銀座1丁目の「ホテル西洋」の裏に小さな公園がある。そこにいたら偶然中央区の人が数人の人たちを案内してきて、江戸時代の話しをしていた。この公園から三原橋にかけて江戸時代は「三+間堀川」があったという。今は裏通りになってしまい川は埋め立てられているが、その昔は今の銀座通りに沿って堀があったらしい。確かに江戸時代の絵図を観てみると確かにある。この堀は汐留まで続いていた。大坂は「八百八橋」と言われていたが、実は江戸も基本は埋立地なので、掘割が沢山設けられていて水運が発達していたという。だから「江戸も水の町」だったのだ。近郷近在の農家からは「野菜」が運び込まれていただろうし、地方からの米も船で運ばれてきた。勿論上方からの商品も船で運ばれてきていた。幕府が「千石船」以上の大きな船を造るのを禁止していたが、千石船とは米1000石を運ぶ船、即ち約150トンを運ぶことが出来たらしい。幕末の黒船はこの千石船の約19倍の積載量が可狽セったというからその規模の違いが分かろう。それでも船の重要性は都市を形成する上で物凄かったということが分かろうというもの。ところで以前にもお話ししたが、江戸の人口は、19世紀は約100万人という世界最大の都市だった。上方、特に商都「大坂」や天皇の暮す「京都」は30万人規模の大都市だった。次がやはり「尾張名古屋」で10万人以上だったから、江戸の規模の大きさが分かろう。勿論大きな藩があるところ、「金沢」や「仙台」、「福岡」等が4万人以上の都市だった。当時の日本の全人口は3000万人程度だから、江戸への集中度(3%)を含めて、江戸時代は地方分散型だったのだ。本当に今の日本は3大都市圏に集中し過ぎだ。
「歌舞伎座」
一日3部興行のため、なにかいつでも人の波が去らないような歌舞伎座周辺。晴海通り反対側にある「群馬県」のアンテナショップ「群馬くん家」もその影響か?人が沢山入っていた。江戸時代の地図を観てみると、この歌舞伎座は「イナバ諏訪」と書かれていたので、稲葉様という殿様の屋敷だったのだろう。調べてみると「徳川譜代」の大名で10万石「淀藩」(畿内)の領主だったという。「諏訪」は「官職」だから「諏訪守」という官職だろう。まあ10万石だから大名でも大きなほうだった。その屋敷が殆ど歌舞伎座になっている。