「熊本城」

「熊本城」
小雨交じりの博多で屋根なし二階建てバスでの観光をしようと思い市役所に行ったが、残念ながら既に満席で諦め、近くの天神バスセンターに行ったら、丁度熊本行きの高速バスが出るというので飛び乗る。ところが大渋滞と交通事故で1時間遅れで熊本到着。目的は熊本城。上手い具合にボランティアガイドの案内ツアーがスタートするところでそれに紛れ込むことが出来た。まず熊本城は勿論「加藤清正」が造った城だが、実は明治10年2月22日の「西南戦争」の総攻撃の3日前に火災で消失していたというのだ。唯一残ったのが「宇土櫓」だという。これは400年前のものだ。写真が宇土櫓とボランティアガイドさんだ。何故、消失したのか質問したら、3つの原因が考えられるということだった。その前に「西南の役」について語る必要があろう。幕末の倒幕と戊辰戦争、維新の大功労者「西郷隆盛」が下野して故郷鹿児島に戻ったのが明治7年。征韓論を唱えた西郷は、幕府を倒した功労者ながら、薩長土肥の士族たちが一時金で平民に格下げされた不満の受け皿にならざるを得なかったことから、萩の乱、佐賀の乱を経て、遂に私学校の生徒達に担がれて立ち上がったのが、西南戦争だった。失業した士族たちを含む私学校の生徒を中心とした軍を率いて、鹿児島を出発した彼らは東京に向かう途中、当時「九州鎮台」があった熊本を行きがけの駄賃程度の感覚で攻撃しようとした。その3日前に失火があり、天守閣を含む大半の建物が焼け落ちた。一つは単なる失火、二つ目は西郷軍により放火、三つ目が政府軍による意図的な放火だという。一番可能性が高いのが三番目で、政府軍はこの城を仮に乗っ取られたら困るので、西郷軍が利用出来ないように放火したというのだ。既に徴兵制度が出来ていて政府軍の兵士は昔の農民や商人であり、武士階級の存在意味が無くなっていた事から不満が高まっていた士族階級の捌け口になったのがこの西南戦争だったのだが、結局、一日攻撃しただけで城を落とせず、更に北の田原坂に向かい、ここで政府軍と戦って敗戦し、半年余り九州各地を転戦し最終的には鹿児島に戻らざるを得なくなったのだった。話しを熊本城に戻そう。この城は天然の要害もあり、本丸、二の丸、三の丸まである大きな城だが、西側の三の丸の方からしか敵は攻撃出来ないような仕組みになっている。また仮に城に進軍出来たとしても、城壁の間の道を進むと必ず曲がり道になり、絶対に三方から攻撃されるような仕組みのなっていて、それらが本丸までに5つもあり、殆ど三方からの攻撃を受け、全滅してしまうようになっていて、それこそ無敵の城だったというのだ。また清正と言うと朝鮮での虎退治で有名だが、実は文官としての能力も高く、豊臣政権の財務長官だったというから驚きだ。文武両道というのが正しい清正像なのだろう。

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