数寄屋橋交差点の旧「東芝数寄屋橋ビル」が壊されていることは既にご存知だと思う。その工事現場の壁には近くの「泰明小学校」の生徒さん達の絵が印刷されて唐轤黷トいる。元々この辺りは江戸時代は「数寄屋橋御門」あり、そこには「南町奉行所」があった場所だ。今の泰明小学校と東芝ビルの前の通りが「みゆき通り」だ。昭和の一時期「みゆき族」という最先端のファッションを着た若者集団が闊歩していた通りだ。通りの名前の由来は、泰明小学校の前の石碑によれば「明治天皇」がこの道を通られて、築地や晴海方面にお出掛けになったこと、所謂「行幸」されたことから「御幸」と付けられたと書かれていた。今の「東京海洋大学越中島校舎」の外れに明治天皇が行幸されて、ここから海軍の軍艦の「観閲式」を行ったという大きな石碑もある。多分その際に皇居から「みゆき通り」を通られて、この地を訪れたのだろう。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?15」
江戸時代の末、イギリスの外交官で「アーネスト・サトウ」という日本人の名前のような英国人が来日した。彼の書物を読むと、いかに当時の日本が美しく素晴らしかったかが書かれている。まずは道路が綺麗でゴミなどが落ちていない。皆きちんとした清潔な着物を着ていた。礼儀正しく、親切だ、というものだ。町が綺麗だと言う事で相当驚いていたようだ。まあ当時産業革命により発展していたイギリスは石炭の煙がもうもうとしていたのだろうから、それは江戸の空気は綺麗だったのだろう。江戸の町の特徴の一つに「リサイクル」ということが言える。まず何でも勝手に捨てたり燃やしたりはしない。再利用を必ず行う。例えば紙だって使ったら更に練習用に墨で真っ黒になるまで使う。最後はきっとかまどの火付けに使われたのだろう。糞尿は勿論郊外の田畑の飼料になっていって完全リサイクルされていた。陶器類だって欠けても継ぎ合わせる仕事があったというし、鉄類の鍋釜は再生されていた。最終的なゴミとなったものは燃やせるものは薪として「風呂屋」にも行っただろう。捨てるものなどなかったと言ってもいいだろう。魚の骨は植木の肥料になっていたのかも知れない。まあ我々が考えるよりもっと江戸時代の人は「物を大切にしていた」ことは間違いないだろう。驚いたことに、5月15日付け日経新聞夕刊第一面のコラム「あすへの話題」で元金融庁長官の話しとして、こんな記事が載っていた。「電車は時刻通りに正確に来るし、街は清潔で空気もきれい。治安が良く、深夜でも女性が普通に街を歩ける。人は優しくて親切だし、食事は美味しい。云々」だったが、これは現代の「英国人留学生たちが抱いた日本の印象だ」という。150年前のサトウ氏が感じたことと殆ど一緒なのだ。それほど日本の良いところは変わっていない。この話しはまた次回にでもして見よう。