日本橋百年

「J REPORT 2011 11月第2週号」
「リタイアメント・ノート 3年目5月目」 「VOL.712 SINCE AUG. 12th、1983」
「日本橋と古地図」
日本橋が100年目を迎えたそうだ。石造りの現在の橋になって100年だという。中々立派な橋だが、東京オリンピックの際の高速道路作りのために川の中に橋脚が立てられ、橋の面影は一遍してしまって現在に至っている。道も川もその筋は江戸時代と変わっていない。ここ日本橋は江戸の中心として、五街道の出発点として、現在では基準点として、その役割は変わらない。先週の半蔵門から日比谷にやってきてそのまま南町奉行所の横を通り抜け、今の銀座通りを左折すると、その周辺は全て町屋だ。当時は「なになに丁」という名前が付けられていて、日本橋まで両側2ブロックづつ合計4ブロックが町屋となっていた。因みに銀座4丁目の南側(新橋側=今の銀座5丁目)は当時は「ヲワリ丁2丁目」、銀座通りを北上すると「ギンザ丁4丁目、3丁目、2丁目」となり「京橋」を渡ることになるのは今も昔も一緒だ。京橋から日本橋まではブロック毎に町の名前が変わって行く。余りに細かく町名が記されているので紹介は止めておこう。さていよいよ「日本橋」だ。橋を越えた右側が「本舟丁」となっていてここが「魚河岸」だ。江戸時代、一日千両稼ぐのは「魚河岸」「吉原」「歌舞伎」とされていた。江戸の台所がここ日本橋にあった訳だ。日本橋から神田明神に至るまでの広い地域が町屋となっている。今の日本橋から神田、浅草橋方面は民家が立ち並んでいた訳だ。話しはちょっと変わるが、時代劇に出てくる「切り餅」と言われるお金の包みがあることはご存知だろう。実はこの切り餅は「25両」で一包みになっている。中身はと言うと一両小判ではなく、その4分の1の「一分金」という板金が100枚入っていたのだという。これで25両になっていて大概はそれを包んだ両替屋か大店の封印がしてあり、25両を証明していたという。「切り餅」一つで25両、4つで100両、40個で1000両だ。一両は銭の相場にもよるが、大体現代の価値では8万円から10万円と言われているから、千両とは8千万円から1億円だったといえよう。1両を持って外出して、買い物をするにしてもお釣りが来ないので1両は余り利用価値が有ったとはいえないから、「1分金」即ち2万円から2万5千円は高額貨幣としての役割はそれなりにあったといえよう。

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