「ある下級幕臣の自分史」

「さいたま歴史研究会―21」
「ある下級幕臣の自分史」
「武士の家計簿」という映画があった。幕末の加賀藩士で所謂「そろばん侍」と言われた「勘定方」の武士が維新の動乱を乗り切り、海軍に任官したお話しだったが、彼は実在した侍で「猪山成之」180石取りだった。戊辰戦争当時は官軍の軍務官だったが、海軍では最終的に出納課長になり、明治7年当時には年収1235円の高給取りだった。これは今の貨幣価値で言うと何と3,700万円にもなるという。出世したものだ。彼の伯父の金沢製紙の雑務係りは年48円、今で言えば144万円程度だったことから見ても、明治政府の役人の高給さが分かるというものだ。
さて、話しを元に戻そう。本日の主役は幕臣だ。名前は「山本政恒(まさつね)」、天保12年(1841)生まれ。御徒という下級幕臣で、江戸城の警護、将軍外出時の警護等を行っていた。俸禄は70俵5人扶持と低かった。因みに八丁堀の町奉行所の同心は30俵2人扶持と更に低いから、山本は中の下、または下の上といえよう。彼は今の御徒町に拝領屋敷を持っていた。彼は隠居した後に自分史を書いたことから、それらが分かった。屋敷の敷地は坪200坪だったが、野菜を植えたり、敷地を人に貸したりしており貧乏だった。6歳から寺子屋に通い、11歳で寛永寺の中の一つの院に「子供」として住み込みで奉公(でっち奉公のようなもの)に出た。16歳の時に、養子話が舞い込み、養子に出た先も同じ姓の山本家。敷地600坪、建坪20坪の建屋だった。幕末の慶応4年の鳥羽伏見の戦いの際には大坂に彼は将軍警護でいたために、戦いには参加せず江戸に逃げ帰った。その後、恭順した慶喜に従って静岡に無給で移住した。浜松藩の勤番組になり、敷地200坪、建屋50坪。西洋式軍事訓練を受け、明治4年の廃藩置県で浜松県の下級役人となり、捕亡史(警察官)になるが、明治7年に犯人を逃亡させてしまい失職する。その後は東京に出て、内職に精を出す。明治8年、親戚の伝で熊谷県の師範学校職員になる。給料は10円。明治23年まで後の群馬県に奉職する。その間、明治16年には月給30円。明治23年には月給35円。明治24年に下谷に家を買い、そこで小間物屋と紙張り屋の商売を始め、三女と四女に店番をさせた。明治25年には52歳で定年となり、恩給107円を貰う。また更に帝宝博物館(後の国立東京博物館)に明治28年から7年間勤務、月給7円50銭。なぜこれだけ働くかというと、11人もの子沢山で教育費が掛かったため。明治34年に帝宝博物館を辞め、料理茶屋の帳簿付けを5年ほどした後、明治41年に帝宝博物館に復帰。大正2年73歳で博物館を退職。その3年後に死去。70歳の時に自分史を書く。子孫が昭和60年に「幕末下級武士の記録」という本を時事通信社から刊行した。幕臣が時代の変貌の中、子沢山の苦しい家計を賄うために、働きに働く姿がそこにはあった。彼は絵が上手く、本の中には彼が写生した当時の色々な姿が描かれていて幕末史を探る上でも貴重な資料だろう。これは山本ご夫婦の自画像、山本氏の自筆だ。(写真:山本夫婦)山本夫婦
「最後の桜」豊洲公園の桜も一部の花を残して散ってしまった。辛うじてまだ咲いていた桜。(写真:桜)花
道端に咲く花「はなずおう」。綺麗だ。(写真:はなずおう)はなずおう