「ニコライ二世襲撃、大津事件」

「さいたま歴史研究会―17」
「大津事件」
5月11日が何の日かご存知の方は殆どおられないだろう。古い話しだから仕方がないのだが、明治24年、1918年のことだった。場所は滋賀県大津市内、ロシアのニコライ皇太子が来日されていて、そこで事件は起こった。シベリア鉄道のウラジオストックーハバロフスク間の起工式に合わせ、皇帝の名代としてロシアのニコライ皇太子が従兄弟のギリシャのショージ親王と共に国賓として来日された。南回りで4月27日に長崎港に到着。日本側の接待委員長は有栖川宮威仁(たけひと)親王だった。(但し有栖川宮家は彼で断絶してしまうが、十数年前宮家の名前を騙った詐欺事件があったことは記憶にあろう)日本側は最大級のおもてなしを尽くした。この日は希望もあり、お忍びで市内で買い物をした。鼈甲や骨董、有田焼等を買われたというが、市民は気付かず。写真師の上野彦馬のところで写真を撮った。人力車に乗るものがそれだ。(写真:人力車と皇太子)ニコライ皇太子
また皇太子は刺青を彫りたいとして、龍の図柄を25円で、ジョージ親王も1円で入れた。これは4月30日付けの新聞にも報道された。長崎滞在を終えて鹿児島経由、5月9日に船で神戸に到着。東京から高級人力車4台を京都に準備して皇太子を待ち受けていた。その時の献上品は、鳴門みかん、万年堂のカステラ、明治屋のビール、瓦せんべいだった。湊川神社を拝礼し、宮司から日本刀が献上された。神戸から汽車で京都へと向かう。宿泊は常盤ホテルで河原町にあり、裏手は高瀬川だった。皇太子らの人力車には車夫が3人付いて、前曳き一人に後ろ押し二人だった。京都府は車夫の選定にも気を使ったようだ。強壮、敏感、素行の良、姿勢の良で選ばれたという。当日の夜は、祇園の中村楼で宴会。舞妓に促されて自慢の刺青を見せたという。翌10日は、市内で一万円相当を使い、象牙、花瓶、刺繍花鳥衝立等を購入、大宮御所にて蹴鞠見学。またまた買い物で西陣織を。二条城、西本願寺、東本願寺等を見学。寺に200円寄付すると共に貧民へも200円を寄付したという。翌日には三井寺と琵琶湖の唐崎を廻る予定なので、大津警察は警部11人、巡査153人を配置し厳重な警備体制を敷いていた。その他歩兵第6連隊から1000人から1500人を動員していた。
さて、翌日11日がやってきた。琵琶湖周辺の観光をして県庁舎で昼食後、午後1時半に出発した隊列は人力車100台の長い列だった。18m毎に巡査が道路脇に立つ。但し道路巾は4.5mと狭い。片側に側溝があり、巡査は片側のみ。下小唐崎町5番地には「津田岩次郎」宅前に巡査が立っていた。皇太子の車の前に先導車両が4台あったが、離れてしまいその距離は55mほど開いてしまった。巡査は通過する皇太子の人力車が通過する際に敬礼をし、その手を下ろした瞬間にサービルを抜き、人力車の右側に走り寄り皇太子の頭はに切りつけた。皇太子の車の後ろ押しをしていた車夫の和田(25歳)は、すぐに巡査に駆け寄り左わき腹を突いた。しかし、巡査は再びサーベルを振り上げ皇太子の頭にたたきつけた。皇太子は立ち上がって叫ぶ。前曳きの西岡大吉は車を止めた。そこで皇太子は車から飛び降り、頭を手で押さえながら走りだす。それを巡査は追う。ジョージ親王も車から降り、巡査を追い、持っていた杖で巡査の頭を激しく叩く。後ろ押しの一人向畑が巡査の腰にタックルした為、巡査は転倒しサーベルが飛んだ。皇太子の次の車のジョージ親王の後ろ押しの一人だった北賀市がそのサ-ベルを拾い2度巡査の背中に切りつけた。ここで先頭の警部たちが戻ってきて巡査に縄を掛けた。巡査の顔を見て驚く。なんと同じ区域の「津田三蔵」だった。ここまでが事件のあらましである。ロシア側は日本側の医師一切近づけず、皇太子を囲んで午後3時半には汽車で京都に戻った。事件直後ロシアの医官が水で消毒し白いさらし木綿を頭に巻いていた。この時皇太子が被っていた帽子は脱げて溝に落ちていたが、13歳の西村ツルが拾い、届けられ後に皇太子に戻った。帽子の横が4寸ほど切れていたという。さあ、大変な大事件発生だ。午後2時半、電報が東京へ飛ぶ。天皇は顔色を変えて驚く。ロシアが怒り、賠償請求、宣戦布告、領土割譲要求なのがあるかもしれないとして、宮中内は緊張し、大変のことになったと主要幹部が集められる。天皇は北白川宮能久親王(皇族代表)、池田陸軍軍医、高木海軍軍医の3人を京都に急遽派遣する。宮中では松方首相、主要大臣、皇族、枢密院総出の会議が開催された。天皇、皇后共に食事も就寝もせず。日にちが変わって午前1時、京都からの電報で「皇太子の容態は、傷は頭蓋骨には達せず、一つは長さ9cm、もう一つは7cmで、ご気分は確かなり」とのことで一安心した。この事件では25日に天皇自らが京都に向かった。午前6時半発、京都には午後9時15分着、ノンストップで東海道を汽車は走った。
問題は事後の処理だ。犯人は守山警察署三上村駐在所勤務の津田三蔵36歳、旧津藩の藩医の息子、西南戦争の熊本城包囲戦で怪我をして除隊。三重県の巡査になるが、上野警察署内の宴会で上司を殴り免職。その後滋賀県警に採用された。

さて、動機の解明だが、調べに対して津田は「警備に立っていて、急に逆上しました。一瞬眼がくらみ何をしたのか覚えていません」と答えた。因みに津田は後頭部の首筋に長さ4寸の傷を負っていた。全治4週間だった。滋賀監獄に収監され、精神鑑定も受けたが、異常なしとのこと。
さて津田への裁判だが、まず松方総理や元老院の伊藤らは、刑法116条、「天皇、三皇(皇后、皇太后ら)、皇太子に対して危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処する」と主張し、閣議でこれを決定してしまった。天皇の前に日本の天皇と書いていないから、外国の皇太子に対しても同じことだとの解釈なのだ。しかし、大審院長の児島は、「外国の皇族には適用されない。法律上不等となるが、でもよく研究しておきます」と回答した。そして児島は7人の判事を選び、彼らが大津地方裁判所で大審院の裁判を行った。この7人の出身は、裁判長が和歌山、以下、石見、彦根、松代、熊本、長州、薩摩であった。ここで政治家からの圧力が掛かる。法律学会からは116条は適用不可との意見も出た。もめにもめた裁判は6:1で無期懲役となった。津田は釧路集治監に入るが、9月29日に急性肺炎を発し死亡した。事件後たった4ヶ月後のことだった。
その後の関係者はどうなったのだろうか?ニコライ皇太子は後にロシア皇帝ニコライ2世となるが、1916年のロシア革命後、1918年1月に家族共々殺される。直前の写真だ。(写真:ニコライ皇帝家族)ニコライ皇帝家族
左からニコライ皇帝、次女タチアーナ、皇子ニキータ、右が皇太子アレクセイだ。
また、車夫二人の運命も不可思議だ。タックルした向畑は実は前科一犯だったのだが、次々と事業に失敗し無一文になり、71歳の時少女暴行傷害罪や賭博罪で政府からの勲章と年金が没収された。74歳で死亡。またサーベルできりつけた北賀市は郷里に戻り、田畑を買い、郡議員に1度当選したという。明暗を分けた人生だった。
松方総理はあくまで死刑にという考えで、山田法務大臣と西郷内務大臣を大津に派遣したにも関わらず死刑判決を得られず、この面では法曹界の正義が勝ったといえよう。この西郷内務とは西郷隆盛の弟だ。その後、西郷は児島に復讐を誓い実行に移す。大審院の判事たちが花札賭博をしたという噂が流され、児島は引責辞任する。しかしその後復職、貴族院議員、衆議院議員になった。日本で起きた外国人襲撃という大事件でした。