「屋台の蕎麦屋」

「屋台の蕎麦」
所謂「夜泣き蕎麦」などで使われていた「屋台の蕎麦」の原形がこれだ。屋台は今で言う「ファースト・フード」で、手軽に庶民でも食べられた。その他「天麩羅」「寿司」も始まりは屋台からだった。日本人はこういうものを作るのが実に上手いね。これを担いで町を歩けば、お客が寄ってくるという仕掛けだ。その後、お金が溜まれば、店を持てばいい訳だし、手持ち資金が少ない人の商売にはもってこいだったと言えよう。今の屋台はもっと本格的な店舗に近くなってしまったが、昔の規模はこの程度で充分だったのだろう。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?38」
「大坂の食い倒れ」
元々江戸湾は「キス」「はぜ」「こはだ」などの小魚が多く獲れた。しかし大阪湾では「鯛」「ぶり」「はも」「穴子」など比較的大きな魚も獲れた。それに木津や難波の「葱、干瓢」、天王寺や平野の「蕪、大根」、河内の「ごぼう」などとの相性もよく、秀吉の時代から食文化が発達したという。それが「大坂の食い倒れ」と言われる文化をかもし出すことになったそうだ。「大坂の食い倒れ」「京の着倒れ」「江戸の呑み倒れ」とは良くその文化を表わしていると言えよう。しかし、実質的に江戸中期からは「江戸の食い倒れ」と言われるほど江戸での食文化が上方を凌ぐほど発展していたようだ。まあ江戸は百万人都市だし、全国から武士が集まっていたのだから、当然と言えば当然か。江戸前の魚も美味しく、江戸前寿司などにもなったから、多分大坂の人たちは歯軋りしていただろう。

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