「南町奉行所跡2」
JR有楽町駅の東側、ITOCIAのあるほうの広場の一部に嘗ての「南町奉行所」の塀になっていた石が掘り出され置かれている。余り知る人も少ないのだが、有楽町駅前東側一体が南町奉行所跡であるということの証拠なのだ。現物は地下にあったらしいが、あの有名な大岡越前守も住んでいた奉行所がここにあったということは何となく感激的な思いを呼ぶ。奉行所は奉行の私邸でもあり、半分は私邸、半分は公邸となっていた。奉行は月番の時は毎日千代田城に通い評定を行い、帰宅してから判事の仕事もしたから激務だったらしい。(写真:南町奉行所跡)
江戸幕府は面白いものでほぼ一つの役に二人が付いていた。奉行で言えば、「南町」と「北町」がそれで、それぞれ月毎に月番を交代しながら奉行所を運営していた。チェック&バランスということなのだろうか。遠国奉行の最たるものは「長崎奉行」だが、これも二人いて、毎年交代で江戸と長崎に勤務した。交代されることで不正を防いだのだろうか。家康からの考え方らしい。因みに町奉行は旗本の最高位でその後は閑職の「大目付」で引退したという。譜代大名は町奉行にはならない。代わって「京都守護代」、「勘定奉行」、「若年寄」、「老中」が出世コースだったという。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?82」
「江戸の米」
11代将軍「家斉」(いえなり)治世の時代、即ち19世紀初頭の江戸は人口100万人の大都市だった。この為江戸には200万俵を越える米が入ってきていたという。その内訳は、幕府米が50万俵、藩米が53-54万俵、残りの100万俵弱は旗本や御家人の知行地から年貢として納められたものの一部であったという。(写真:米蔵)
そしてそれらの米は玄米だったから、市中の米屋は玄米を精米して白米にして販売した。(写真:米屋の店先)
だから江戸の庶民は白米を食べていた。米どころの米産地のお百姓は白米など食べられなかっただろうに、江戸では誰もが白米を食べていたというから不思議と言うか面白い。そこで起こったのが「江戸患い」というものだ。今で言う「脚気」だ。白米ばかり食べるからビタミン不足となり脚気となる。だから参勤交代の武士たちは地元に戻ると白米を食べなくなり脚気が治った。だから「江戸患い」なのだ。では江戸市民はどうしたかというと「蕎麦」が食べられることでビタミン不足を補ったという。だから江戸では「蕎麦」が流行った。正に江戸は蕎麦の文化なのだった。これも必然か。