「南東北の旅、喜多方から」

「J  REPORT 2015 11月第3週」
「リタイアメント・ノート 7年4ヶ月目」、
「VOL。924 SINCE AUG.12th、1983」
「南東北の旅」
「喜多方、会津若松」
例の3S会のメンバーにKさん(3S会の他の二人の大学同級生、元大手ゼネコン社員)を加えた4人組で「大人の休日倶楽部パス」を利用しての旅は、「南東北」だ。喜多方、会津若松、米沢、山形、天童、山寺、仙台、石巻を廻る4日間の旅だ。もう東北は紅葉の盛りは過ぎたものの、それでもまだまだ見事な紅葉を観ることが出来た。会津磐梯山の麓を廻り、若松で乗り換えて喜多方に到着したのは、もうお昼近く。勿論目的は「喜多方ラーメン」を食べることだ。天気は薄曇り、山々は柔らかな黄色と赤の紅葉、ちょっと肌寒い。駅から歩いて10分ほどの「源来軒」と言う店に行く。ご存知の通り「喜多方」はラーメンで売り出した町だ。「老麺会」という会を結成しているラーメン店が45店舗あるらしい。味はサッパリ系の醤油味、多分「鶏がら」スープが中心だろう。そして中太麺、支那竹、葱、チャーシューの地味な具材だ。並で650円と安い。まあまあの味だった。次に訪れたのは「大和川酒造」という醸造元の酒屋さん。目的は試飲だ。飯豊(いいで)山系の山からの良質な水があり、自らの田んぼで「山田錦」を栽培しているという。水と米、これが日本酒の決め手だ。なかなか美味しい酒でした。(写真左:紅葉、写真中:源来軒の喜多方ラーメン、写真右:大和川酒造

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会津若松に戻る。タクシーで「鶴ヶ城」へ。そこで現地のボランティアガイドA氏と会い城を案内してもらう。堀の紅葉が実に綺麗だ。この城、幕末に官軍により攻められたが1ヶ月の籠城の末に降服したが、それまで官軍を一兵も城内に入れなかったという。5000人以上が籠城した城だったが、明治に入り、賊軍の城ということで破壊された。今は鉄筋コンクリートで再建されたという。それが明治の初めにフランス人がこの地にやってきてまだ昔の姿のままだった城を写真に撮っていたのが発見されたのでそれを元に復元されたらしい。(写真左:堀の紅葉、写真中:鶴ヶ城)
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「会津松平家」について少しお話ししよう。徳川幕府の親藩として幕末には「京都守護職」にあった松平家は、「蛤門の変」では薩摩と組んで長州と戦ったが、坂本竜馬が主導した「薩長連合」が出来たことにより「朝敵」にされてしまった。「戊辰戦争」ではこの会津の地で官軍と戦った。当時は23万石だったようだ。城は会津盆地の南の端近くに位置する。官軍は城の東側の小田山の山頂から「アームストロング砲」を撃ち掛けたが、当時の砲弾は物を破壊するだけで爆発する訳でなく、従って城の東側の面のみ砲弾の跡が残ったが、城自体には全く問題がなかったという。だからフランス人の写真でその姿が確認出来たのだ。昭和40年に天主閣が復元されたと同時に「鉄門(くろがねもん)」も復元された。立派な門だ。城には「荒城の月」の碑がある。作詞家の「土井晩翠」はこの詩は鶴ヶ城を念頭に作ったという。そこで碑があるのだが、ここでは土井を「つちい」と読む。仙台が晩翠の故郷だが仙台では「どい」或いは「とい」と言う。どちらが正しいのか知らない。城の中に茶室「麟閣」がある。千利休が秀吉に切腹させられた時、息子の「少庵」を当時の会津を預かっていた「浦生氏郷」(がもううじたか)が会津に少庵を匿った。小庵の孫が「武者小路、表、裏」の三千家を起こし現在まで伝えられている。その小庵のために麟閣が建てられたという。城の中に風流な茶室があるのは大変珍しいという。(写真左:鉄門、写真中:荒城の月、写真右:麟閣)
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次に訪れたのが「飯盛山」だ。ご存知「白虎隊」が自刃した場所だ。開戦前日、城を出発した少年達は敵が見つからず、野営した翌日城に戻ろうとして飯盛山にやってきた。山は城の東北にある。そこで城の周囲にあった武家屋敷が炎上していたのを眼にした。それを誤解して城が炎上していると勘違いした。また官軍に包囲されていて、ここで捕虜になれば殿様の顔に泥を塗ると判断し、20名の隊士は次々と切腹し、介錯して果てていった。最後に残った一人(斉藤氏)は刀で自らの首を切ったのだが死にきれず救出されたので結果19名の15-16歳の少年達が散ったのだった。賊軍ということで墓も造られず葬られなかったが、後になって墓が建てられた。一番手前の墓は「井深茂太郎」とあるが、ソニー創業者井深氏の遠い親戚に当たる人だ。飯盛山にはボランティアガイドのM氏が案内してくれた。長い階段を登るのだが私は膝が悪いので動く歩道に乗った。飯盛山の白虎隊自刃の場所に立つ。遠くに城が観える。写真ではNHKの白いアンテナの部分が城の天守閣の真ん中に観える。これだけ遠いと城が燃えたのか城下が燃えたのか分からなかったのだろう。M氏が詩吟を歌った。「南、鶴ヶ城・・・・、」となる歌だ。山を降りる途中に神社があり、白虎隊の冥福を祈った。当時を回想した絵もあった。もう暗くなってきたので、会津若松から今夜の宿の郡山に向った。(写真左:白虎隊の墓、写真中:飯盛山から鶴ヶ城を観る、写真右:白虎隊を祀る神社)
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