「伊能忠敬 隠居後に始めた御用」

「さいたま歴史研究会―32」
「伊能忠敬 隠居後に始めた御用」
伊能忠敬は、延享2年(1745)生まれ、文政元年(1818)死去。小関村(元九十九里町)の名主の三男として生まれる。17歳の時、佐原の酒造家「伊能家」の未亡人21歳の婿になる。写真は佐原の実家。(写真:A6)A6
伊能家は1200石の酒造家であり、利根川の運送業、江戸では薪屋や田畑8町歩を持ち米穀売買や金融業を経営し、事業家としての才能を発揮し、隠居する49歳までに資産を3万両に増やしたという凄腕の経営者だった。(写真:A5)A5
江戸に出て今の門前仲町に居を構え天文方の「高橋至時(よしとき)」に入門、地球の大きさに関心を持つ。
そして緯度1度の長さとはどの程度なのかを実際に歩測する。因みに彼の歩幅は69cm。北極星との角度の差から1度の長さを関東地方では約110kmであるとした。
そして彼は江戸と蝦夷地との距離を測ろうと思い、55歳の時寛政12年(1800年6月11日)に内弟子3人下僕2人を伴い、奥羽街道を経由して津軽三厩から船で蝦夷に渡り更に蝦夷地の東部根室付近まで行った。これが第一次測量だった。その後第10次まで続くことになる。毎日40kmを歩き、歩数を数え、それを複数人の平均値で距離を測った。ポールとポールを立て、その間の距離を縄で測ったりもした。勾配地では距離と角度で平面の距離を算出したりもした。(写真:A2)A2
測量器具(写真:A2)A3
同(写真:A3)A4
第一次(1800年)=東北から蝦夷地 3200km 180日間(費用は全額私費、2200万円ほど)
第2次(1801年)=三浦、伊豆、房総各半島 3122km 230日(幕府30%で御用となる、残り私費)
第3次(1802年)=東北地方日本海側、新潟高田方面 1701km 132日(幕府御用)
第4次(1803年)=東海道を西に、関ヶ原から北陸道、三国街道、中山道 2176km 219日
 この段階で東日本の地図が完成する。大図は一枚が畳一畳分(最終的には日本全国で214枚分)、縮尺3万6千分の一で一里は10.8cm。中図は縮尺21万6千分の一で一里は18mm。小図は、43万2千分の一で一里は9mmだった。幕末から明治に掛けて散逸したり、関東大震災で焼失したりし、現存するのは大図が173枚、中図が35枚、小図が7枚、その他18枚となっている。さて話しを第4次後に戻そう。東半分の地図が完成し将軍家斉公が江戸城で閲覧、この時は300畳の畳の上に置かれたという。これらを将軍、老中、若年寄らが観て回ったという。忠敬は幕臣に取り立てられた。
この旅では加賀前田藩では隠密扱いを受けたという忠敬の日記の記載もある。彼はこの日本中を巡る旅で毎日日記を付けていた。
第5次(1808年)=紀伊半島、瀬戸内沿岸、山陰、16,993km 640日 この旅から幕府直轄事業となる。
第6次(1808年)=大坂、淡路島、四国 14,568km 377日 但し船旅の距離は含まず
第7次(1809年)=中山道から瀬戸内経由で九州、更に熊本天草 7,410km 636日
第8次(1811年)=東海道、山陽道、九州、屋久島、種子島、五島列島 13,083km 914日
第9次(1815年)=三宅島、八丈島、御蔵島、新島、大島 1,433km しかし、年齢もあり忠敬は不参加だった。
第10次(1815年)=江戸府内 
以上合計、歩測は43,609km、3323日となった。これは地球一周以上の距離を歩いたということになる。
現存する地図を今の地図と重ね合わせてみると殆ど一緒であることが分かる。当時の世界中にこれだけ正確な地図は存在しなかった。点線が現在の地図、実線が忠敬の地図。(写真:A7)A7
忠敬の死後、大問題が発生した。シーボルト事件だ。ドイツ人医師のシーボルトが帰国に際して、天文方兼書物奉行の高橋景保から伊能図の特別小図を手に入れた。その代わりに彼はクールゼンステルンの著作を与えた。しかし帰国直前にこれが禁制品の持ち出しが発覚した。図は没収されシーボルトは国外追放。事件の日本側関係者は処分された。
さてこの会も来年2月で50回目となり、なんと5年間も続けてこられたことになる。殆どの会に出席しているが、この欄で公表していないものもあるが、本当に楽しい面白い日本歴史の勉強会なのだ。
ということで、地元の私は早速富岡八幡宮と忠敬の自宅跡を探索した。富岡八幡宮の境内にその像があった。(写真:A8)A8
当時の歩き方は「ナンバ歩き」といい、右足を前に出す時には、右肩を前に出し歩き、左足は左肩から出していく
歩行方法なのだ。だからこの像の歩き方は間違っている。(写真:A9)A9
次は自宅跡だが、門前仲町交差点の北側、葛西橋通りと清澄通りの交差点に今は「深川児童公園」がある場所がそれだ。(写真:A10)A10
昔の面影は勿論ない。丁度向かい側には江戸時代からある「えんま堂」だ。(写真:A11)A11
深川の下町に暮らしていた伊能忠敬。本当に偉い人だった。