「新橋ステーション」

「さいたま歴史研究会―15」
「新橋ステーション」
日本最初の鉄道は、勿論ご存知の通り「新橋―横浜」間に敷設された。ではなぜ現在の「汐留」の場所になったのか?明治3年3月に着工したのだが、理由は既に東京の中心部は市街地化していたし、「上野広小路」も考えられたが同様で、旧藩邸が集まっていて新たに買収しなくても広い土地が確保出来るということだったらしい。汐留には北側から「龍野藩邸」(脇坂家)、次に「仙台藩邸」(伊達家)、南側が「会津藩邸」(松平家)と約30ヘクタールの土地が更地であったのだった。藩邸は元は幕府の土地だったが、明治政府の土地となっていたので問題がなかった。英国人技師たちにより、工事は明治3年11月に始まり汐留から横浜目指して線路が敷かれていった。明治5年9月12日新橋―横浜間が完成し開業、天皇が新橋―横浜間を往復乗車されたという。写真は安藤広重の駅舎と鉄道の絵だ。(写真:新橋ステーション)新橋ステーション
なお、東京中央停車場(東京駅)がアムステルダム駅を手本に完成したのは大正3年12月だ。同時に新橋駅は汐留駅となり貨物専門駅に、旧「烏森駅」が名称を今の「新橋駅」に変更された。開業時の駅舎は、洋風建築で今は汐留に再現されているが、当時のお金で5万7千300両掛かったという。資金はイギリスの銀行から100万ポンドを年利9%で借入れたそうだが、これは当時の日本円で435万円だったという。駅舎は明治4年3月に着工し11月に完成。鉄道工事を担当したのがイギリス人でトップの「トーマス氏」の給料は月600円、英国人技師は100円、日本人駅長は45円、国の鉄道局長が350円だったことから如何に高かったかが分かる。因みに当時の労賃だが、大工や石工で日給40-50銭だったというから、月額12円から15円が一般的だった。時速約20kmで走ったが、資料によると途中には品川、川崎、鶴見に駅があったようだ。この鉄道は東海道線となり、明治22年には神戸まで開通した。明治24年明治天皇が東京駅からノンストップで関西に向う事件が起きた。ロシアのニコライ皇太子殺害事件、所謂近江事件の発生に伴ってだったという。その時は全ての列車の運行を中止し、天皇陛下の乗られた汽車のみ全くどこにも止まらず走ったというから凄い。開業当初に話しを戻そう。新橋―横浜間には新橋発午前8時と午後2時の2往復が走ったという。料金は片道、上等は1円50銭、中等が1円、下等が50銭。だから高い。あちこちに話しが飛ぶが、狭軌鉄道となったのは英国がインドやビルマ、マレーシアで建設中の鉄道に合わせたというのが通説だが、私はどこかの本で当時のイギリスの古い機関車を処分するために日本に売り付けたという話しの方を信じる。なぜならば当時の欧米列強は兵器にしても随分えげつない商売をして古い品物を日本に売っていたからだ。英国人の技師たちは明治20年までに延べ754人が日本を訪れた。その中から何人かは日本人女性と結婚し永住したという。この当時明治政府の富国強兵策の元、主要幹線が次々と着工延伸されていったという。因みに上野―浦和間は明治16年に開通している。
ということで汐留を訪れた。発掘された駅舎を再現したホームと建物があった。(写真:ST1)

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プラットホームの解説をした看板があった。(写真:ST2)
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昔の発掘された本当のプラットホームは地下にあった。(写真:ST3)
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正面から見ると中々に立派な建物だったようだ。今のはコンクリートと石で出来ているが、当時は石版、石材を薄くパネル状にしたものを貼っていた。(写真:ST4)
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斜め横から観た建物。(写真:ST5)
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丁度駅の歴史展をやっていたのだが、会場は月曜日で休館日だった。