「カウナスと杉原千畝」

第3日目(9月14日)
「カウナス」
リトアニア第2の都市、人口約30万人。ここでの目玉は「杉原千畝氏」の勇気ある業績に尽きよう。カウナスの静かな高級住宅街の一軒がその元「日本領事館」跡だ。実はこの中には当時のものは殆ど残っていない。唯一あるのが執務室に掲げられた日章旗と裏庭のリンゴの木のみだ。主に日本人観光客とユダヤ人観光客のみ訪れる場所だし、時間が余りにも経過しているから仕方がない。でも当時を再現していた。杉原氏のことは二度映画にもなっているし、皆さんご存知だろう。第二次世界大戦前のリトアニアに家族共々赴任した彼らは、ナチスの迫害から逃れようとするオランダ系ユダヤ人に「日本通過ヴィザ」を発給したことにより、多数のユダヤ人が救われたのだ。彼は1939年(昭和14年)6月に赴任した。その直後独ソ不可侵条約が締結され、その裏で秘密協定が結ばれ、ドイツとソ連はポーランドの分割とバルトと三国のソ連への割譲を認めていた。写真は締結時のもの。(写真:K4)

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同じ年9月1日、遂にドイツ軍はポーランドに侵攻、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。9月17日ソ連軍はバルト三国に侵攻してきた。主にポーランドに住んでいた350万人のユダヤ人がルーマニアやリトアニアに逃げてきた。1940年6月ソ連はバルト三国を併合した。7月下旬多くのユダヤ人たちが日本のヴィザを求めて領事館前に並ぶようになった。本省へ問い合わせたが、当時「日独同盟」があり、日本側はドイツ側を忖度してヴィザ発給を認めなかったが、松岡外相の指示があり(ちょっとこの辺が曖昧なのだが)杉原は日本通過ヴィザを発給することにした。日本通過ヴィザを取得すればソ連通過ヴィザもほぼ自動的に取得でき、ユダヤ人たちはシベリア鉄道経由、船で敦賀に渡り、そこから太平洋を経て新天地に向かうことが出来た。しかし、ソ連側は杉原の国外退去を求めており、領事館は閉鎖、一時的にホテルで発給業務をこなすが、これも時間切れでベルリン行きの特急列車の発車ぎりぎりまで杉原はヴィザを書き続けていたという。発給したヴィザは正式なもので1600枚、これは大人のみなので子供連れを含めて約6000名のユダヤ人が日本に渡ったという。裏で偽物ヴィザが横行し、総勢8000人から1万人の人命が救われたという。杉原氏は1900年1月1日に岐阜県で生まれ、ハルビンでロシア語を学び、帝政ロシア時代の貴族の末裔を妻としたが、子供が出気ず、その後離婚し、日本人女性と再婚した。5ヶ国語(日、露、独、仏、英語)を操る外交官だったが、戦後は外務省では日陰暮らしだったという。1940年当時オランダ領事館でも同様のヴィザの発給があり、このことは戦後すぐイスラエルから発表されて、オランダ人外交官が評価されていたが、杉原のことは全く不明だった。1960年イスラエルは漸く杉原の足跡を辿る事が出来、杉原を発見し、全世界に彼の勇気ある偉大な業績を発表し勲章を授与した。さて「カウナス」に戻ろう。執務室を再現したものだ。(写真:K1)
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机の上だ。パスポートが乗せられている。これは本物の当時のユダヤ人のものだ。(写真:K2)
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古いパスポートだ。(写真:K3)
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家族の写真だ。(写真:K5)
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机に座る私。(写真:K6)
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彼の写真は沢山あったが、一枚だけご紹介。(写真:K25)
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唯一当時のもので残っているのが裏庭に杉原夫人が植えた「りんごの木」だ。当時の姿を留めている。小さな実がなっていた。(写真:LK)
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門がある。これも復元されたものだろう。「希望の門 命のヴィザ」とある。(写真:K8)
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屋敷は改築して大きくし広く杉原氏の業績を讃えるようだ。(写真:K9)
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次に訪れたのはカウナスの旧市街の中の「雷の家」、「ペルクーナスの家」だ。赤レンガが美しい。(写真:LK0)
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ここエストニアはバスケットボールが盛んでオリンピックで2度銅メダルを獲得しているという。歩いて直ぐのところに「旧市庁舎」があった。白い建物がびっくりする位の晴れ渡った青い空に映えている。(写真:K11)
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大聖堂もある。(写真:K12)
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中に入ってみる。正面の祭壇だ。(写真;K13)
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キリスト受難の像もある。これらは全て人口大理石だ。(写真:K14)
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昔、カウナスはリトアニアの中心だった時期があり、ドイツ十字軍騎士団との永い永い戦争の歴史がある。その中心だったのが「カウナス城」だ。(写真:K15)
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これも殆ど全て再建されたものだ。
昼は「スープ」(写真:K16)
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地元のジャガイモ料理「ツェッペリナス」(写真:K17)
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挽き肉をジャガイモで包んで蒸したもの?か煮込んだもの。皮の部分のジャガイモの弾力性を保ちながら作るのが非常に難しいらしい。ジャガイモの粉がしっとりとしながら、もちもち感があるのが特徴だというのと、飛行船ツェッペリン号に形が似ているから名付けられたともいう。
ここから国境を越えて「ラトビア」に向かう。その前に「十字架の丘」に行く。元々この地方に住んでいた人たちは「自然崇拝」だった。それがキリスト教が入ってきて強引な布教が行われた。排他的なキリスト教により地元の自然崇拝は完全に駆逐された。その後この地方は、ロシアやポーランド、ドイツ、スウェーデン等にいいように侵略され今日に至っている。そんな中で反ロシア、反ドイツの象徴として、十字架をこの丘に立てたという。反骨精神の表れだ。何度もブルドーザーで潰そうとしたが、瞬く間に復活してしまったという。10mほどの丘一帯に、そして更に裾野まで一杯に十字架が立ち並ぶ。(写真:K18)
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右も(写真:K19)
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左も(写真:K20)
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十字架だらけだ。観光客も店で十字架を買い求め何かを書いて置いて来ることが出来る。頂上にマリア様とイエスの像があった。(写真:K21)
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(写真K22)
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十字架の数、なんと20万本だというから凄い。何とも異様な風景でした。1993年にローマ法王がここを訪れた時には10万人の信者がこの地を埋め尽くしたという。
さて、いよいよ国境。(写真:K23)
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あっという間に通過する。今日は天候に恵まれていたのが、突然雨脚が早まる(写真:K24)
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ラトビアに入った。首都リガに向かう。実は高速道路はリトアニアにしかなく、ラトビアやエストニアにはないそうだ。人口が少ないから別に地道を走っても都市部は別として車が多いほうではないから問題ないのだろう。それにしても日本車、特にトヨタ、それも高級車レクサスの多いのには驚きだ。ホンダも日産もスバルもマツダもあった。
夕食はホテルのレストランにて。まずはビールを頼む。今回の旅行、一日にビール一杯だけ飲んでいる。この地方はビールの大消費地で、リトアニア人のアルコール消費量は一人当たり世界一だそうだ。自殺率も世界一だという。