「古地図と隅田川」

川というのは文明を支える重要なものであることは古今東西変わっていない。昔「大川」と呼ばれていた今の「隅田川」も江戸時代の重要な文化形成を担っていたという。川を上流から下ってくると河口部分にあるのが「佃島」だ。徳川家康が江戸入りした際に大坂から連れて来た漁師を住まわせ、白魚を獲らせる独占権を与えたという。この島によって川筋は二つに分かれる。左手に行くと「富岡八幡」「永代寺」等があり、その先に「三じゅう三間堂」があったという。このお堂の跡地は今は公園になっている。川岸の町は今の「永代町、牡丹町、古石場」がそれだ。更にその先、現在の東陽町付近は、「久右衛門丁に家居ナシ、寛政ノ初高潮ノ後町屋取払ニナル」と記されていて一帯が何もない浜辺になっていたと思われる。私の住む「塩浜」は隅田川を明治以降に埋め立てたものであることが分かる。また河口から右手に行くと今の隅田川と全く同じで明石町の前を通って築地へと通じている川筋だ。明石町には今の「聖路加タワー」があり、その前を大川が流れていた。この大川を上流へと上る。特徴的なのは「両国橋」の両側が「両国広小路」と呼ばれ、西広小路も東広小路も江戸で浅草奥山と並ぶ繁華街として栄えていたらしい。更に上流には「蔵前」があり、ここは年貢米のお米の大集積地だ。その先は「浅草寺」があり、その北側には「新吉原」があった。浅草は今もそうだが、日本でも有数の歓楽街だ。江戸時代は地方から来た人たちの観光地ナンバーワンがこの浅草だったそうだ。写真は「勝鬨橋」から上流を眺める。左手が新川、正面の橋が中央大橋、右手が佃島だ。

「廃藩置県」
第二のクーデターと呼ばれた廃藩置県は、明治4年(1871年)に行われた。「王政復古」で「大政奉還」した徳川幕府だったが、各地の藩はそのまま残されていて「お殿様」は何も変わらなかった。それが遂に「藩」がなくなり、明治政府の直轄となった。これにより藩主の部下だった「武士」たち約200万人が失業した。これだけの大量の失業者が出たことは社会不安をもたらす。薩摩の西郷は武士階級の救済を訴えた。これが後の「征韓論」に繋がり、「西南戦争」になって行くのだ。一方、経済面でも大きな影響があった。大名家は大坂等の大商人から「大名貸」や、地元商人からの「御用金」、そして藩が出す「藩札」という「債務」を負っていたが、この処理が大問題となった。そして明治政府が取ったのが、天保14年(1843年)以前の債務は「棄損令」が当時出されていたので全て支払いしないこととした。また弘化年間(1844?1847)の債務は、利子なしで50年割賦返済、それ以降のものは利率年4%で25年割賦返済とした。これにより大坂の商人たちはたちまちにして倒産となったという。勿論江戸の商人も大打撃を受けたのだろうが、当時は大坂のほうが経済力があったから影響は大坂のほうが大きかったようだ。まあ酷い話しだ。江戸時代は商人の力が強くなるほど、こういった棄損令は何度か行われたようだが、経済力のない「武士階級」が取れる手段は債務をなしにする程度のことしか残されていなかったということなのだろう。所謂「封建時代」、領主が土地と人と富を支配するという体制が崩壊したのが、この「廃藩置県」だった。

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