「連合艦隊司令部跡」

「さいたま歴史研究会-12」
新年度最初の会でした。3S会の他の二人はマスク姿で風邪気味。私はと言うと点滴したばかりの病院帰り。何とも様にならない3人でした。今回のM先生のお話しは我が母校の日吉校舎地下にあった「連合艦隊司令部」跡だ。太平洋戦争も戦況悪化し本土空襲も常態化していた最中、我が連合艦隊は昭和18年4月には山本五十六長官が戦死、19年3月には古賀長官も戦死。そこで台地にあり、通信事情もよく、東京と横須賀に近いという利点がある日吉の丘が選ばれ、そこに地下基地が建設され、今も残っているのだった。19年6月のマリアナ海戦で日本軍の空母は虎の子の3隻全てが沈没しほぼ海軍機は全滅だった。同じ6月にはサイパン島玉砕、9月グアム、テニアン玉砕、太平洋の制空制海権を全て失った。そんな頃、国内ではいよいよ連合艦隊司令部の移転が始った。既に大学生の徴兵猶予は18年10月になくなり、20歳に達した大学生が徴兵されていた。19年9月から着工された掘削作業は10月の本隊進駐に間に合うようにと突貫工事が続いた。トンネルを掘り、厚さ45-55cmのコンクリートでトンネル内部を覆い、その強度は素晴らしく強く、70年を経た現在でも安定した強度を保っているという。総延長は不明だが900-1000mはあると思われる。ここに豊田司令官、幕僚、下肢間、通信兵ら約400名がいたと思われる。しかし戦況の悪化に歯止めがかからない。フィリピンでの闘いで遂に日本軍は海軍は「神風隊」(じんぷう)を、陸軍は「石腸飛行隊」を組織する。所謂「特攻隊」だ。10月15日初めて出撃し、米空母1隻、巡洋艦1隻を沈没させ、空母1隻に火災発生させるという戦火を挙げた。12月レイテ沖海戦で完敗。事実上連合艦隊は壊滅した。そして沖縄戦が20年3月から始まる。この頃までには米軍の艦隊護衛は完璧となっており、特攻隊は殆ど戦火を挙げられず、突入する前に撃滅されていたという。既に「戦艦武蔵」なく、「戦艦大和」への出撃命令が日吉より発せられた。4月7日午後大和撃沈。戦死者3332名、生存269名。一方米軍側の資料によると米軍側被害は、120機の特攻機による体当たり攻撃で艦船の沈没29隻、死者3048名、負傷者6035名とあるから、被害の多さも際立っている。この時日本軍は海軍機1439機、陸軍機954機が突入したとの記録もある。約1400機の日本軍機が発進し120機が突入したというのだ。真偽のほどは分からないが最初に特攻を命じたのは誰か?という疑問は未だに解明されていない。それは特攻隊員は「自発的志願」ということにされていたからだ。自ら望んで志願して特攻に赴いたというのだ。しかし第一海軍航空部隊「大西滝次郎」中将は「操縦技能が未熟で、空中戦、艦船攻撃に劣る者は、爆弾を抱えた特攻攻撃戦術しかない」と判断して組織化していったという。因みに大西中将は終戦時に割腹自殺している。私も学んだ母校の日吉の丘の地下には今も当時のまま地下道網が張り巡らされている。戦争の記憶は消してはならないと思う。春、「ハナカイドウ」が咲いていた。(写真:ハナカイドウ)
ハナカイドウ
71年前の沖縄、本島に上陸した米軍との戦いは6月25日まで続いた。戦艦大和は沖縄本島の海岸に乗り上げ座礁し、砲台として戦う予定だったという。
不思議なのはこれらの地下トンネルの真横の地下を「東海道新幹線」が通っていることだ。