ドイツの旅

「J REPORT 2011 10月第3週号」
「リタイアメント・ノート 3年目4月目」 「VOL.709 SINCE AUG. 12th、1983」
「旅暦35 ドイツの旅」
10月11日(火) 第1日目
全日空の成田<~ュンヘン便12時間のフライトで日本時間の12日午前0時5分に「ミュンヘン」に到着した。成田では勿論ANAラウンジに入って「ヌードル・バー」で蕎麦を食べ、お握りを摘む。漸く「旅行へ行こう」というモードに入った。昨年3月のイタリア、6月のチュニジア以来のヨーロッパだ。ドイツには調べてみたら1994年の春に「ロマンティック街道の旅」に来ているので観光としては2度目だ。今度の旅も過酷な移動の旅みたいだ。このツアー、人数が34名と非常に多いし、中高年といっても実質高齢者が非常に多いツアーのようだ。さて、到着後1時間20分でバスに乗ることが出来た。いつものことながら時差対策で私は機内では寝ていない。持ち込んだ文庫本を4冊読み終えた。ミュンヘンからバスで2時間、南の「フユッセン」へとひた走る。ホテル到着は日本時間の午前3時半。途中一時眠気もあったが、どうにか堪えていたらもう眠くなくなってしまった。飛行場で水とサンドウィッチを買ってきたので持参してきたウィスキーを飲みながら、この文章を書いている。そうそう、インターネットで席の蘭???O日にしたのだが、通路側の席が取れなかったので、成田のANAのカウンターで席の変更を垂オ入れたら、アップグレードした「プレミアム・エコノミー席」に替えてくれた。ラッキー。ちょっと広めの席だから助かったが、相変わらず窓際だった。満席で通路側は一杯だという。でも仕方ないか。ミュンヘンからのバスの中からは夕日と夕焼けが美しかった。東の空にはほぼ満月の月がこれも光り輝いていた。現地時間午後7時には暗くなった。フユッセンのホテルではシャワーのみだし(注:私には問題ないが)、まあ早く寝るかな。

10月12日(水) 第2日目
朝は7時頃から漸く明るくなってきた。テレビで「ブロードウェイ・ミュージカル」の「THE REAL LOVE」という番組を放送していた。驚いたことに画面上になんと20カ国の言葉で字幕が出ていた。勿論日本語も韓国語も中国語もあった。正に驚き。さて、出発前にロビーにあったパャRンでインターネットに接続しようとした時、驚くなかれ、ドイツのパャRンのキーボードの入力文字位置が違うのだ。Yが通常のXの位置にある。一瞬固まった。よく見てみるとYとXの位置が入れ替わっているのだ。戸惑った。多分ドイツ語での使用頻度の問題なのだろう。話し変わって車は総じて当然ながらドイツ車が多い。その中で健闘していた日本車は「マツダ」だった。ここバイエルン州は地元「BMW」の本拠地でもあるから多いのは当然としても、「日本車ではマツダが頑張っているなあ」と感心させられた。ドイツの高速道路「アウトバーン」での運転も皆さん危ない恐ろしい運転をしていた。車間距離が極端に少ない。危険運転がざらだった。それよりもアウトバーンに平行して走っている地道の車のほうが速いとはどうなっているのか?自転車道が整備されているのには今更ながら感服でした。さて本日のメイン観光は「白鳥城」即ち「ノイシュバンシュタイン城」だ。1994年の来訪の時の美しさに比して何か衰えたような気がした。「ヴィース教会」を観て、ライン川沿いの街「レーバンスブルググ」の大聖堂を訪れる。ここはローマ帝国の駐屯地で北の蛮族と相対していた最前線の基地だったところだ。ライン川沿いの南側の都市は全てローマ時代の駐屯地といっても過言でない。ローマ人は駐屯地と駐屯地、そして首都ローマとの間に「ローマ街道」を敷設し、いつでも大軍を移動できるようにしておいて、敵に対処していた。どこかに北方の蛮族(今のドイツ人の祖先)が進入すると、すぐさま近くの駐屯地から軍隊が当時の高速道路「ローマ街道」を使って移動し防衛にあたったし、必要とあればローマからもすくに軍隊が派遣されてきた。だから「点が駐屯地で線がローマ街道」だったのだ。もう一つローマ軍の特徴は現地の人たちをローマ軍に入れてローマ市民権を獲得させ、ローマ化するという手法だ。こうしてどんどん領地を広げるなんて頭がいい。さて更に移動して「バンデルベルク」まで到着。「ブルグ」とは「城」「砦」といった意味らしい。南ドイツは酪農が盛んで放牧地、牧草地が一面だ。北に来ると家畜の飼料用の「とうもろこし畑」や「ビート畑」も出てくるが、周囲は「と牧草地と農耕地」が混在するのが基本的な環境だ。主食の「ジャガイモ」も当然栽培されている。このジャガイモの歴史というのは意外と最近で、スペイン人が南米から持ち帰ったものが、18世紀に入ってからドイツに持ち込まれ栽培が盛んになったという。今ではドイツ人の主食だ。さて村の中心には教会があるのは、ヨーロッパの基本だ。南ドイツはカャ潟bクだという。本日の移動距離は450km近くに上りました。強行軍ですね。8時に目的地到着。しかし、ひと騒動がありました。このツアー、やはり海外旅行経験豊富な方々ばかりの集まりだ。皆さん、全世界を回られている方々ばかりだ。偶然途中の白鳥城で一緒になった阪急旅行社の方々は「五カ国」を回るという。ドイツはフランクフルトからロマンティック街道、そしてオーストリアのウィーン、スイスのジュネーヴ、フランスのパリ、イギリスのロンドンだという。これも駆け足のピンポイントだけの観光だから中身は薄そうだ。「兎に角行ってきました」という旅だなあ。我々は「よくばりドイツ周遊10日間」という名前の旅だ。ドイツ全土を回るが、移動距離が凄いのでバスに乗り続けるのだ。そうそう大事なことを忘れていた。白鳥城では観光のために5分毎にグループツアーが入場するのだが、同じ時間帯に集まったのは、日本人グループ3、アメリカ人グループ1、中国人グループ1、個人客少々といった割合だった。流石「中国パワー」恐るべし、ヨーロッパを席巻しつつある。最近はどこへ行っても中国人観光客ばかりだから現地の人も我々日本人を見て「ニーハオ」と声をかける始末。21世紀は中国の世紀なのだろう。さてわがツアーはお客が34名に添乗員の女性が一人。内、3人組が2つ、一人旅が男女合わせて4人、その他が二人組だ。旅の当日に新婚さんカップルのキャンセルが入ったというから本来は36名のツアーだったそうだ。当日キャンセルと聞くと「成田離婚」?などと思ってしまう。毎日バスの席は前から順繰りに後ろへと移動していく方式だそうだが、以前は不満が出ない様に座席浮??Y乗員が作っていたこともあった。だが自動車事故があった時に怪我をした人から、「こんな席に座らせられたから怪我をした」とクレームがあったので、座席指定は止めたという。まあ、理屈をこねれば、こねられるが事故との因果関係とはちょっと酷い話しだ。

10月13日(木) 第3日目
世界遺産の「バンベルブルグ」(勿論ローマ軍の砦だったところ)市内観光の後280km離れた「ドレスデン」に向かい、奇岩で有名な「バスタイ」経由でドレスデン旧市内を観光した。ここドレスデンは第二次世界大戦末期の空爆で破壊尽くされた街で、最近漸く修復が完成に近づきつつあるという場所だ。ドイツ人らしい精神力で元の町並みや建物に戻そうとの涙ぐましい努力の末だという。同じ敗戦国として心痛む出来事だった。1945年2月の大空襲では10万人の人が死んだというから、まさにその一月後の東京大空襲に匹敵する損害があったということだ。ドイツは丘陵地帯が延々と続く。今日は南から北上しているのだが、どこを見ても牧草地か農耕地、そして小さな集落と森が続くだけだ。そんな中に「風力発電」の風車が立ち並ぶ。また新たな建設も各地で行われていた。東日本大震災と福島原発からドイツは「脱原発」を掲げた。自然エネルギーへの移行を早めている。風力発電も丘陵地帯が続くドイツだから出来ることで、山が海岸線に迫っている部分が大半の日本では安定した風は得られない。従ってドイツ並みの風力発電は無理だということだ。その辺も日本の政治家は果たして理解しているのだろうか?疑問符が付く。脱原発ということが日本で可狽ネのか?議論の余地がある。さていよいよ旧東ドイツに入った。

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