麦秋至

「J  REPORT 2013 6月第1週号」
「リタイアメント・ノート 4年12ヶ月目」、
「VOL。796 SINCE AUG.12th、1983」
「江戸の盛り場、両国」
江戸時代、「両国橋」の袂は江戸時代最大の「盛り場」の一つだったという。両国橋の「東詰めと西詰め」には色々な小屋があったりして庶民で多いに賑わったという。もう一つ江戸では「浅草奥山」も多いに賑わった。今の「浅草六区」だ。「見世物小屋」「矢場」「芝居小屋」「食べ物屋」」等々があり、「大道芸人」も沢山いたというから、どの時代にも庶民の楽しみ方は一緒なのだろう。今、両国には「国技館」、「回向院」、「江戸東京博物館」、「吉良上野介屋敷跡」などがあるが、盛り場としての雰囲気、面影は残っていない。学校も「日大一中、一高」、「安田学園」などがある文教地区でもある。写真は江戸時代の「両国橋」の絵だ。多くの人が行き交っているのが分かる。この橋を中心にしての「両国の花火」も江戸時代の風物詩だったといえる。古地図によると花火師の「たま屋」や「かぎ屋」などもこの両国に住んでいたのが分かる。「本所松坂町」の「吉良邸」跡地はかの「忠臣蔵」、「赤穂浪士の討ち入り」で有名な場所だが、当時は約2500坪ほどの大きな屋敷だったというが、討ち入り後幕府に没収されてなくなり、今はその内の「首洗い井戸」跡を中心にして小さなナマコ塀を巡らせた跡地が保存されているだけだ。

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