「回向院」

「回向院」
両国にある回向院は徳川家の菩提寺の一つ「増上寺」の末寺である。「諸宗山無縁寺」として明暦3年(1657)の大火、所謂「振り袖火事」で焼死溺死した十余万人をはじめ、天明3年(1783)の浅間山噴火、文化4年(1807)の永代橋落下による横死者や、行き倒れや自殺者、獄死した者たちを埋葬し、無縁仏の寺として五千余坪を保有する有名な寺である。数年前に長野「善光寺」の出開帳があり、訪れたことがある。また50歳の時に出向後転籍したD社が回向院の隣のビルにあったので多少縁のある寺なのだろう。ということで再び訪れた。台風一過の暑さに南の湿った空気が混ざり本当に暑い日だった。(写真1:回向院門前)

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(写真2:回向院山門)
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境内には暑さにも関わらず、何人かの人たちが来ていた。山門を潜って直ぐの左手に「力塚」という大きな石があった。(写真4:力塚)
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周りの小さな柱には昭和初期の時代からの力士の名前が刻まれているところを見ると力士たちが寄贈したものなのだろう。「双葉山」の名前も見える。(写真3:双葉山)
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「玉錦」「男女山」と読めるのもある。(写真5:玉錦)
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回向院の境内では江戸時代から勧進相撲が行われていたということの証しだろうか?
「愛犬供養」とあった碑の上で猫が寝ていた。可笑しかった。(写真6:愛犬供養碑)
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墓地の一番奥に仏様が鎮座されていた。(写真7:仏像)
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野晒しだからちょっと可哀相だ。さて、本日の目玉は実は「鼠小僧次郎吉」の墓なのだ。ありました。一応屋根の下にあった。墓石の前に白い石がある。昔から次郎吉の墓石は博打打ちには勝負事に勝つと言われ縁起がよいとされ、墓石を削って持ち帰る人が多いという。そこで今は墓石の前に削ってもいい石を置いていて、これを削ってくれと書かれた札もあった。次郎吉は「義賊」と呼ばれていたと思う。まあ庶民の味方だったのだろうか?(写真8:次郎吉の墓)
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墓石を見ると「俗名 中村次良吉」とある。「天保二年八月十八日」が命日なのだろう。(写真9:墓石)
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帰りがけに気がついたのだが、お地蔵様の前に塩が積まれていた。「塩地蔵」だという。(写真10:塩地蔵)
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これはどういう意味なのか?分からなかった。
さて、「勧進相撲」について少し説明しよう。年に二回の十日間興行で開催された。幕府が財政難から寺社を支援することが難しくなり、寺社奉行の許可の下、勧進のために相撲興行を認めたもので、回向院で行われる相撲は大人気を博したという。但し、相撲は女子は見物出来なかったという。「男尊女卑」の時代の典型だった。
「女人禁制」というのでは一部の「山」もそうだ。例えば「富士山」も女人禁制の山だった。実はこれには理由がある。「山ノ神」は古来「女神」とされ、人間の女に嫉妬するために、女は山に登ることが出来ないのだ。変な伝承だ。