『修道士たち」

「修道士たち」
ローマとフィレンツェの途中に「アッシジ」という街がある。ここに「聖フランチェスコ修道院」がある。昔と同じ頭から被るだぼだぼの服を腰の当りにロープで結んでいる修道士たち」。今も禁欲を守り神に仕える隠遁生活を送っているのだ。イタリアは世界遺産の宝庫のようなものなので、どこに行っても世界遺産があるが、この修道院も2000年に世界遺産になったという。

「本能寺の変、431年目の真実」(明智憲三郎著)
もう一度この本の話しをしておこう。著者は明智光秀の子孫だそうだが、この本は実に本能寺の変を研究し尽くしてよく推理している。この事件の中心人物は、「織田信長」「徳川家康」「羽柴秀吉」「明智光秀」、そして「細川藤孝」なのだという。信長はほぼ天下統一を成し遂げようとしており、その次に大陸の「中国入り」を考えていて、部下達を将来は中国攻めに出すつもりだった。そして自らの子供たちの時代にも覇者として続けられるようにと「家康暗殺」を計画し、その実行を最も信頼の置ける股肱の臣下だった「光秀」にさせようとしたというのだ。一方、光秀は信長の四国長宗我部に反対していたらしい。そこで光秀は家康と連合して一挙に信長政権の崩壊を図ったというのだ。この時、光秀の部下の細川藤孝は信長暗殺の意図を光秀から打ち明けられ、これを秀吉に告げたというのだ。皆それぞれが思惑を持っていた。そして信長は家康を茶会と称して、少数の家来だけで本能寺に来るように命じた。信長は家康を油断させるためにこれも少数で本能寺に来ていた。ところが家康暗殺の前日に光秀は突然本能寺を襲ったというのだ。その直後、家康は三河に戻り信長の領地だった、甲州長野等を奪い取る。これが光秀家康連合の行ったことだ。一方、秀吉は既に信長を討つと言うことを知っていたから「中国大返し」の行動が出来て、山崎の勝利となった。また家康は甲州を奪ってから戻ってきたが、途中で山崎の事態を知り、進軍を止めた。だれも信長に光秀家康の謀反を知らせなかったのだ。その後秀吉政権も信長の夢を追って朝鮮に侵攻した。これは戦の勝利には土地を与えることで報いるという当時の考え方によるものだった。光秀の部下の細川藤孝はその後秀吉にも家康にも恩顧を受け、最後は熊本の領主となった。これは全て本能寺の功績なのだという。光秀の部下だった人が、である。細川藤孝は家康が光秀と連合していたことも、秀吉が信長暗殺を知っていたことも全て知る立場にありながら、信長に密告せず秘密を保ったことが評価されたのだという。また光秀の娘だった「福」と言う女性はのちに「春日局」(かすがのつぼね)になり、3代将軍「家光」誕生に貢献した。実は家光は春日局の息子だと言うのだ。そして「家光」の名は「家康」と「光秀」の両方の名前から付けられたというのだ。家康は光秀の恩を忘れていなかったのだ。

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