「坂本竜馬がいた」

「J  REPORT 2015 7月第5週」
「リタイアメント・ノート 7年1ヶ月目」、
「VOL。909 SINCE AUG.12th、1983」
「坂本竜馬がいた」
94歳の叔父が亡くなった。私の母の兄だ。小さい頃祖父母と叔父達は札幌にいたので、冬休みや夏休みになると母と妹と共に度々叔父の家には訪れたことがある。札幌郊外の家では大きな山が目の前にあった。夏でも午後3時を過ぎると寒くなるのに横浜育ちの私は驚いたものだった。父が当時読売新聞で連載していて愛読していた小説「猿飛佐助」を切り抜いて送ってきてくれたこともあった。冬は家の前でスキーをした。どれもこれも懐かしい思い出だった。叔父達が東京に移り住んだのが品川だった。中学の頃もよく遊びに言った。いとこが4人いたので遊び相手として同世代だったので都合が良かった。そんな叔父が亡くなり、通夜に向う京浜急行の立会川の駅を降りたら「坂本竜馬」の像が立っていた。土佐藩の下屋敷がこの近くにあり、ペリーの来訪時に竜馬もその黒船を観にこの地に立ったという歴史的な場所らしい。

「ブカレスト郊外」

「ブカレスト郊外」
7月14日(火曜日)最終日
朝から雨模様だ。今日は午前中は自由行動なのでホテルの近くの公園に行く。上手い具合に雨は上がった。木々が美しい。湖もあるし、何かゆったりとした気分にさせてくれる。2時間ばかり探索をして一度ホテルに戻る。午後からは帰国の準備をしてブカレスト郊外の教会に行く。その庭から湖の対岸にチャウシェスクの別荘が見えた。今は誰も使用していないようだが、1989年反共産革命まではチャウシェスクが別荘として週末に訪れていたらしい。ルーマニアでは共産党支配時代に造られた巨大な建物ばかり見せられ唖然としていたが、自由を叫ぶ若者たちが沢山亡くなったことを知り、如何に自由が尊いかを痛感させられた。革命広場に集まった若者とそれを銃撃した軍や警察の人たちは今どこにいるのだろうか?今、まだ共産党が支配している中国や北朝鮮は今後どうなって行くのだろうか?隣国だけに非常に心配な思いをさせられた今回の旅でした。
以上、東欧から帰国した勢古口がお送りしました。

「向日葵」

「向日葵(ヒマワリ)」
ブルガリアもルーマニアも共に向日葵が沢山植えられていた。向日葵油を採るのだが、一面の向日葵畑は実に美しかった。聞いたところではブルガリアの現地ガイドの話しでは平均賃金は月額500ユーロとびっくりするほど低いという。ヨーロッパでも最貧国がブルガリアであるし、それだから琴欧洲らの力士が輩出されたのだろう。ハングリー精神がないと相撲では大成出来ない。M君の調査によれば、ブルガリアの平均年収は1万2千ドルでルーマニアは1万7千ドルということらしい。すると現地ガイドの話しと違うが、どうもこれらの国では裏経済があり、統計に出てこない部分がかなりありそうだとの説だ。ギリシャも統計で嘘を付いていたから、これはバルカン半島では当たり前なのかも知れなかった。
「ギリシャ危機とユーロ問題」
ギリシャ危機は何とか乗り切れそうだが、統一通貨「ユーロ」はやはり問題を含んでいたことが判明したといえよう。大体通貨が各国別だということはその国の国力が違うから通貨が違い、その差を補えるのが為替変動なのに、統一通貨にすれば国力の差を為替変動で補えきれない。即ち強いもの勝ちになってしまうのは自明の理だったのだが、理想と現実の差がこれほど明確に示されてしまえば、ユーロの先行きは不透明だといえよう。EUには入っているが、通貨はユーロを使わないで自国通貨でいるのは、イギリス、ノールウェイ、スウェーデン、デンマーク等だが、これが正しかったのかも知れない。ユーロは理想で終わるのだろうか?

「知り合った女性陣」

「知り合った女性陣」
今回の旅の参加者は21名、内夫婦はたったの一組。残りは単独か友人かだ。写真は旅友達3人組の女性陣と我が友人のM君だ。3人組はどこかの旅で偶然知り合い、その後都合が合えば一緒に旅しているという川崎の2人と浦和の1人。非常に気軽に付き合ってくれて途中からバスの席と食事の席をご一緒することになった。
「台風」
帰国したら台風がやってきた。ブルガリアは気温35度以上、ルーマニアは気温25度、しかし乾燥しているので木陰では涼しかった。だが日本は蒸し暑い。早速クーラーを入れて過ごすこととした。それにしても今年は台風が多い。雨台風のようだが、まだまだいくつ来ることか。

「馬車と少年」

「馬車と少年」
ルーマニアでは沢山の馬車を見た。田舎の道路を人と荷物を載せて走っていた。写真はガソリンスタンドに立ち寄った親子連れの子供の一人だ。父親と弟がガソリンスタンドに寄り、恐らく灯油と思われるものを買っていた。やはり田舎の人たちは貧しいのだろう。小型トラックも買えないから馬車なのだろうと勝手に想像した。

映画「チャイルド44」(TCみゆき座にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年113作目)
原作は数年前に読んだが、面白かったが映画化も面白かった。1953年のソ連で起きた少年連続殺人事件に、秘密警察や密告者が絡んで複雑化したお話し。ソ連時代に生きた人々の苦労や生き様がよく描かれていた。

映画「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」(TC日劇にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★★(今年114作目)
人工知能を持ったロボットが逆に人類を滅ぼそうとする。それを防ぐのがアベンジャーズだ。まあ動きの激しいで目が疲れた。

映画「フレンチアルプスで起きたこと」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年115作目)
スウェーデンの親子4人が冬のフレンチアルプスでスキーを楽しむ。ところが昼食中の屋外レストランを雪崩が襲う。夫が逃げたと詰め寄る妻。その後彼らの関係は微妙な軋みを生む。そして吹雪のゲレンデに出て行くのだが、果たして何が起こるのか?

映画「アリのままでいたい」(ヒューマントラストシネマ有楽町にて) 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年116作目)
アリの目線で見た昆虫等の世界を描いたもの。面白かった。

日経新聞7月10日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「チャイルド44」が4つ星、「ルック・オブ・サイレンス」が4つ星、「ターミネーター ジェネシス」が2つ星、「ボヴァリー夫人とパン屋」が3つ星、「踊るアイラブユ」が2つ星、「ゾンビーバー」が3つ星、「リアル鬼ごっこ」が2つ星でした。
日経新聞7月17日夕刊の「シネマ万華鏡」の評価によれば、「サイの季節」が4つ星、「バケモノの子」が3つ星、「チャップリンからの贈りもの」が3つ星、「インサイド・ヘッド」が3つ星、「犬どろぼう完全計画」が3つ星、「海のふた」が3つ星、「戦場ぬ止め」が4つ星でした。

「私の去年2015年の映画の評価は?」あくまで私の私感ですからね!!
今年の★★★★★は、「ドラフト・デイ」「アメリカン・スナイパー」「博士と彼女のセオリー」「中島みゆき」「セッション」「ビリギャル」「あん」
今年の★★★★は、「ゴーン・ガール」「トラッシュ」「スパイ・レジェンド」「アゲイン、28年目の甲子園」「おみおくりの作法」「ビッグ・アイズ」「KANO」「深夜食堂」「シェフ」「パリよ、永遠に」「ソロモンの偽証」「くちびるに歌を」「イミテーション・ゲーム」「バードマン」「ギリシャに消えた嘘」「龍三と七人の子分たち」「駆け込み女と駆け出し男」「靴職人と魔法のミシン」「海街ダイアリー」「マッドマックス、怒りのデスロード」「愛を積むひと」
「アリスのままで」「雪の轍」「悪党に粛清を」「チャイルド44」「アベンジャーズ」
「2015 旅の記憶シリーズ」
2015年の国内旅行は、1月に福岡(博多)、大分(中津)、佐賀(武雄温泉)、岐阜(白川郷、)、富山(五箇山、氷見、高岡)、新潟(越後湯沢)、3月は長野(長野)、千葉(銚子)、5月は福岡(博多)、熊本(熊本)、佐賀(武雄温泉)、6月は不老不死温泉(青森)、弘前城(青森)、釜石(岩手)を訪れました。

2015年の海外旅行は、2月のアメリカ(ハワイ)、3月のウズベキスタン(61カ国目)、4月のメキシコ(62カ国目)、5月は2度目のバルカン半島(アルメニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツゴビナ、スロベキア)、7月はブルガリア(63カ国目)ルーマニア(64カ国目)でした。

「2015年 歌舞伎観劇シリーズ」第1回目=2月大歌舞伎(歌舞伎座)、第2回目=4月大歌舞伎(歌舞伎座)

「2015 本の記憶シリーズ」
「お情け戸塚宿」(小杉 健治 著)幻冬舎文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年154冊目)「仇討ち東海道」シリーズ第1弾

「夕影」(辻堂 魁 著)祥伝社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年155冊目)「風の市兵衛」シリーズ第15弾

「鮫島の貌」(大沢 在昌 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年156冊目)

「確証」(今野 敏 著)双葉文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年157冊目)

「酔狂の剣」(鳥羽 亮 著)ハルキ文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年158冊目)「八丁堀剣客同心」シリーズ第17弾

「黒羽」(誉田 哲也 著)光文社文庫 私的批評眼(J’CRITICAL EYE)★★★(今年159冊目)

「ブルガリア、ルーマニアの旅、後記」

「J  REPORT 2015 7月第4週」
「リタイアメント・ノート 7年1ヶ月目」、
「VOL。908 SINCE AUG.12th、1983」
「旅暦61、東欧の旅」
「ブルガリア、ルーマニアの旅、後記」
「ドラキュラ」
ルーマニアでは何といっても「ドラキュラ」の姿があちこちで見られる。この写真もその一つ。モデルとなった人物の顔だ。彼はこの地域の支配者としてオスマントルコ軍と戦った。そしてトルコ軍捕虜に対するその残酷な処刑が人々に恐れられ、やがてドラキュラと言う小説に描かれるようになったという。作家はアイルランドの人だから、実際にはモデルに会ったこともなかったろう。アイルランドに伝えられた残酷さがあの小説を作らせたということだろう。
ところで前回の「907号」でルーマニアの首都ブカレストを謝ってベオグラードと誤記していたことを指摘されました。疲れた頭でタイプしていたために間違えました。すみませんでした。正しくは「ブカレスト」です。

「チャウシェスクの遺産」

「チャウシェスクの遺産」
7月13日(月曜日)
ブルガリアの首都「ブカレスト」は大きな都市だ。朝、散歩に出掛けたが、放射状に広がる街で道がよく分からなかった。路上生活者の姿も見えた。共産党時代の古いソ連が造った建物(今は新聞社)があったが、ポーランドにあったのと同じような偉容?を感じさせようという意図がありありと見える建物だった。1947年にそれまでのルーマニア王朝が共産主義革命で崩壊し、それが1989年のアンチ共産主義革命で民主化されたのだそうだが、ホテルのサービスも含めてまだまだ資本主義化されておらず、共産党支配下のような感じだった。愛想がないというのが彼ら彼女らの姿だと思うのは私だけだろうか?ブカレストの中心街は共産党支配下時代の建物が多く残り、兎に角民衆に如何に共産党が強いかを印象付けるような大きな建物ばかりだ。革命広場にある建物からチャウシェスク大統領が自由を求める群衆にバルコニーから演説するが、危険を察知しヘリで逃げたが、夫妻は約100km離れた場所で捕まりその場で処刑されたことは今でも覚えている。チャウシェスクの象徴的な建物が「国民の館」(写真)で、これは世界第二位の床面積を持つ建物だそうだ。一番は勿論ワシントンDCの国防総省「ペンタゴン」だ。富と権力を一手に獲得していたチャウシェスクが去ったとはいえ、やはり国民の本当の気持ちが西側化するにはまだまだ時間が掛かるのだろう。街の大きさからいえば、明らかにブルガリアよりも大きいが、何か富裕層と貧困層の差はルーマニアのほうが大きいと思えてならなかった。それも建物の大きさで民衆を圧倒しようとする意図が顕著なのがルーマニアではなかろうか?と私には感じたのだった。これはブルガリアでは感じなかったことだった。さて、いよいよ「最後の晩餐」を迎えた。旅も明日一日を残すだけとなった。明日夕方にはバルカン半島を離れる。そして15日夕方には成田に戻る。東欧の国を二つ廻ったが、やはりキリスト教の影響が強いのと、地元のオーソドックスと言われる正教が深く根付いていることを痛感させられた。敬虔なキリスト教徒なのだ。皆十字を切り、石版に接吻し、最大限の帰依を示している姿は素晴らしいものだった。教会の絵画は文字を読めなかった当時の人たちへの布教のために描かれたものだが、これが我々日本の仏教布教と違う所なのだろう。仏教も念仏を唱えることが信心の基本なのだろうが、キリスト教も形式的になっているという意味では同じなのだろう。
以上、ブルガリア、ルーマニアの旅の途中報告でした。

「ルーマニア正教会」

「ルーマニア正教会」
7月12日(日曜日)
ブラショフ市内の「聖ニコラエ教会」、「ブラン」という街の「ブラン城」、「シナイア」という街の市内観光をしてから、ブカレストに向かう。やはり印象的だったのが、日曜日とあって「聖ニコラス教会」や「シナイア僧院」でのミサだった。聖ニコラエ教会では荘厳な雰囲気の中、信者が集まり、聖書を読むというより歌うように唱える男性の声、それに信者たちは供物を持参し、入口で右手をまずは額に、次に真下に下ろし胃袋、更に右肩、左肩と十字を切る。カソリックとは順序が違う。これを連続して3回行い、前に進む。その内、金色の衣を着た年寄りの僧侶が焼けている炭が入っているような入れ物を持って信者の前を歩きながら、炭の粉をまき散らす。信者は僧侶の衣を触り、その恩恵を授かりたいとしているようだった。ここは写真撮影禁止なのでご覧にいれられないのが残念だ。ルーマニア正教会の日曜日ミサを観て体験できて非常に貴重な一時だった。また、シナイアの僧院ではミサの開始を告げるために、修道士が木の板を担いでそれを叩きながら歩く姿(写真)も印象的だった。更にブラン城はドラキュラのモデルになった伯爵が住んでいた城だ。多くの観光客が訪れていた。この国の観光の目玉の一つがドラキュラだから仕方がないのだが、ドラキュラ目当ての観光客が多いのにははっきり言ってびっくりさせられた。ドラキュラ様、様だ。ルーマニアの観光は「ドラキュラに始まりドラキュラで終わる」と言っても過言ではないだろう。トランシルヴァニア地方の山脈を越え、平原に戻ると周囲は「向日葵」「トウモロコシ」「小麦」「牧草」の畑が延々と続く土地が広がっていた。ルーマニアはワインが有名らしいが、ホテルで飲むワインは値段も高く、味もさほどではなく、ちょっとがっかりしたが、旅行中だから仕方がないなあ、と諦めています。ブルガリアに比べればユーゴスラビアは工場や大型ショッピングセンターも確かに多い。だが乞食やジプシーもいるというので治安が不安だ。

「ルーマニアはドラキュラの国」

「ルーマニアはドラキュラの国」
7月11日(土曜日)
午前中、「ビエルタン」という更に北の街で、この地方「トランスヴェニア」の要塞聖堂を観に行く。この地方は昔ドイツ人が移住してきた土地で最初はドイツ人のカソリック向けの教会が建てられたのだが、後に宗教改革でドイツ本国がプロテスタントになったため、この教会もプロテスタントの教会に模様替えしたという。また、1989年の革命後、多くのドイツ系の人たちはこの地を離れてドイツに戻ったので、そのあとに住み着いたルーマニア人はドイツ洋式の建物にそのまま住んでいて、街はドイツの中世の街の雰囲気を漂わせていた。物乞いもいたので、この辺はブルガリアとの差かも知れない。本日は結構強行軍だ。更に北に行き、「シギショアラ」の旧市街地を歩いた。中世がそのまま残る伝統的なヨーロッパの姿を色濃く示している街だ。その後出発点のブラショフに戻り「黒の教会」を観た。何のことはない。普通のゴシック様式の教会が火事で炎を浴び、煤で黒くなったため、それまでの「ヴァージン・マリア教会」が通称「黒の教会」と呼ばれるようになったとのこと。何か馬鹿らしい。旅ももう第4コーナーに掛かろうとしている。黒の教会で夕方コンサートがあるというので一部の人たちは教会に残ったが、私はホテルに戻り、これを書いている。そうそう話し忘れた。シギショアラという街はドラキュラ伯爵の伝説がある街で、伯爵が産まれたといわれている家があったり、「ドラキュラ」という名前のレストランで「ドラキュラの心臓」なる料理を食べたりもした。ご存知の方もおられようが、伯爵がトルコ軍に対して非常に残酷であったために、その話しが元になりアイルランドの作家が「吸血鬼ドラキュラ」を出版したのが世に広まったのだという。心臓料理のほうは、なんてことはない「赤いパプリカに挽肉を詰めたもの」(写真)だった。ブルガリアの気温が35度以上だったのに対し、ここブラショフでは23度と低く、朝などは肌寒かった。この寒暖の差はなんなのだろう?また土曜日ということで結婚式が多かった、歳は聞かないが、私が観た3組は30歳前後からその上だったと思う。晩婚化がここでも進んでいるみたいだった。

「ブルガリアは薔薇の国」

「ブルガリアは薔薇の国」
7月9日(木曜日)
前日は上海市場からの株価下落の影響で東京株式市場も全面安になったようで、持ち株の動きが心配になる。WIFIのほうはこちらのホテルではパソコンもスマホも無事に繋がり、メールも問題なく通じた。午前9時ホテル出発して、「カザンラク」という街にある「トラキア人の墓」に行く。紀元前3世紀頃のもので内部の壁画がこれもフレスコ画で描かれており、素晴らしいものだったが、勿論世界遺産だが、実は公開しているのは複製で実物は見学禁止だった。まあ「高松塚古墳」のようなものだと思えばいいだろう。知らなかったが、ブルガリアは「薔薇の生産」が世界的にも有名だとのこと。特にローズ・オイル、所謂「薔薇油」の生産では世界一でその4分の3がブルガリア製だというのだ。驚いた。薔薇の花を5月から6月にかけて収穫し、約3トンから3.5トンでたったの薔薇油1kgにしかならないという。勿論薔薇の花を蒸気で蒸して出た蒸気を冷却し、水と油に分ける。こういった工程を何度か繰り返すことにより純度の高い薔薇油が採れるという。この時合わせて薔薇の水も採れ、これを原料にしてお菓子やリキュール、ジャムなども作られるという。昔は薔薇油1gが金1gに匹敵したという。勿論香水の原料になるものだ。副産物としては化粧水や石鹸が生まれるらしい。さて次は薔薇製品の店(写真)だ。ここで皆さん沢山の薔薇から作られた土産品を買い求めていた。その後丘陵地帯をひたすら走る。大きな「向日葵」と「ラベンダー」の畑に出会った。一面の「向日葵とラベンダーのお花畑」は本当に美しかった。「タルノヴォ」という昔のブルガリア王国の首都へ行く途中で「エタル」という山間の村に「野外民族博物館」なるものがあり、そこを見学。電気のない時代の物の生産はどうやったのか?がテーマの博物館だった。要は川に沿った村では水力を利用して、水車を回して粉を挽いたり、ろくろを回して陶器や木工製品を作ったり、水力洗濯機でカーペットの洗濯をしていたということを見せていたのだ。タルノヴァには周囲3kmの城壁に囲まれた城があり、12?13世紀、ブルガリアの首都だったという。今は経済大学がある人口7万人ほどの中程度の都市だ。山間にそびえ立つ城は迫力満点だった。ホテルでネットに繋げようとしたが繋がらない。スマホだけロビーに持って行ったら繋がったから部屋では電波が弱過ぎるようだ。ネットが部屋で使えないというのは本当に困る。明日はどうなるのだろう?ネットが繋がるホテルだといいが。
7月10日(金曜日)
早朝、起き出してロビーに行き、スマホとパソコンをネットに繋ぐ。成功しました。メールを受信し返信し、その後歩いてお城まで出掛けた。片道約10分の下り坂、空気が澄み切っていて気持ちいい。気温は恐らく17?8度位ではないだろうか?歩くとちょっと汗ばむ。北上し「イワノヴォ」という街に向かい、岩窟教会なるものを観る。切り立った崖に中腹に穴を掘って作った教会でここにも内部の壁画が有名らしい。次は国境を越えてルーマニア位に入る。何とか首都のベオグラードに入ったが、ここから大渋滞が始まった。高速道路なし、抜け道なしで延々と続く渋滞に巻き込まれてしまった。ルーマニアは人口1900万人、国土の広さは日本の本州と同じくらいだというが、ベオグラードを抜ければ郊外は田園地帯ばかりだ。週末のために郊外に行く車の列には閉口する。ルーマニアとブルガリアのどちらが豊かなのだろうか?驚きは農村地帯で数多くの馬車を見掛けたことだ。それもちゃんと荷物を運んでいるのだ。これは車を買えない貧しい農民だからなのだろうか?牧場には羊や牛や馬が沢山いた。また石油が出るらしく、リグも動いているし、化学工場もあった。冬の暖房用の太いパイプが道路沿いに走り、庶民の家を暖かくするという。如何にも寒冷地らしいものだった。これも共産党時代のものらしい。この国は1989年の革命で共産党が滅び、チャウシェスク大統領夫妻が殺された事件はよく覚えている。バスでの移動中は渋滞だったが、逆に雨が降っていて視界を遮ったが、ホテル到着時には雨も止んでいた。しかし予定を大幅に遅れており、午後9時過ぎにホテル到着。すぐその足でレストランに入って食事となった。白ワイン50レイ、日本円で約1500円だったが、全く冷えていなかった。最初、白ワインのボトルを頼んだら、500レイだという、これだと1万5千円だ。全くおかしいので問い詰めると間違いで50レイということになった。さて、部屋ではネットは通じず、レストランでスマホが繋がっただけだった。ネット環境はよくない。結局パソコンのメールチェックは出来ずじまいだった。明日以降にベオグラードでやるしかないだろう。だが朝ロビーから接続出来ました。