になるのか?
明日また診察を受けることになっている。そして絆創膏を剥がすと意外に大きな傷があった。縫い糸は4つ位あるだろうか?(写真:傷口)抜糸前
こんなに切除したんだと驚いた。手術後から痛みは全くなく、従って鎮痛剤も飲んでいない。むしろ傷口が痒い位だ。ちょっと目立つかな、傷口が。一週間後には抜糸となる。

「台風前夜」

「台風前夜」
朝晩はめっきり涼しくなった東京だが、先月に続きまたまた大型の台風の上陸接近が見込まれている。そんな台風前夜、空は晴れ渡り雲一つない。そんな空に今まさに太りつつある月が光っていた。(写真:月)半月
愛犬との朝の散歩だが、夏の暑い間は犬も中々歩かないので、仕方なく乳母車に乗せて、犬が歩くことを望むまで連れていっていたが、最近は犬自身でどんどん歩いていくようになった。これも季節を感じてのことなのだろうか?
豊洲公園の一角にある花壇の花も秋めいていた。(写真:花)花
台風が来たら果たしてこれらの花は残っているのだろうか?台風の強風に耐えられるのか?
前回の台風15号で見せた都市の弱点というか、インフラの脆弱性を今回の19号でも露呈してしまうのか?非常に心配だ。
いつも行くスーパーに行く。凄い込み方だ。見るとパンの棚は空っぽだった。2011年の東関東大震災でも棚の品がなくなっていたが、今回も皆が買いだめしていた。(写真:パンの棚)パンの棚
さあ、どうなる台風。
自宅のガラス窓には一応テープを張り、ガラスの飛散を防ぐことにしたが、果たして効果あるのだろうか?経験したことのない台風の来襲、自然に人間は勝てないのか?

「中華料理 TEN」

「手前勝手世界食物語、第531号」
「中華料理 TEN」
大体2か月に一回位の頻度で訪れている店だ。特に点心が美味い。
一押しは「小籠包」だ。(写真:食1)食1
小さなスプーン上に乗せてあるので、皮が破れても中のスープが飛び出すことなく味合える。但し刻み生姜は付いていない。黒酢を掛けて食べる。
天井のライトには鳥のモチーフが使われていた。(写真:食2)食2
「チンジャオロース」(写真:食3)食3
「焼き餃子」(写真:食4)食4
「麻婆豆腐」の激辛(写真:食5)食5
〆は「五目ビーフン」(写真:食6)食6
またここの店の売りは「新幹線の走る姿が見られる」ということ。有楽町駅前のITOCIA別館の三階にあるから、本当に目の前を新幹線が通過していく。ファンにとっては聖地かな?
以上、強大な台風が接近中の東京から勢古口がお送りしました。

「コスモス」

『J REPORT 2019年10月第2週号』
「リタイアメント・ノート 11年4か月目」
「VOL.1128号 SINCE  AUG.12th, 1983」
「コスモス」
晴れた日の浜離宮。真っ青な空の下にはコスモスが咲き誇っていた。
入ってすぐのところに海鵜がいた。(写真:H1)H1
(写真:H2)H2
(写真:H3)H3
この辺りには結構海鵜がいる。
そしてコスモス畑だ。(写真:H4)H4
白いコスモス。(写真:H5)H5
赤いコスモス。(写真:H6)H6
これも白。(写真:H7)H7
オレンジ色だ。(写真:H8)H8
蝶々も舞っていた。(写真:H9)H9
蜂を撮ろうとしたのだが、上手くいかなかった。(写真:H10)H10
これも蝶々。(写真:H11)H11
入口のところの名物「三百年の松」だ。(写真:H12)H12
外国人もかなり訪れていた。都心に近く実に便利な浜離宮。今年は春に続いて2度目だった。歴史的には十五代将軍徳川慶喜が、戊辰戦争開始の鳥羽伏見の敗戦後、幕府の軍艦に乗って大坂から逃げて来たのが、この浜離宮の船着き場だった。実に情けない将軍だ。味方を残して総大将が敵前逃亡するなんて、と私は憤慨しています。

「今週の映画と本」

「今週の映画と本」
「私の2019年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
「ホテル・ムンバイ」(TC日本橋にて)私的批評眼★★★(今年145作品目)映画ホテルムンバイ
2008年に起きたインド・ムンバイでの若いイスラム教徒が起こしたテロ事件、実話だ。パキスタンから船で送り込まれテロリストたちは駅やホテル等人の集まる場所で無差別に銃撃を始めた。映画の舞台となったマハラジャ・ホテルには500名以上の宿泊客や従業員がいた。果たして彼らは助かるのか?

「ハミングバード・プロジェクト」(TCシャンテにて)私的批評眼★★★(今年146作品目)映画ハミングバードプロジェクト
2008年から10年に掛けて実際に起きた出来事。カンサスシティからニューヨークまで1,600kmを1m秒(0.001秒)の通信速度を競い株式市場でぼろもうけをしようという試みにチャレンジした人々のお話し。主人公は光ケーブルを敷設しようとするが、別の会社は電波塔を建てて対抗しようとするというもの。実話だから実にアメリカらしい発想だ。

「悪の華」(TC日比谷にて)私的批評眼★★★(今年147作品目)映画悪の華
盆地の地方都市の少年が中3から高3までの3年間を描く。そこに現れる3人の女と彼との絡み合いが見もの。偶然に好きな少女の運動着を盗み、それを見られた別の少女に心理的に支配されていく。屈辱の中にもそこに生まれるのは果たして愛なのか?非常に難しいお話しでした。題名はボードレールの「悪の華」からでした。

「パリに見出されたピアニスト」(HTC有楽町にて)私的批評眼★★★★(今年148作品目)映画パリに見出されたピアニスト
パリの駅にはだれでも自由に弾けるピアノがあった。そこで一人の若者がピアノを弾いていた。それを見たパリ国立音楽院の教授が彼の才能にほれ込んだ。しかし彼は不良仲間に唆されて盗みを半年に二度も行い警察に捕まっていた。だが教授の救いで半年の公共無償奉仕で罪を償う。掃除する場所は教授の教えている音楽院。だが彼は素直に成れなかった。天才だが努力しない若者を如何に指導してコンクールに出させるか?これが問題だった。クラッシク音楽が彼の人生を変えた。

「エイス・グレード EIGTH GRADE」(HTC有楽町にて)私的批評眼★★★(今年149作品目)映画エイス・グレード
日本流にいえば「中学2年生」の女生徒、卒業直前の青春時代まっ只中の彼女の実生活を自らが語る。

「エンテべ空港の7日間」(TCシャンテにて)私的批評眼★★★(今年150作品目)映画エンテべ空港の7日間
1976年に起きたエア・フランス機ハイジャックを扱う実話。アテネ発の飛行機がハイジャックされウガンダのエンテべ空港に着陸した。ハイジャッカーの要求をイスラエル政府は交渉せずとしていたが、7日目に遂に空港に突入した。果たして人質は助かるのか?

10月4日の日経新聞「シネマ万華鏡」の評価は、「ジョーカー」が4つ星、「典座ボクと TENZA」が4つ星、「ジョン・ウィック パラベラム」が5つ星、「エンテべ空港の7日間」が3つ星、「ホームステイ ボクと僕の100日間」3つ星、「任侠学園」が2つ星、「蜂蜜と遠雷」が3つ星でした。

「2019年の映画、私的評価表」
★★★★★=「ボヘミアン・ラプソディ」「グリーンブック」「運び屋」「こどもしょくどう」「さよなら くちびる」「ディリリのパリの時間旅行」
★★★★=「蜘蛛の巣を払う女」「バハールの涙」「メリーポピンズ リターンズ」「女王陛下のお気に入り」「ちいさな独裁者」「ヴィクトリア女王」「半世界」「ねことじいちゃん」「翔んで、埼玉」「あの日のオルガン」「天国でまた会おう」「マイ・ブック・ショプ」「Bの戦場」「ブラック・クランズマン」「ROMA」「ザ・プレイス」「バイス」「ハンターキラー」「パリの家族たち」「誰もがそれを知っている」「小さな恋のメロディ」「アラジン」「アマンダと僕」「COLD WAR あの歌、2つの心」「今日も嫌がらせ弁当」「存在のない子供たち」「天気の子」「北の果ての村で」「ロケットマン」「やっぱり、契約破棄していいですか」「ガーンジー島の秘密の読書会」「記憶にございません」「今さら言えない小さな秘密」「アド・アストラ」「パリに見出されたピアニスト」

「2018年の映画はこんなでした」
★★★★★=「はじめてのおもてなし」「スリー・ビルボード」「リメンバー・ミー」「レディー プレイヤーワン」「万引き家族」「空飛ぶタイヤ」「輝ける人生」「判決 ふたつの希望」「日日是好日」

「2019 観劇シリーズ」 2018年の歌舞伎観劇は3度でした。
一月大歌舞伎=歌舞伎座にて 
二月競春名作喜劇公演観劇=新橋演舞場にて
團菊祭五月大歌舞伎=歌舞伎座にて
七月大歌舞伎観劇=歌舞伎座にて
八月納涼歌舞伎観劇=歌舞伎座にて
相撲観戦=1月、5月、9月場所観戦しました。

「2019 旅暦」
国内旅行は、1月は北海道2回と佐賀武雄温泉。6月末からは神奈川会の仲間と三陸で震災復興ツアーを、7月には4S会で壱岐の島から長崎へと、7月後半は妻と娘、孫娘たちと一緒に再び壱岐に行きました。
海外旅行は、2月と5月と8月のハワイ。
これまで行った国々の合計数は、71か国(直近18年5月のモンゴル)

「2018 読書記録」 2018年の読書数は、252冊でした。
「破綻の音」(上田 秀人 著)幻冬舎文庫 私的批評眼★★★★(今年202冊目)「町奉行内与力奮闘記」シリーズ第9弾完結編本破綻の音

「御奉行の頭の火照り」(佐藤 雅美 著)講談社文庫 私的批評眼★★★★(今年203冊目)「物書同心居眠り紋蔵」シリーズ第14弾本御奉行の頭の火照り

「ふうふうつみれ鍋」(坂井 希久子 著)ハルキ文庫 私的批評眼★★★(今年204冊目)「居酒屋ぜんや」シリーズ第7弾本ふうふうつみれ鍋

「伊能忠敬 隠居後に始めた御用」

「さいたま歴史研究会―32」
「伊能忠敬 隠居後に始めた御用」
伊能忠敬は、延享2年(1745)生まれ、文政元年(1818)死去。小関村(元九十九里町)の名主の三男として生まれる。17歳の時、佐原の酒造家「伊能家」の未亡人21歳の婿になる。写真は佐原の実家。(写真:A6)A6
伊能家は1200石の酒造家であり、利根川の運送業、江戸では薪屋や田畑8町歩を持ち米穀売買や金融業を経営し、事業家としての才能を発揮し、隠居する49歳までに資産を3万両に増やしたという凄腕の経営者だった。(写真:A5)A5
江戸に出て今の門前仲町に居を構え天文方の「高橋至時(よしとき)」に入門、地球の大きさに関心を持つ。
そして緯度1度の長さとはどの程度なのかを実際に歩測する。因みに彼の歩幅は69cm。北極星との角度の差から1度の長さを関東地方では約110kmであるとした。
そして彼は江戸と蝦夷地との距離を測ろうと思い、55歳の時寛政12年(1800年6月11日)に内弟子3人下僕2人を伴い、奥羽街道を経由して津軽三厩から船で蝦夷に渡り更に蝦夷地の東部根室付近まで行った。これが第一次測量だった。その後第10次まで続くことになる。毎日40kmを歩き、歩数を数え、それを複数人の平均値で距離を測った。ポールとポールを立て、その間の距離を縄で測ったりもした。勾配地では距離と角度で平面の距離を算出したりもした。(写真:A2)A2
測量器具(写真:A2)A3
同(写真:A3)A4
第一次(1800年)=東北から蝦夷地 3200km 180日間(費用は全額私費、2200万円ほど)
第2次(1801年)=三浦、伊豆、房総各半島 3122km 230日(幕府30%で御用となる、残り私費)
第3次(1802年)=東北地方日本海側、新潟高田方面 1701km 132日(幕府御用)
第4次(1803年)=東海道を西に、関ヶ原から北陸道、三国街道、中山道 2176km 219日
 この段階で東日本の地図が完成する。大図は一枚が畳一畳分(最終的には日本全国で214枚分)、縮尺3万6千分の一で一里は10.8cm。中図は縮尺21万6千分の一で一里は18mm。小図は、43万2千分の一で一里は9mmだった。幕末から明治に掛けて散逸したり、関東大震災で焼失したりし、現存するのは大図が173枚、中図が35枚、小図が7枚、その他18枚となっている。さて話しを第4次後に戻そう。東半分の地図が完成し将軍家斉公が江戸城で閲覧、この時は300畳の畳の上に置かれたという。これらを将軍、老中、若年寄らが観て回ったという。忠敬は幕臣に取り立てられた。
この旅では加賀前田藩では隠密扱いを受けたという忠敬の日記の記載もある。彼はこの日本中を巡る旅で毎日日記を付けていた。
第5次(1808年)=紀伊半島、瀬戸内沿岸、山陰、16,993km 640日 この旅から幕府直轄事業となる。
第6次(1808年)=大坂、淡路島、四国 14,568km 377日 但し船旅の距離は含まず
第7次(1809年)=中山道から瀬戸内経由で九州、更に熊本天草 7,410km 636日
第8次(1811年)=東海道、山陽道、九州、屋久島、種子島、五島列島 13,083km 914日
第9次(1815年)=三宅島、八丈島、御蔵島、新島、大島 1,433km しかし、年齢もあり忠敬は不参加だった。
第10次(1815年)=江戸府内 
以上合計、歩測は43,609km、3323日となった。これは地球一周以上の距離を歩いたということになる。
現存する地図を今の地図と重ね合わせてみると殆ど一緒であることが分かる。当時の世界中にこれだけ正確な地図は存在しなかった。点線が現在の地図、実線が忠敬の地図。(写真:A7)A7
忠敬の死後、大問題が発生した。シーボルト事件だ。ドイツ人医師のシーボルトが帰国に際して、天文方兼書物奉行の高橋景保から伊能図の特別小図を手に入れた。その代わりに彼はクールゼンステルンの著作を与えた。しかし帰国直前にこれが禁制品の持ち出しが発覚した。図は没収されシーボルトは国外追放。事件の日本側関係者は処分された。
さてこの会も来年2月で50回目となり、なんと5年間も続けてこられたことになる。殆どの会に出席しているが、この欄で公表していないものもあるが、本当に楽しい面白い日本歴史の勉強会なのだ。
ということで、地元の私は早速富岡八幡宮と忠敬の自宅跡を探索した。富岡八幡宮の境内にその像があった。(写真:A8)A8
当時の歩き方は「ナンバ歩き」といい、右足を前に出す時には、右肩を前に出し歩き、左足は左肩から出していく
歩行方法なのだ。だからこの像の歩き方は間違っている。(写真:A9)A9
次は自宅跡だが、門前仲町交差点の北側、葛西橋通りと清澄通りの交差点に今は「深川児童公園」がある場所がそれだ。(写真:A10)A10
昔の面影は勿論ない。丁度向かい側には江戸時代からある「えんま堂」だ。(写真:A11)A11
深川の下町に暮らしていた伊能忠敬。本当に偉い人だった。

「品川神社」

「築地市場は今」
浜離宮からの帰り旧築地市場跡地前を通過した。驚くなかれ、もう殆ど解体が終わりつつあった。(写真:H13)H13
(写真:H14)H14
豊洲市場に向かう道路は仮設のまま使用されていた。(写真:H15)H15
どんどん解体は進む。対岸の勝鬨、月島地区には高層マンションが林立している。(写真:H16)H16
(写真:H17)H17
跡地はどうなるのだろうか?東京都は色々と考えているのだろうが、築地場外市場はそれでも元気に観光客を集めていた。

「品川神社」
東京十社巡りの一つ、品川神社に行った。ここ品川宿は東海道五十三次の日本橋から最初の宿場で、京に上る人たちを送りに来た江戸の人たちで大変に繁盛したという。江戸四宿、品川、内藤新宿、板橋、千住でも最大の宿場で沢山の飯盛女を抱えていたという。
旧東海道に面した「品川神社」の前に立つ。(写真:S1)S1
「大黒天」もある。(写真:S2)S2
狛犬だ。(写真:S3)S3
この神社の謂れを見ると、「文治三年(1187)源頼朝が海上交通の安全と祈願成就の守護神として、安房国須崎明神である天比理乃命を勧請し品川大明神と称した」とある。また太田道灌が風水害、疫病、歌謡の守護神として須佐能尊を勧請し6月の天王祭が始まったという。品川宿の鎮守である。
鳥居の後ろの長い階段を登る。(写真:S4)S4
境内だ。(写真:S5)S5
境内右手に「包丁塚」があった。(写真:S6)S6
(写真:S7)S7
曰く、品川宿は多くの人で繁盛し、そこで供される料理に使った包丁を供養したという。
「東海七福神巡り」の最初の神社がここだという。(写真:S8)S8
昔の農産物の名物は大坂から持ち込まれた「ネギ」が品川ネギとして親しまれたという。その他、大井ニンジン、戸越タケノコが有名だったそうだ。(写真:S9)S9
社だ。(写真:S10)S10
赤い鳥居。(写真:S11)S11
社の後ろに「板垣退助」の墓があった。(写真:S12)S12
「板垣死すとも自由は死なず」(写真:S13)S13
墓の由来(写真:S14)S14
政党を始めて作った明治の元勲の一人だ。土佐藩出身だ。
以上、暑さと涼しさが交互に訪れ、とても秋とは言えない暑さに驚く東京から勢古口がお送りしました。