「道南の旅、函館、松前、江差」

「J  REPORT 2016 7月第2週」
「リタイアメント・ノート 8年1ヶ月目」、
「VOL。957号 SINCE AUG.12th、1983」
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 sekoguti@aa.e-mansion.com

「北海道新幹線で道南の旅へ」
「函館、松前、江差」編
3月に開業した北海道新幹線に乗って北海道へ例の「3S+ONE」の旅を「大人の休日倶楽部パスを利用して旅した。私は母校の試合があったので、遅れて飛行機で函館に向った。この4人組での旅は1月以来だ。夕方函館空港に着いてタクシーで湯の川の寿司屋で待ち合わせして食事。その後またタクシーで函館山に登り、夜景を観る。(写真:函館山からの夜景)

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もう何度もこの景色は観ているのだが、いつ観てもなかなかによい景色だ。
翌朝、「函館朝市」で食事したが、朝が早いのでまだ観光客もまばらだし、店も殆ど空いていなかった。一軒の店ではタラバガニを見せていた。(写真:路上のタラバガニ)
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まだ生きている蟹だ。店の人は「蟹を買って郵送する時に店側が違う安い蟹を入れてしまう場合が多いから注意するように、うちは大丈夫だ」と言っていた。本当かな? 食後レンタカーで道南を廻る。まずは市内の「トラピスト修道院」だ。知らなかったが「修道士がいるために女性の見学は出来ない」と書かれていた。そうだったのか?以前内部に入った時には女性観光客もいたと思ったが、どうだったのか。(写真:トラピスト修道院)
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函館から西へ海沿いの道を進む。まず目指すは「松前」だ。江戸時代唯一藩が置かれていたのが「松前藩」だ。この藩、石高がなかった。なぜならば当時の北海道では米が取れなかった。従って年貢は海産物などだったようで、これを「北前船」で上方に運び銭や商品、米を仕入れていたという。松前城は昭和25年に火事で焼けてしまったのだが、元は「国宝」だったという。北海道には国宝は非常に少ないので、本当に残念な話しだ。(写真:松前城祉)
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戊辰戦争では松前藩は官軍側だった。だから幕府軍の艦船「開陽丸」に砲撃される。率いていたのは「榎本武楊」、攻め込んだのは新撰組副長「土方歳三」。1時間も経たずに落城したという。その際の砲撃の痕が石垣に残されていた。(写真:砲撃痕)
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ここは「染井吉野」の北限で城内には約200種以上の桜の木があった。5月連休から5月末まで色々は品種が順次咲き、それはそれは見事なのだという。松前城は桜の城でした。
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次に訪れたのは「江差」だ。ここは「北前船」で栄えた町で、沖合いにある「かもめ島」を中心として港が開け、「ニシン漁」で大金持ちが続出したという。ニシンという字は、昔は鯡と書いたという。魚に非ず、即ちお金になるという意味らしい。因みに今は魚片に東、鰊と書く。ニシンは江戸時代から明治に掛けて大量に採れ、特にこの江差地方では沖合いから産卵のためにニシンが岸に押し寄せ、それを目掛けてオスが精子を放出し海が白くなったという。採られたニシンの10%は食料となるが、残りの90%は鉄鍋で茹でて、圧縮機で油を搾り取り、この油は行灯の灯り用になり、残されたニシンの粕が北前船で運ばれ肥料となった。この肥料は綿花を育てるのに適していたので非常な人気だったという。(写真:昔の鰊加工場風景)
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これが北前船での大金持ちを日本海側の町町で造っていった。ニシンの加工は基本的には人手によるもので季節労働者が東北方面からやって来た。この人達を「ヤン衆」と呼んだ。我々が訪れた「横山家」もそのニシンの網元で加工まで行っていたという。細長い建物で丘から海辺へと続いていた。直接ニシンが小舟に乗せられて運ばれてきたという。(写真:横山家の概観)
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帳場があり、ここで商いが行われた。(写真:横山家の帳場)
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しかし、ニシンも大量の漁獲量があったのは大正時代までで、やがて採れなくなり、衰退していった。今我々が食べているニシンはロシア産だという。江差町の名物に「江差追分」がある。毎年全国大会が開かれているという。この民謡は元々信州の追分歌が北前船により伝えられ、この地で広く歌われるようになったという。「江差追分会館」での実演を見た。(写真:追分会館にて)
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また京都の「山鉾」が源流だという「山車」があり、祭の時は大変な人出になるという。(写真:山車)
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戊辰戦争の際、幕府の軍艦「開陽丸」が嵐で座礁沈没したのもこの江差なのだ。かもめ島近くの海底に今も眠る。一部引き上げられた遺品を複製された「開陽丸」で展示されていた。三本マストの蒸気船で5000人の幕府軍と乗組員500人、合計5500名がやってきたが、座礁した際に全員無事下船出来たという。(写真:開陽丸)
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内部には当時を想像して先頭風景が模型で作られていた。(写真:開陽丸内部)
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我々は函館から海岸線に沿って江差までやって来た。しかし地元の人は函館に行くには山越えだという。海岸線の半分以下の距離だろうか。従って帰りは山越えした。新幹線の「新函館北斗駅」から車で30分ほどの山の上に展望台があった。素晴らしい景色が360度広がっていた。函館の町と函館山が眼下に見える。(写真:市街地と山)

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北側には「大沼」と「駒ケ岳」がこれもくっきりと見えた。(写真:大沼と駒ケ岳)
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駒ケ岳と言う山は不思議な山なのだ。その名の通り、馬の背の形に見えたり、富士山のように見えたり、らくだの二つ瘤に見えたりと、見る位置によってその姿を変化させる。実は北海道は6月26日日曜日の午前中まで雨だった。それが我々が到着し観光を始めるともの凄いよい天気になったのだ。観光は天気により大きく影響されるが、快晴の函館でした。