「汐留」

明治になって初めて鉄道が走った時、始発となったのが「新橋」だったが、「新橋♂。浜間」の鉄道時代の以前はここ汐留は「脇坂 アワシ」「松平 陸奥」「松平 肥後」の大名家の敷地だったようだ。そして今はここは「汐留シオサイト」となり高層ビルが林立し、テレビ局、オフィスやホテル等がある都内有数の近代都市が出来ている。江戸から東京へと替わった時、大名家等の広大な敷地があったのでそれを召し上げて簡単に新しい都市造りが出来たのだろうと推測出来る。民家が集中していた「銀座、日本橋、神田」、そして永代橋を越えた「本所、深川、木場」を別とすれば、江戸は大名、旗本、御家人の屋敷にお寺ばかりといえよう。皆幕府から貸し与えられていたものだから、没収も容易かった訳だろう。明治4年に「廃藩置県」が行われて、それまで各地で自治権を持っていた大名は東京へ移住することになったということだが、この時問題となったのは約200万人とも言われる藩士たちの大量失業と藩の債務処理だったというが、「大政奉還」という革命より、もっと大きな問題は寧ろ「大量失業」と「債務処理」だったといえよう。この点については「西郷隆盛」の「征韓論」にも繋がるし、「大阪商人の没落」にも繋がるといえる。これらについては後日またご報告しよう。

「東海道」
肝心な話しを忘れていた。ご存知江戸時代の「五街道」の中心は「東海道」。「日本橋」を出発点にして「京の都」へと上る。「お江戸日本橋七つ発ち」と言われているように江戸時代の旅人は朝4時に日本橋を出発したという。そして勿論その街道は今の「銀座通り、正式には中央通り」がそれだ。そして日本橋から京に向って最初の橋が「京橋」なのだ。これは大坂でも同じで「日本橋」(関西では「にっぽんばし」)の京都側に「京橋」がある。日本橋を出発して東海道を歩き出すと周囲は全て町屋だ。侍の屋敷は町屋の後ろ側にある。だから街道沿いには大店が立ち並んでいたのだろう?今の銀座通りとそう大差ない姿、勿論今はビルになっているが、商売の店が立ち並んでいたと考えて間違いないだろう。新橋から先は今の「第一京浜」が旧東海道そのものだ。浜松町、田町、品川と今の国道がそのまま東海道だったのだ。当時の人は大体10里、約40km、時間にして約10時間、一日に歩いたというから、そのままのペースで行くと、初日は戸塚か藤沢泊まりとなるのだろうが、初日なので足慣らしで近場の神奈川か保土ヶ谷で泊まりとなるのだろうか。そして早目に午後4時頃には宿に入ったのだろう。なにせ朝の出立が早い訳だから、お疲れ様でした。

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