「さいたま歴史研究会―26」
「藤ノ木古墳」
奈良法隆寺近くにある「藤ノ木古墳」は江戸時代には墓守もいて守られていたという。そんな古墳が発掘され、驚くことが判明した。この古墳、全く盗掘されていなかった。そして1985年に発掘調査が行われた。発見された当時の石棺の様子。(写真:R9)
墓の石棺を覗くとそこには紅色をした水が石棺を満たしていた。長年にわたる漏水により石棺の中には水が一杯だった。水を抜き、泥を拭うとそこには素晴らしい光景が待っていた。
数々の遺品があった。1万2千点以上にもなる、これらは全て国宝である。そしてそこには二人の人物の遺体があった。(写真:R4)
左側の人物は「北の人」と都合上呼ばれていて、身長165cmの男性。そして左側は南の人で155cmの男性?だと思われる。副葬品が凄い。(写真:R3)
遺体は死後、内臓を抜かれてミイラ状態にした上で、100数枚の布でぐるぐる巻きにされてから納棺されていた。
そして冠があった。(写真:R2)
模様は唐草模様の変形だ。そこにはまずは竜の文様がある。(写真:R6)
そして像の文様だ。(写真:R5)
石棺の後ろには馬具類があった。(写真:R7)
石棺から出て来た器類。これも素晴らしいものだ。(写真:R8)
これら全ては日本で造られたものだという。
太刀が5張出て来た。その鞘を再現したものだ。(写真:R1)
金属は全て金銅製のものだ。即ち青銅製のものに金メッキしたものだ。魚の開きを模様にした飾りもある。(写真:R10)
当時の大王の一族、即ち貴人が死んだ場合には5つの品が埋葬された。「冠」「首飾り」「耳飾り」「靴」「ベルト」
これらが全てこの墓からは出ているから、大王に近い人の墓だと想像出来る。
では誰なのか?
日本書紀などの記述から推測すると、この二人は同時に死んでいると考えられる。すると蘇我氏と物部氏が争っていた時代、6世紀後半に物部氏が穴穂部皇子を大王にしようとして蘇我氏と対立し、結果蘇我氏により、穴穂部皇子と宅部皇子は殺害されたことが記載されていた。するとこの二人は、穴穂部皇子と宅部皇子となるのだろうか?
因みに穴穂部皇子の姉と用明天皇(31代)の子供が聖徳太子だ。
また用明天皇の姉である推古天皇(33代)の子供が押坂彦人大兄皇子で、その子が舒明天皇(34代)であり、この系統が現在の今上天皇に繋がっている。
話しを戻すと、この時代は権力闘争が激しく、皇族同士で争い、殺し殺され、非常に危険な時代だったと考えられる。紀元587年に二人は殺害されたと考えられ、その時に聖徳太子は13歳だった。
その後の研究で二人は男ではなく、男性と女性ではないかとの意見も出ている。
現在の研究では聖徳太子は、推古天皇と蘇我馬子との3巨頭体制で政治を運営していたと考えられている。
この古墳だが、まず床の部分に石を敷き、整えた上に石棺を乗せ、遺体を埋葬する。そして周囲に石を積んで石室を造る。その上に更に沢山の土砂を乗せ、打ち固めてまた土を乗せる。こうした円錐形の古墳が完成したという。石室まで通ずる狭い通路も設けられていた。