「江戸の庶民の生活は楽?2」

第11代将軍「家斉(いえなり)」の頃、元号は「天明」の時代、西暦だと1781年88年の頃の話しだが、当時は「食べ物屋」が江戸には6106軒あったという記録があるという。まあ100万人都市の江戸だから、それ位あっても当たり前か。その当時日本橋は浜町河岸にあった「大黒屋」という店で「鰻の蒲焼」を初めて食べさせてという。値段はどうやら200文もしたそうだ。現在の価値に直せば3000円にもなろうか。やはり高い食べ物だった。鰻の話しだが、歌舞伎の小屋で道具の管理をしていた某が、鰻好きだったが、出前を頼むといつも冷たい鰻しか来ない。そこで「暖かいご飯の上に乗せきてくれ」と頼んだところ、熱々のご飯の温かさで鰻も暖かくなったまま届いたという。それから「鰻重」や「鰻丼」が出来たらしい。大黒屋の鰻の30年後位に、本所の「華屋与兵衛」が「握り寿司」を発明した。「酢飯」に生のネタを乗せて、小さく握ったもの、今の江戸前寿司の原形だという。寿司も蕎麦も「立ち食い」の今で言えば「ファーストフード」だったという。ご存知のように「鮪」は人々に嫌われていて、漸く「醤油漬け」、所謂「ヅケ」にして食べられていた低級魚だったという。今や「鮪」は寿司ネタで最も人気のある物だから時代も変われば変わったものだ。でも寿司の歴史がたったの200年というのは如何にも短い。寿司はこれからも世界に羽ばたき、更に進化するのだろう。話しは戻るが、「天明」と言う時代には「天明の大飢饉」というのがあり、沢山の餓死者が出たらしい。勿論地方の話しで将軍のお膝元ではそんなことはなかったのだろうが。

人気のスカイツリーはもう止まる所を知らないようだ。しかし、4400万人の集客力を持っているといいながら、地元の商店街にはお客の影はなく閑古鳥が鳴いているという。どうも地元で恩恵を蒙っているのは極々少数の人たちのようだ。夜、ライトアップされたスカイツリーは美しい。

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