「神道祭」

「神道祭」
松本市内で丁度「神道祭」というのが行われていて、町内からそれぞれの山車が引き出されていた。この山車を引いて練り歩くという。10月11日12日13日は「松本蕎麦祭」だとか。松本市内の店だけでなく長野県内からも出展があり、大手通りに屋台が出るそうだ。ふと気がつくと旅行中持参していたファイルがなくなっていた。どうしたのだろうか?考えても、考えてもどこに忘れたのか思い出せない。いつ最後にファイルを開いたのか?漸く思いついた。温泉前駅でバスを降りた際、旅館に電話をした時にバス停前の東屋に忘れたのだった。すぐさま旅館に電話して、探しに行ってもらった。ありましたとの連絡を受けた。翌日宅急便で送ってもらった。お礼の電話を旅館にすると、もう一つ忘れ物があったとのこと。石巻名物の「白兼」の「笹蒲鉾」が一枚冷蔵庫に入っていたそうだ。勿論旅館の人に食べてもらいました。温泉で忘れたものを松本で気がつき、東京で受け取った次第でした。恥ずかしい話しでした。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?61」
「砂糖と江戸庶民」
江戸の初め頃は砂糖は輸入に頼っていて「唐三盆」と呼ばれていたが、高値過ぎて庶民には手が出なかったという。それが元禄の頃から幕府が国内産の砂糖の生産を奨励し、サトウキビ栽培と製糖は、奄美大島と琉球で、更に時代が下がると紀伊や四国地方でも白砂糖が生産されるようになった。特に讃岐の砂糖は輸入品にも巻けず劣らずで「和三盆」と呼ばれた。生産が増えれば価格も下り、それが和菓子の発展にも結び付いたという。この砂糖も「和薬改会所」という役所の認可を取って「薬卸問屋」が販売していたようだ。物価のことを少し話そう。一番有名な物価といえば「蕎麦」だが、ご存知の通り「16文」だったというのが通説だ。「握り寿司」は一貫8文、「鰻」一串16文、「稲荷寿司」1個4文、「桜餅」一個4文、「卵」一個20文だったらしい。

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