「麒麟の翼」

今公開されている映画「麒麟の翼」にも出てくる像が日本橋の橋の中央部分にある。上空は高速道路に覆われているので日陰に淋しくあるのがちょっと残念だが、通る人たちが写真を撮っているのが印象的だった。この像の下で映画では準主人公役の中井貴一が死ぬのだが、恐らく撮影は深夜か早朝に行われたのだろう。彼は昭和通りの江戸橋の地下道で腹を刺され、野村證券の前を通って、日本橋までたどり着くという設定だ。繁華街の中心部でのロケだから、大変だったのだろうと思う。それにしても東京オリンピック当時の政治家たち、運輸省官僚たちは何を思って日本橋の上に高速道路を造ったのだろうか?一番造り易い場所というだけの判断だったとすると実に先を読めない人たちだったとしかいいようがない。但し、当時は大深度トンネルの技術がなかったことは事実だろうから、ある意味造れる場所は限定されていたということ、更にオリンピック開催と言う時期的なものもあったことは推察できる。だからといってあの場所に高架道路を造って景観がどうなるのかという議論はなかったのだろうか?疑問符がつく問題だ。日本橋から南に行き「永代通り」を東に向う。江戸時代の「古地図」によると、今の「昭和通り」の先、高架道路のところは川でそこには「海賊橋」という橋が架かっていたという。その海賊橋のちょっと北側、「日本橋川」に掛かっていたのが「江戸橋」だ。永代通りを更に東へ向う。左手は「茅場町」、その先に「霊岸橋」があり、その北側、日本橋川に面して「行徳河岸」があった。ここから千葉の行徳へと乗り合い船が出ていたという。この辺りは町屋ばかりだ。しばらく行くと「永代橋」で「大川」を渡るとそこは「深川」の町となる。話しは替わるが「大川」の河口には「佃島」があるが、隣り合わせに島の上流部分に「御用地」と書かれた部分があり、隣に「ヨシノ 石川」と屋敷がある。この「御用地」がその当時「寄場(よせば)」と呼ばれた「軽い罪人の仕事場」だ。軽い犯罪者をここに住まわせ社会復帰を図るため手仕事を覚えさせたりしたという。これが「石川島の寄場」だ。「古地図」を見ていると実に面白い。色々な昔のことが分かってくるからだ。

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