「石高、続き」

江戸時代の基本は「米」であり、その計り方は「石高」で侮ヲされたことは前回垂オ上げた。さてでは「1石」は「10斗」=「100升」であり、1石(米150kg相当)とは人間一人が食する年間の量でもあった。資料によると、日本には約6万余の村があり、村の石高の平均は400国程度、人口はこれも平均で400人余ということだそうだ。だからお百姓さんはほぼ一年間に1石生産出来たというから、一人前分、1石(米2.5俵)が収入だった訳だ。ところがこれを武士階級が「年貢」として召し上げる。「五公五民」ということになると、百姓は0.5石しか収入がない訳であり、これでは生活できない。だから副業をせざるを得なかった。雑穀を生産したり、地元特産のものを生産したり、はたまた山から薪や炭を生産したのだった。これでは農民たちの生活は最低線でしかなかったことが納得出来る。

「江戸時代の人口は?」
調べてみると意外と面白い。江戸末期1846年の幕府の統計「人別張」(現代の戸籍と住民票を合わせたようなもの)では、日本の人口は「2690万8千人」で、当時のお米の生産量が「3055万9千石」だとある。だから日本は基本的に食糧不足の国ではなかった訳だ。但し、配分の問題はあるが、一人一石ならば余剰米があることになるからだ。人口の内訳は、「武士=7%=188万人」、「農民=84%=2260万人」、「商工=6%=161万人」、「その他=3%=81万人」という具合だったらしい。支配階級の武士7%が大多数である農民84%を支配していた。これは全くの搾取だと言わざるを得ない。これが「封建社会」の実態だったのだ。その当時の大都市はどこだったのだろうか?勿論一番は「江戸=115万人」、「大坂=33万人」、「京都=29万人」、「名古屋=12万人」、「金沢=12万人」、「仙台=4.8万人」、「熊本4.1万人」、「堺=4.1万人」が4万人以上の大都市だった。幕府のお膝元「江戸」、商都「大坂」、天皇が居られる都「京」、大大名の城下町「金沢、仙台、熊本」等々納得出来る数字だ。人口の数値とは別に経済面では商人が台頭し、既に米の経済から貨幣経済となり、実質的には商人が支配する時代になってきつつあった。

「立秋」
自宅を出ようとすると物凄い雷と共に、強烈な雨が降り出していた。路面を叩く雨音で周囲の音も聞こえない。ずぶ濡れでバスに駆け込み、地下鉄で銀座へと向う。ところが局地的な豪雨と雷雨だったようで、有楽町周辺は比較的小降りになっていた。雨のお蔭か、気温も25度と猛暑も一段落となった東京。しかし、7日の「立秋」を迎えたのに、またまた暑さがぶり返して来た。と思ったら、8日からは比較的涼しい朝晩になってきた。まだ残暑は厳しいのだろうが、暦通り秋はもう真近だといえよう。そういえば我が家の愛犬も最近は元気を取り戻し、朝の散歩にも力強く歩き出している。これも気温の変化を感じ取っての行動なのだろうか?

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