「江戸の木戸」

「江戸の庶民の生活は楽だったか?76」
「江戸の木戸」
写真は江戸の町の「木戸」だ。江戸には必ずこういった木戸が設けられていた。そして「木戸番」がいて、午後10時になるとこの木戸を閉めた。防犯上の措置だが、だからといって通れなかったということではなかったらしい。身分、姓名を名乗り用件を言えば、拍子木が叩かれて次の木戸へと伝えられ通ることが可能だったようだ。それにしても町町に木戸があれば、庶民は安心して休めただろう。

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「羊羹と饅頭のいわれ」
「羊羹」とは羊のあつものと書く。遣唐使がもたらした羊肉のあつものに由来し、ときを経て菓子の流しものを羊羹と呼ぶようになったという。頂き物の「棹羊羹」(さおようかん)はハレの睨み鯛のごとく、手をつけずに放っておくのが礼儀、色変わりして砂糖の薄氷が張ったあたりで食べるのが作法だったとか。一方、「饅頭」は鎌倉初期に渡来し、源頼朝公が男児出生の祝いにと家臣に配られたのが初めだとのこと。または恐ろしいことに勝利の祝い膳に敵将の首を並べた名残りとも言われている。

「砂糖、和三盆」
八代将軍徳川吉宗がサトウキビから作る黒砂糖を白くせよと命じたことから、水はけのよい南斜面に丈の低い竹糖なる砂糖黍を植え、これを師走に刈り取り、汁を煮詰めて搾汁(さくじゅう)を取る。灰汁をひきながら煮詰めて冷やせば、赤身のある白下糖が出来あがる。これを麻布に包んで押し舟で圧し、糖蜜を抜いて行く。水を掛けて練りこみ、幾度となく糖蜜を抜き、更に盆の上で練る。三度盆の上で練ることから「和三盆」と呼ばれるようになったという。享保の頃までは白砂糖は全て中国から渡ってきていて、「三盆、頂番、並白」と呼ばれ珍重され、高価過ぎるので幕府の財政を揺るがすほどのものとなったので、吉宗は国産の砂糖作りを奨励した。これに応じた讃岐の高松藩が平賀源内を招き砂糖の精製に挑み成功した。これを「和三盆」や「雪白」と呼ばれ、高級な和菓子作りの支えとなったという。