「さいたま歴史研究会―14」
「江戸のトイレ事情」
今回は江戸時代の大名屋敷跡の発掘が主題だった。旧新橋駅、即ち明治初期に始めて日本で鉄道が敷設された「新橋―横浜」間の最初の駅「新橋駅」周辺の発掘調査。伊達家の「仙台藩邸」と脇坂家の「龍野藩邸」跡だ。色々と日用品が出てきたが、その話しはこちらにおいて、トイレについて考えてみよう。まずトイレの便器には「埋め桶」、「かめ」、「桝」がある。場所は大名屋敷(多分旗本屋敷も)では、「内厠」か「張り出し」式、町長屋では外に、大店では「屋敷裏」か「空地」にトイレはあった。外の場合、小さな小屋の形式をしていたが、これが面白いところだが、西国では周囲全てを覆っている。即ち人が入っているのが見えない。東国では腰の部分の下しか板で覆っていない。即ちしゃがめば頭だけ見えるという訳。桝やかめの上に板を敷いた「ふみ板」か、床の部分に穴が空いている「ひばこ」という形が原則だ。そして糞尿を一旦溜めて、それを江戸近郊の農家が集めに来て、下肥として売却した。大切な肥料になったのだ。長屋では大家がこれを収入とした。勿論色々な長屋の費用にも使ったのだが。大名屋敷のほうが値段が高く、所謂入札式で売却したという。ところが戦後、進駐してきた米兵たちはこの下肥を見て、日本製の野菜は一切食べなくなったという。分からない訳でもない。だからエコ都市「江戸」は実に衛生的だったのだ。一方ヨーロッパではトイレは室内のかめに溜めて、翌日道路に放り出したというから汚い。花の都パリもそうだったというから、臭いパリから逃げ出して「ベルサイユ宮殿」を造ったとも言われているそうだ。ロンドンはテムズ川に投げ捨てられたという。だから江戸は綺麗だったのだ。
以前映画で観たのだが、西洋のお城のトイレはそのまま壁を伝って城外に流れ出ていたのを思い出した。自然放置式だね。史実として戊辰戦争の会津籠城戦では約1ヶ月、城にこもった会津藩士や庶民が最も困ったのが、糞尿の処理だったという。捨てる場所が全くなくなり、場内に放置したというから大変だったろうに。今回の勉強会は、M先生を中心にして男性5人、女性3人が集まり熱心に勉強しました。
「大手町周辺」
用事があり、久々に地下鉄東西線の竹橋で下車した。最初に就職した商社がここにあったので、毎日通った駅だった。今、その本社ビルは被いに包まれていた。(写真:竹橋にてM社ビルを観る)
新しく建て直すようだ。私が入社した1971年4月、その年の1月に完成したビルだから45年経っていたので、今が建て替えの時期なのだろう。合同庁舎の税務署に行き、日本橋まで歩いた。懐かしい。「鎌倉橋」から観ると、大手町周辺は新築ビルラッシュだった。(写真:鎌倉橋より)
高層ビルが次々と建てられていた。何か浦島太郎になってしまったような気分だ。ここは「鎌倉河岸」だが、思い出すのは佐伯泰英氏の時代小説「鎌倉河岸捕物控」だ。金座裏の十手持ち、金座とは江戸時代小判を鋳造していた所、今の日銀の場所だ。また鎌倉河岸というのは江戸城築城の折に石垣の石を運んだ人たちが鎌倉から来ていた人たちが集まったことから、地名になったという。さて常盤橋から日本銀行本店の前を通過。(写真:日銀1)
「円」の字のように建てられたのが日銀本店だ。なかなか立派な建物だ。(写真:日銀2)
日銀もぐるりと周囲を工事用の塀で囲まれていて、改築でも行われるのだろうか?
「保育園入園決まる!」
いやあ、助かった。長男の息子「蓮」君はこの3月で1歳だが、4月からの保育園への入園がどうなるのか、非常に心配していた。近くに祖父母がいれば、更に条件は悪くなる。しかし、私と妻は共に身障者だし、妻は要介護3だし、孫の面倒を見ることが出来ない。一方、息子達の住む豊洲地区は高層マンションが林立し、若い人たちの移住し、人口増加率でも多分都内トップクラスだろう。従って、保育園に入れないのでは?と心配していた。息子の妻は現在は産休後の育児休暇中だが、4月から保育園に入れないと更に育児休暇を延長しなければならず、収入面でも困った事態になるところだった。それが当面仮設のようだが、新設保育所が出来ることで入園が認められ、本当にほっとしている。早く待機児童完全解消に都は進んでもらいた。さて、15日朝もNHKラジオで放送していたが、アメリカのある科学雑誌の情報では、昨年日本で生まれた子供の平均余命は107歳だと言う。私の孫も平均値ならば2124年まで生きるということか?凄いね。