「古地図で歩む御門」

江戸城、或いは「千代田城」と言う城の阜コ関に当るのが「大手御門」(1)は、今の「三井物産ビル」の脇の交差点前にあった。そして永代通りを東に向うと最初の堀(日本橋川)の手前が「呉服橋御門」(2)となる。今もこの地名は残っている。そして日本橋川に沿って北上、反時計回りに次が「常盤橋御門」(3)、「神田橋御門」(4)、「一ツ橋御門」(5)、その一ツ橋御門の内側、即ち大手御門から反時計回りに行くと「平川御門」(6)となる。一ツ橋御門の更に先に「キシバシ御門」(7)、その内側に「竹橋御門」(8)、左回りに進み「清水御門」(9)、「田安御門」(10)と御三卿の屋敷前の御門がある。そして内堀の西側が「半蔵御門」(11)、南が「桜田御門」(12)、「日比谷御門」(13)、「数寄屋橋御門」(14)、「馬場先御門」(15)、「和田倉御門」(16)、「鍛冶橋御門」(17)、「和田倉御門」(18)で内堀を一周した。次は外堀に沿っている御門は東から今の浅草橋駅のところに「浅草御門」(19)、西へ向い「筋交御門」(20)、「小石川御門」(21)、「牛込御門」(22)、「市谷御門」(23)、(24)、南に下って「赤坂御門」(25)、「虎ノ御門」(26)、「幸橋御門」(27)、「山下御門」(28)となっている。この御門の古地図上の形は目の検査をする時に使う円形の一部が欠けているのを想像してもらいたい。そして円ではなく四角になっていてその一部が欠けている、というよりここが通路になっているのだろう。汐留の先「浜御殿」にも「御門」(29)があるのだが、その名前が書かれていない。「浜御門」とでもいうのだろうか?基本的に御門は堀や川の内側、江戸城側に築かれている。その名は今も地名として残されているのが多い。
話しは変わるが幕末の頃の江戸は約100万人、京都が約40万人、そして大坂が約35万人の住民がいたという。当時の全国の人口は恐らく2000万人強だから、やはりこの三つの都市は大都会だったといえよう。勿論江戸は武士が多い消費地だし、大坂は町人の町、京都は工芸の都だった。それにしても江戸は群を抜いている。当時世界一の大都会だったのだろう。

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