「東京ゲートブリッジ再び」

その日は寒かった。自宅から歩いてJR東雲駅まで小一時間。その先に「東京ゲートブリッジ」があった。まだここからだと1km以上は離れているが、上を走る車も見える。橋の下は「中央防波堤」という名が付いたゴミ捨て場だ。東京湾は区画を区切って「ゴミ処理場」としてゴミの捨て場となり、やがてそれが満杯になると上に蓋が乗せられた形で新しい地面が出来る。こうして徐々に埋立地が広がって東京湾は狭くなっていく。江戸時代も徳川家康が入府した当時は海は日比谷だったそうだし、上野のお山近くまで海岸が迫っていたという。それを埋め立てでどんどん広げていったというから、今も昔もやっていることは同じだ。神戸市も六甲山の山を削った土で海岸を埋めて平地を作っていった。山の上にはニュータウン、埋立地には高層住宅とオフィース、そして神戸空港となっている。六甲山をぶち抜いてトンネルも作った。さて東京ゲートブリッジより更に海側に新しい埋立地が出来るのはいつのことになるのだろう?都市で出るゴミは一向に減らないから、意外に早く埋め立てられるかも知れない。

「古地図ブーム」
江戸時代の古地図が小さなブームとなっているようだ。NHK・TVでやっている「ブラタモリ」もその一つだ。さて日本橋は昔から街道の起点となっていた。今も橋の袂に「道路元標」がある。江戸時代は、日本橋が出発点となって五街道が設けられていた。「東海道」「甲州街道」「中仙道」「奥州街道」「日光街道」がその五街道だ。奥州街道と日光街道は宇都宮までは同じ道で宇都宮で分離し左右に分かれた。ところで話しは日本橋のような橋のお話しなのだが、「大坂」は江戸時代から「八百八橋」と言われる「水の都」だった。事実、橋の数は八百を越えていたという。八百八とは沢山あるということの比喩だ。一方、お江戸は「八百八町」と言われる巨大な都市だったのだが、この江戸、実に川や掘割、運河等が網の目のようにあったために実際の橋の数は2000を越えていたという。特に大川の東側の本所深川などには本当に沢山の橋があったようだ。それらは古地図からも、伺い知る事が出来る。橋といえば江戸時代、深川の富岡八幡様の例大祭の人出で混みあっていた「永代橋」が落ち、1500人以上が死んだ大事件があったという。当時の江戸の人たちは殆どの人が泳ぎが出来なかったらしく、水死したという。地方の人で海辺や川筋に住む人ならば水泳も出来ただろうが、昔はプールもないわけだし、大半の人は泳げなかったそうだ。武士は武芸の一環として水泳術を学ぶ人もいただろうが、漁師とか船乗りならいざ知らず、一般の庶民はそんなことをする暇もなかったのだろう。

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