「中世の輸入銭」

「さいたま歴史研究会―22」
「中世の輸入銭」(写真:古銭)古銭
先日、埼玉県蓮田市で中世の大がめが見つかり、その中から大量の銅銭が発見された。凡そ26万枚の可能性があるという。かめは15世紀前半のもので、中の古銭は北宋銭など19種にも及ぶという。ということで今回はわが国の銭の流通について学ぶ。日本全国各地で古銭は見つかっているが、やはり中心は近畿だ。元々日本では物々交換が商売の基本で貨幣経済への移行はかなり遅い。平清盛の時代、即ち1160年から90年代に北宋から大量の貨幣を輸入した。この時代から漸く貨幣経済が徐々に始まったといえよう。平安末期である。その後鎌倉時代には私貿易により貨幣が輸入される。1404年将軍足利義満の合札貿易により明銭が輸入される。そして1500年代に山口を本拠地にしていた大内氏が中国銭の大量輸入を行った。江戸時代に入って徳川家康が銭の輸入を禁止し、日本独自の貨幣を鋳造するが、それ以降も輸入された銭は実際には流通していた。では出土した古銭はどのようなものなのか?その意味は何なのか?何のためなのか?
一つ目は「備蓄銭」。財産保全のために隠したもの。二つ目は「埋納銭」で宗教的な意味合いを持ち、神々を祀る供物としたものと考えられている。これらの古銭を分析してみると、古いものは紀元前2世紀の前漢の時代のものから、「貨銭」という漢の時代、紀元14年などという古いものもある。全て銅銭である。一番多いのは宋銭で、960年から南宋時代の1265年までのものが多い。従って1000年以上も長い間使用されていたものも数多くあるのだ。
日本独自の貨幣としては、「和同開珎」(708年)が有名だが、これは貨幣というより祭祀や褒美として役割であったようで、実際に流通したのは輸入銭だった。
さて不思議なことに日本で一番多くの古銭が見つかったのは、なんと北海道の函館なのだ。函館の志海苔台遺跡から37万4千枚もの古銭が見つかった。これは武士の館跡でアイヌとの交易に用いられていたものと思われるが、アイヌとのトラブルで館は破壊された。次が宝塚市堂坂の寺院跡から見つかったのが、19万5千枚。今回の蓮田市の発見はこれを上回り第2位となる可能性が高い。銭一枚は一文(いちもん)で、これを95枚から100枚を一本の紐で結んだ形で流通していた。百文単位で取引されていた訳だ。質の悪くなった銭を「びた銭」といったが、商売の上で「びた一文まけらない」ということは最低の貨幣でも値引き出来ない、即ち絶対に値引きしないということの語源になったものだ。
発見された銭は誰の物?これは発見者と地権者での折半とのこと。昭和40年代に中央区新川の元酒屋跡から小判等が発見された時は、地権者は既に変わっていたのだが、酒屋の子孫が先祖が埋めたものだと主張し、これが認められ時価約10億円の古銭(小判、2朱銀)を得たという。
今回の発見による古銭一枚、即ち一文は約10円程度と思われる。
日本の貨幣経済は平安末期から江戸時代初期まで輸入された銅銭が流通して成り立っていたという歴史的事実があるという訳。